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file6-4

「すっかり正気に戻ったみたいだな」


 教室に戻ろうと階段を足早に降りていると、正面から声を掛けられた。

 顔を上げると、制服を着崩した結人がズボンのポケットに両手を突っ込んで立っている。


「ゲーテに強姦されたって?」

「それは、ない!」


 強く否定すると、わかってるよと笑われた。

 結人のいる踊り場まで降りていくと、彼はつまらなさそうにあたりを見渡す。


「これが、鈴葉の言ってた学校で、あの教室にいるヤツらがクラスメイトか。何か、面倒な世界だな」

「でも、これが私たちのごくフツーの日常だよ」


 いつか、結人に言われた言葉をそのまま返す。

 見上げた結人の表情が、急に柔らかく歪む。

 まるで、岩城みたいに。

 そして、表情とは裏腹な強い力で抱きしめられた。


「ゆい……」


 離れようとして腕を掴んだものの、無駄な抵抗だと諦めて、私は手を下ろした。

 横を通り過ぎる灰色の影が、こっちを振り返りながら階段を上っていく。


「どうして、俺はこの世界に残留できたわけ?」


 腕の力を緩め、私の顔を覗き込んで聞く。


「さしずめ誰も消したくなかったとか、そういう話だろうけど」


 どことなく自嘲気味の結人に、私は首を左右に振った。


「それだけじゃ、ないよ。結人は、特別」

「特別……? なら、悪くないね」


 ジャージを取りに戻るところだったと結人に話し、ふたりで教室に向かう。

 岩城じゃなく、結人と並んで学校の廊下を歩くなんて、やっぱり不思議。

 建物自体は変っていないはずなのに、もとに戻ってきたかのように世界は一変した。


「アイツに、上手く話せたのか」


 あの夜の話。

 まだ、ちゃんと報告していなかった。


「……うん」

「あ、そ」


 素っ気無く、予想していたのか、表情も変えない。


「それでも、俺はまだ、鈴葉にとって特別なわけ?」


 前を向いたままの結人を見つめながら、私はうんと頷いた。


「音楽の教育実習の先生、見た?」

「あぁ、何かその肩書きはよく知らないけど。この世界で、ちゃんとした姿かたちをしてるヤツは少ないからな。目に付いた」

「あれが、私の、兄」

「うん」

「本当は、三年前に死んじゃってるんだけど」

「……うん」


 そのことを知らない誰かに、こうして話そうと思ったのは初めてで。

 わざわざ言わなくても友達付き合いに支障はないし、聞かれることもなかった。

 そして聞かれる隙を、絶対に作らないようにもしていたのだけど。


「ピアニスト、目指してて、音楽の大学に行ってて。海外留学が決まってたんだけど、交通事故で、死んじゃった」


 本当に、それは突然だった。

 朝、笑顔で家を出たはずの彼は、冷たく固まった身体で家に帰ってきた。

 口を開かない、まるで人形みたいに眠ったまま。

 見ただけでは怪我も傷もほとんどわからずに、すぐにでも目が覚めそうな様相で。

 ただ、彼に触れたときの、生きているものではない温度に絶望した。


「だけど、私ね……あのひとのこと、大好きだったけど、同じくらい大嫌いだったから、どこかでほっとしちゃったんだ」


 打ち明けたことのない気持ちを吐露すると、身体が小刻みに震える。


「悲しくて、辛かったのに、このひとがいなくなったら、やっと私も開放されるんだって、嬉しい気持ちが、ほんの少しだけ、あったの」


 最低だ。最悪だ。

 誰かが消えてしまうことを、喜ぶなんて。

 立ち止まってしまった私の手を、結人の手がそっと握った。

 顔を上げると、どれだけの罪悪感を抱えながら私が話しているのか、まるで気付かないみたいに表情を変えず、結人が私の手を引いた。


「俺は、誰かが女王陛下に消されるたびに、俺じゃなくて良かったって思ってた。まぁ、状況は違うのかもしれないけど、そういう気持ち、あるヤツだっているんじゃねぇの」

「だとしても……私は……自分のことが、許せない」


 思わず結人の手を強く握ると、同じように握り返してくる。

 手を引かれるまま、私は結人の後をついていった。


「お兄ちゃんがいなくなったら、お母さんが私のこと見てくれるって思ってた。だけど、お母さん、お兄ちゃんが死んだことを受け入れられなくて、ひどく落ち込んで……もちろん、私のことなんか、もっと目に入らなくなって。だから、お兄ちゃんに近づけるように髪も切って、ピアノもまた始めた。少しでもお母さんの心が癒えるなら、私、何でもしようって決めたの」

