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結人の指先が、長い髪の隙間を滑る。
何も感じないはずの髪の毛を、愛おしくて仕方のないものみたいに撫でて、キスをされるだけで切なくなった。
「鈴葉、もっと、自分のこと、好きになれよ」
「自分の、こと……?」
「俺のこと、アイツの代わりじゃなく、ちゃんと『俺』として向き合ってくれたように、鈴葉は誰の代わりでもない鈴葉で、それでいいんだよ」
「結人……」
誰の代わりでもない鈴葉。
私自身が、それを受け入れられずにいた。
でも、誰かの代わりになんて、結局、誰にもなれるものじゃない。
だけど今更、自分を好きになんて、なれるのかな。
泣きそうになって結人を見上げると、あからさまににっこり、爽やかに笑う。
……嫌な、予感がする。
「じゃ、いただきます」
「……えっ!? ち、ちょっと、結人!」
私に向かって両手を合わせ、一礼すると、私の首筋にかぶりつくように唇を這わせる。
指先はシャツの中にもぐりこみ、肌の上を滑りながら、器用にシャツを脱がしていく。
「だ、だめっ!」
「大丈夫。俺が、どれだけ鈴葉が可愛いのか、教えてやるよ」
それ、どういう意味……!?
流される前に、なんとかしなくちゃ。
なのに、思いとは裏腹に、指先に上手く力が入らない。
「何してんだよっ!」
結人と同じ声が、いつかと同じ台詞と動作で私を助けてくれる。
だけど、今回は怒りに任せて殴るなんてことはせず……だけど、襟元を掴んでいる両手のどちらかが、結人の頬をいつ殴っても不思議じゃないくらい、ギリギリのところで止まっていた。
「オマエ、マジでタイミング悪すぎ」
「うるせぇ。これ以上、鈴葉に近づくな」
同じ顔、姿、声。
最初はありえない景色だと思っていたけど、今ではそれなりに見慣れたもので。
にらみ合う彼らは鏡のようだけど、やっぱり違う。
同じ器を持っていても、『違う』んだ。
「いつから鈴葉はオマエのものになったんだよ。まだ、返事ももらってねぇくせに」
「……関係ないだろ」
「関係あるね。少なくとも、まだ俺が負けてないってことだろ。鈴葉は今、俺とオマエの間で迷ってる、な?」
いきなり話を振られた私は、急いでシャツの前を両手で合わせると、首を左右に振った。
疑うような眼差しになってる岩城に向かって、特に強く首を振る。
「つーか、ホントは自信ないんだろ? ゲーテが言ってたぜ、やっぱり心配だから残らせて欲しいって頼み込んだんだって? 鈴葉が俺を消さなかったから、ちょっと疑ってんだろ」
「それは……そもそも、鈴葉、お前が甘すぎるんだよっ」
「あ、私!?」
そういえば、岩城は先に帰って待っていると言っていたはずだ。
結人が言ってることが本当だとしたら……。
信用されてないのだと落ち込むと同時に、なにより岩城のご指摘どおり、安心させてあげられない自分の甘さ加減に嫌気がさした。
結人の襟元から手を離した岩城が、私のほうを向いて溜息を吐く。
「だいたい、一度じゃなく、二度もこんなことってあるかよ」
怒りを押さえ込んでるのが伝わってきて、気まずくなって俯いた。
「オマエさぁ、そんなふうに鈴葉のこと責められんの? てめーだってもうひとりの鈴葉と好き放題やっちゃったんだろ? あれだけ長い時間一緒にいて、食わないわけないもんなぁ?」
「お前と一緒にするなよっ」
「濃厚なキス見せ付けてたくらいなんだから、鈴葉だってコレくらいのことしたっていいじゃん」
肩を抱き寄せられて、私は慌てて結人を突き放した。
良くない、良くない、やったからやりかえすとか、そういうの、ダメ。
だいたい岩城があんなことしたのだって、私と結人のこういう現場を見てしまったせいもあるんだから。
岩城の様子を伺うように顔をのぞき込むと、今度は岩城のほうがばつが悪そうに瞳を伏せた。
瞬間、ちょっとだけあのふたりのキスシーンが脳裏に浮かび、自分のことを棚に上げて、怒りが込み上げてくる。
それも次に岩城の冷たい視線を向けられるまでのことで。
「鈴葉は……どうなんだよ」
「えっ」
「コイツのこと、本当はどう思ってるんだよ」
くいと顎で結人のほうを指すと、結人も結人でその答えを待っている。
「や、そ、あの……結人がいなかったら、私は今ここにいなかったかもしれないし、だから、その……」
まったく見当違いなことを言ってるのは、自分でもよくわかってる。
「そうじゃなくて、好きか、嫌いか、どっちだよ」
詰め寄る岩城に、私は肩をすくめた。
「嫌いじゃ……ない。あ、でも、好きでもない! っていうか」
「もう、いーよ。そういうの、お前ら帰ってからやってくれよ」
結人への気持ちを、岩城に上手く説明できないまま、結人に言葉を遮られて、私は開いたままの口を仕方なく閉じる。
結人はベッドから降りると、岩城の肩に手を置いた。
「じゃあ、勝負しようぜ」
「……何の」
「鈴葉の世界が終わるまで、どっちが先に鈴葉の処女を奪うか、勝負だ」
私も岩城も一瞬目を丸くして、同じく言葉を失っていた。
「なんだよ、自信ねぇの?」
挑発的に目を細める結人に、岩城は一度私を見つめてから結人を睨み返した。
「わかった」
「そうこなくっちゃ、な」
今、今、今、岩城、何て答えたの……!?
