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file6-3

 階段を駆け上がると、クロネコが音楽室の前で待っていた。

 私の姿を確認すると、わずかに開かれた鉄の扉の中に消えていく。


「あれ……」


 既視感。

 足を止め、私は辺りを見回した。

 何も変わらない、だけど何か違う校内。

 いるはずのない、ネコ。

 部活があるのに、こんなところで、私は何をしてるんだろう。

 いつもの、音楽室。岩城はそんなことを言ったけど。


 にゃぁ。


 ネコが私を呼んでいて、混乱する頭の中はそのままに、音楽室の扉を開く。

 奥のピアノ室には、まだ誰もいない。

 いつもギターを弾いてる男子も、今日はいない。

 クロネコは教室へ繋がるもうひとつの扉を開けろと言わんばかりに、私の足元とドアの前を行ったりきたりしながら、最後に私の顔を見上げて、もう一度鳴いた。

 いや、鳴いたんじゃない。


「扉を開けて。子猫ちゃん」

「……ゲーテ?」


 そうだ、私。


 記憶が巻き戻されていくと同時に、私は銀色に鈍く光るドアノブを廻し、重い扉を開く。

 グランドピアノに黒板、並べられた机とイス。

 窓の向こうにあるはずのグラウンドと住宅街の景色は、深い森とそれを包み込むような灰色の霧がどこまでも続いていた。

 そして、ガラスに映るのは、髪が伸びた『現在いま』の私。

 額に嫌な汗が浮かび、こくりと息を飲む。

 と、教室の後ろにある扉から現れた人影に、息がつまりそうになった。


「鈴葉」


 少し高い位置にある視線が私を見下ろし、私と同じ形の瞳が一度驚いたように見開いてから、柔らかいカーブを描き笑う。

 もとより彼のほうが女の子みたいな童顔で、よく似た兄妹だと私たちは近所でも評判で。

 だけど「出来が違う」とも言われていた。

 いや、言われていたのには原因があって。

 それを近所に吹き込む家族がいたからで。

 会いたかったはずなのに、こうして顔を合わせたら、憎しみが湧いてくるのはどうしてだろう。

 それ以上に込み上げる逆の感情を押さえ込み、唇を噛むのに、そんな私の気持ちなんて知る由もなく、彼は微笑んだまま近づいてくる。


「……お兄ちゃん」


 彼の姿を目の前に、そう呼ぶのは何年ぶりだろう。

 まぼろし、虚像。

 なのに、彼は確かにそこにいて、明確な「彼」の意思を持って私を見つめてる。

 私によって創り出されたはずなのに、そばに寄るなと念じても、どうやら通じないらしい。


「これから、バスケだろ?」


 彼は自分の右手で左の肩を揉みながら、疲れたと溜息を吐き天井を見上げる。


「先生って大変だな。まぁ、音楽なんて、ちゃんと受けようって構えてる生徒も少ないから楽だけど」

「どうして、先生になんか……」

「父さんがさ、ピアニストなんて氷山の一角的な職業もいいけど、いざという時のために教職も取れって。でも、高校の音楽教師だって、採用試験もそれなりに難しいだろうし、なかなか需要も少ないと思うんだけど。って、この話、日本に戻った日にしなかったか?」