「それで、母親は喜んだの?」

「うん……たぶん」


 誰も弾かなくなったと嘆く母を見て、兄の存在があるがために嫌いになってやめたピアノに触れ、彼がよく弾いた曲を、下手でもいいから弾く。

 その私の後姿を、怜みたいと弱く微笑む母がいた。

 伏せることが多くなった母のために、バスケもやめて家に一緒にいるようになった。

 そんな状況に耐え切れなかった父は、転勤願いを出し、単身赴任を買って出た。

 そして私に、母を頼むと告げて、家を出て行った。


「だから、アイツとも、付き合えなかった?」


 声は出さずに、こくりと頷く。

 岩城のことだって大切だったし、考えなかったわけじゃない。

 でも。


「付き合うとか、それどころじゃなかった。自分のことで、精一杯で……だから、岩城には、本当に悪いことしたって思ってるし、それは、この前の夜、ちゃんと話した」

「それで?」

「わかって、くれた。返事は、待ってもらってる」


 何の返事なのか思い当たるのか、結人はそれ以上何も聞かなかった。

 ふと結人の足が止まり、目の前の教室のドアを開く。


「……って、保健室?」


 気がついて口走った私をよそに、結人はぐいぐい私の腕を引っ張っていく。

 開け放たれたカーテンの向こうにある簡易ベッド、その上に私の身体を放るように押し倒した。


「ちょ……な、何っ!?」


 私に馬乗りになった結人は、緩んでいたネクタイを外し、ジャケットを脱ぐ。


「いろいろあったからおあずけ状態になってたけど、もう、いいだろ?」


 語尾は優しく、そして私のシャツのボタンに手をかける。

 それを阻止すべく、私は結人の腕を掴んだ。


「待って! 待って、今、そういう場面じゃないでしょ!?」

「そういう場面って何だよ。俺は俺で、いろんな意味で限界なんだよ」

「じゃなくてっ、私の話、ちゃんと聞いてた?」

「聞いてたよ。何、まだ続きあんの?」

「あるーっ! まだシリアスな状況で結人に話しておきたいことは、たくさんあるのっ」

「じゃあ、終わってからでいいから」


 心底面倒くさそうに、それでもニヤついた表情は隠さないまま、結人は私の手を振りほどき、次々と馴れた手つきでボタンを外した。

 そして、抵抗する私の手首を掴んでベットに押し付け、額にキスをする。


「結人、真剣に聞いてっ」

「いーよ、いーんだってば。俺は、鈴葉にどんな過去があって、どれだけ辛い思いを抱えてきたか知らねぇし、知ったところで嫌いになるわけないし。どんな理由があって髪切ったとか、アイツの告白断ったとか、はっきり言って、どーでもいいの」

「そんな……」

「俺は、目の前にいる、鈴葉のことが好きだ。それだけじゃ、だめなのか?」


 真っ直ぐに私を見下ろす瞳に、決して嘘はない。


「ホントは、ふたりを見守るいいヤツに成り下がろうと思ったけど、やめた。アイツはこれからも鈴葉と一緒にいられるんだろうけど、俺の生存期間はあとわずかだからな」

「でも、私……」


 そのことは、十分わかってる。

 だから、岩城にはまだ話せないことを、結人には打ち明けて、知ってもらおうと思った。

 結人のおかげで、岩城と分かり合えたことも、この世界で助けてくれたことも、沢山ありがとうと言いたくて。

 そして、結人の気持ちに応えてあげられないことも、ちゃんと伝えようと思っていたのに。

 

 岩城のことが好きだから、こんなことはできない。


 そんな私の台詞を予想したみたいに、結人の唇が私の口を塞ぐ。

 この世界に来て、結人に出会って、岩城とのギャップに戸惑いながらも押しの強さに流されるばかりで。


「鈴葉」


 声だって、岩城と同じはずなのに。

 結人に名前を呼ばれると、岩城より胸の奥がざわめくのは、どうしてなんだろう。




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