「え、え、ちょっと待って、待ってよ。どういうこと……?」
何だかわからないけど、笑いが込み上げて、頬が引きつる。
「夜這い的不可抗力の襲い方は、ナシで。けど、まぁ本人の同意がなくてもOKってことで、どうだ?」
「そんなルールありかよ」
「鈴葉って、キスまでは簡単にさせてくれるけど、案外貞操観念は強いみたいだし、オマエにとっても悪くない条件だと思うけど」
って。
ふたりで私を見つめる目が怖い。
「じ、冗談でしょ、ひとのそういうコト、勝負の対象にしないでよっ! 絶対イヤだからねっ!!」
「最悪、3Pもありってことで」
「それはねぇよ」
「だーかーらーっ、ふたりとも、聞いてる!?」
声を荒げると同時に、私はシャツのボタンが外れていることを忘れて、ベッドに両手をついた。
「ずいぶん騒がしいな」
突如響いたその声に、ここにいた三人全員が彼を見つける。
「すず、は……?」
「……お兄ちゃん!?」
目が合って、彼の視線が私の胸元に降りて表情が一変する。
「な、何してんだ!? お前たちっ!!」
岩城に結人との現場を見られたときより、いっぺんに血の気が引いて冷や汗が噴出した。
急いで彼らに背を向け、私は必死でボタンを留める。
「お兄ちゃん、何もしてないからっ! だからっ」
「何もしてなくて当たり前だろっ! とにかく、お前たちは出て行けっ!!」
真正面から言い訳しようと口を開いた岩城を、愛想笑いの結人が引っ張り、もみ合いながらも戸口から出て行ったのが見える。
そんな彼らを見送った兄は、私を睨んで頭を抱えた。
しばらく辺りをうろうろ歩き回って、大きく息を吐き出した。
「本当に……何もされてないのか?」
「うん、されてない。大丈夫だよ」
「じゃあ、何で、そんな格好してたんだ?」
「それは、その……ちょっと気分が悪くて、苦しかったから」
苦しいのは、私のこんな言い訳のほうだ。
まさか彼が、こんなところに現れるとは思ってなかった。
「まったく……あれくらいの男は、歯止めが効かなくなることがあるんだから、自分の身体は自分で守らなきゃ、だめだぞ。あれじゃあ、いつでも襲ってくれって言ってるようなもんだろ」
「……うん。ごめんなさい」
実際、襲われそうになって……というか、最初は結人に襲われたのだけど、そんなこと言えない。
「誰とも付き合うなとは言わないけど、心配させるな」
眉根を寄せたまま、私の頭をぐりぐりと揺らして戒めるような視線を送ってくる。
私は俯いて、頷いた。
「鈴葉、バスケ、何時に終わるんだ?」
「あ……えっと、大会前だから7時半くらい、かな」
「じゃあ、それまで待ってるから、一緒に帰ろう」
顔を上げると、微笑む兄がいて。
もし、生きていたなら、現実にこんなこともあったんだろうか、なんてことを考えた。
優しかったけれど、現実ならヒーローみたいに、こんなにタイミングよく現れるはずがないのに。
泣き出しそうになるのを堪えて、私も笑った。