「そう、だっけ」


 首を傾げて彼は笑う。

 三年経った設定だろう彼は、優しい雰囲気はそのままに、どことなく精悍な顔つきになっていた。

 それも、私が頭のどこかで想像していたものなんだろうか。

 不意に彼の手のひらが、私の頭をぽんと撫でた。


「最近、ピアノ弾いてるか?」

「……うん。たまに」


 嘘。

 本当は、毎日、練習してる。

 あなたに、近づけるように。

 髪に触れた手のひらから、ぬくもりが伝わってくる。

 たとえ幽霊でも夢の中でもいいから会いたいと、密かに思い続けていた人が、目の前で微笑んで、私に触れた。

 ただ、それだけなのに。


「鈴葉……?」


 私の異変に気付き、こっちを覗きこむ彼から顔を逸らし、背を向ける。

 じわりと浮かんできた涙を、何度も瞬きすることで、瞼から零れるのをなんとか堪えた。

 振り切って立ち去ればいいのに、それが、できない。


「変だよ、こんなところにお兄ちゃんがいるなんて」


 どうしたらいいんだろう。

 やっと、会うことができたのに、そんなことしか言えない。


「せいぜい一週間だから、我慢してくれよ。あと、一応俺、『先生』だから、学校でお兄ちゃんはナシ、な?」


 私を追い越し際にそう言って、『先生』はグランドピアノのイスに腰掛ける。

 そして、私を手招いた。


「久しぶりに、一緒に弾こう」

「えっ……」

「ほら、昔弾いてた得意のレパートリー、覚えてるだろ」


 鍵盤の蓋を開けると、誘うようにこっちを見ながら、懐かしいメロディを弾き始める。

 誰でも知ってるきらきら星の変奏曲。

 ちゃんと譜面を見て連弾したのは、この曲だけだった。

 早くと急かされて、とりあえずお兄ちゃんの右側に立つと、一人掛けのイスの半分を分けてくれようとする。


「無理だよ」

「いいから、座って」


 わずかに触れるか触れないかのところでイスに座り、始まっている曲に合わせて私も鍵盤に指を置く。

 ひとつのピアノで四つの手が奏でるメロディは、いつもアンバランスで。

 だけどこれは誰かに聞かせるためじゃなく、私たちが楽しむための遊戯。

 きらきら星変奏曲は、途中からトトロメドレーに変わる。

 私が生まれたときから、六つ年上の兄はすでに上手にピアノを弾いていたと思う。

 常に家の中にはピアノの音が響いていて、彼を見て育った私もまた、彼のようになりたいとピアノに手を伸ばした。

 彼のようにすぐ上手に弾けるものだと思っていたのに、当然、そうはいかなくて。

 癇癪を起こして彼の練習を邪魔する私に、こうして一緒に弾く楽しみを教えてくれたのは、他ならぬ兄だった。

 耳馴染みのある曲の簡単なメロディを私が弾いて、彼が伴奏したのが始まり。

 それから私の上達に合わせてアレンジを加え、今のように、互いの手をクロスしてみたり、邪魔しあったり、最後はどこまで早弾きできるかスピードを上げたり、じゃれるように連弾するのがとにかく楽しかった。

 トトロメドレーのあとは、最後にエレクトロニカルパレード。

 久しぶりのメロディに指がおぼつかない。

 それをわかってる彼が、曲のスピードを上げた。


「早いっ!」


 必死になって叫ぶ私の横で、笑い声が聞こえる。

 いつの間にか私も、頬が痛くなるほど笑っていた。

 あの頃の、ピアノが楽しくて仕方なかった幼い頃に戻ったみたいで。

 息も弾み、汗も滲む。

 ラストスパートのエンディングは、ふたりともイスから腰を挙げ、相手のミスを誘いつつ、自分が音を外しては笑う。

 最後はふたりで顔を見合わせ、同じタイミングで鍵盤を押した。

 ひとりでも同じように曲は弾ける。

 でも、私がピアノを好きだったのは、こうしてふたりでしか楽しめない演奏があったから。

 わけもなく、ふたりとも笑い転げた。

 幼い子供が意味もなく笑いながら走り回るみたいに、ただ純粋に、ふたりで『弾く』ことが面白い。

 時が過ぎてしまった今でも、その感覚は変らなかった。


「あー、こんなにめちゃくちゃなことしたの、久しぶりだな。けど、鈴葉、上手くなったな」

「そんなこと、ないよ」

「そうだ、ここにいる間に、ふたりでちょっとレベルの高い曲、練習しようか」

「え?」

「で、母さんに聞かせんの。そうしたら、連弾解禁になるかもしれないし」


 私は返事に困って、とりあえず笑った。


「けど、バスケの試合も近いんだったよな」

「あぁ……うん」

「昼休みは、バスケの練習あるのか?」

「ううん、そこまではしてないよ」

「じゃあ、昼休み、練習しよう。何曲か選んどくから」

「い、いいよ、そんなの。お兄ちゃんだって、自分の練習しなきゃならないでしょ?」

「それは家で嫌なほどさせられるんだから、大丈夫」


 このひとは、いつもこうやって、私の味方だった。

 きっと私がどんな気持ちでいるのか、わかってくれている。

 でも、それがあの頃の私は悔しくて、素直に受け入れることができなかった。

 そして。

 そのまま、彼は世界から姿を消したのだ。

 何の前触れもなく、突然に。

 不意に夢から覚めたように現実に戻され、高揚していたはずの心が、しっとりと冷えていく。


「じゃあ、俺、これからレポート書かなきゃいけないから、行くよ。鈴葉も、バスケ頑張れよ」


 夢は、まだ覚めてない。

 長い夢は、まだ始まったばかりだ。

 彼の背中を見送って、私も音楽室を出た。



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