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「却下」
胸の前で腕を組んで、冷淡な瞳で私を見下ろしながら、ゲーテはあっさりと判決を下す。
「なんで!?」
「そんな適当に考えたような薄っぺらな望みを叶えられると思ったら、大間違いです」
「適当!? う、薄っぺら!? これでも一晩中考えたんだからっ」
「無駄な時間を消費しましたね、残念です」
哀れむように微笑むと、そのままふうと息を漏らす。
「まったく、今いる存在たちを消すことなく、日常生活を送りたいだなんて、なんともつまらない、妄想とも呼べない、ただの想像。それも、女王様に奴隷、メイドに執事、BLや百合に、バイオレンスもミステリーも性R指定も性転換キャラも含まない、かといってハイテンションコメディーでも昼メロドラでもなく、萌えも愛も青春も無視した平凡な生活を望むなんて。空想遊戯保護区管理人の名が廃ります」
「だから、もうそーゆーのは、懲り懲りなんだってば!」
「なんと管理人泣かせな人なんでしょう」
「私の前で嘘泣きされても、困るんですけど……」
燕尾服の袖で涙を拭くフリをしていたゲーテは、その向こうからじろりと私を睨む。
「だって……まぁ、もうひとりの私は面倒だから、その、消してもらいたいんだけど。でも、林田さんは元の世界に戻りたくないって言ってたから、このまま残ってもらうとして、春日さんだって、今は林田さんの良き相棒だし、助けた私としては、ここで私が消すのはどうかと思うし。そもそも、今いる誰かを消すとか、そういうの、良くないと思う」
この場所が「そういう世界」で「実在していない存在」というのは、重々わかっているのだけど。
わかっていても、できないことって、ある。
「そうなれば、二股をかけている岩城結人も消せませんね。となると、ですよ、ホンモノの岩城くんも、気が気じゃないからここに残ると言い出すかもしれません。さて……どうしたものでしょう」
言えないと思っていたことを言い当てられて、私は口篭る。
簡単に二股なんて言い方をされるのは嫌だけど、結人と、このままで終わってしまうわけにはいかない。
昨日の夜、岩城の部屋から戻り、結人の部屋をノックしても、返事はなかった。
ドアには鍵が掛けられていて、私は自分の部屋に戻るしかなくて。
今日一日、今までと変わらず岩城の世界の住人として、私たちは仕事を終え、夜が来た。
ほんのわずかな時間、結人とふたりきりになったのだけど、彼のほうからは何も聞いてこないし、私もこれが最後になるなんて思うと、何をどこからどうやって話したらいいのかわからないまま。
そして、今、明日から切り替わる私の世界について、ゲーテに伝えなきゃならない期限がきたのだ。
誰もいない、がらんとした食堂に呼び出され、これでも一晩寝ずに考えたことを告げたというのに、ゲーテにあっさりと却下される。
「優しすぎる鈴葉さんの、本当の心はどこにあるのでしょう」
本当の心? 何のことだ。
「もとい、優しい仮面を被った、オオカミ少年をも遥かに越える大嘘吐きな鈴葉さんの本心は、どれだけ捻じれて歪んでしまっているんでしょう」
「それ……どういう意味」
「ご自身が、一番よくご存知でしょう」
ゲーテに大嘘吐きと言われる覚えはない。
でも、何もかも見透かしているような態度に、気分が悪い。
「とはいえ……何度こうやってきみの本当の望みを聞きだそうとして、挫折してきたことか。ぼくから強制的に一部を提供することはできますが、それではプレイヤーを完全に満足させられたとはいえませんし、だからといって、まるで強姦のごとくきみの中の欲望を貪ることも出来なくはないのですが……さらに、鈴葉さんの機嫌を損ねてしまうことには違いありませんから」
淡々とよく喋るゲーテの瞳が、「強姦」の部分からいやらしく変化したように見えたのは、気のせいだと思いたい。
「ぼくとしても、紳士的に最高のサービスを提供するのがモットーですので。できるかぎり、鈴葉さん自身にその胸の内を話していただきたいのです」
「……じゃあ、トミタのプリン、一年分食べたい」
「あのー、鈴葉さん、そういうことではなくて。というか、それはそれで、準備するとして、ですね」
「宝くじを当てて、大金持ちになる」
「それはぜひ、現実世界でチャレンジしてください。ついでに、そんな大金持ちでも叶えられないようなことが叶うのが、この空想遊戯保護区の醍醐味というもので」
「超イケメン俳優と結婚する」
「何ですか、その漠然とした超イケメン俳優というのは。具体的に名前を挙げてください。鈴葉さん、そんなの本気で考えてないでしょう。適当な答えはもう止めてください。キスしますよ?」
次の適当な答えを用意していた私は、突飛な脅しに口を噤む。
というのも、ゲーテはすでに私の顎を持ち上げて、まさに私の唇を奪おうとしていたからで。
女の子らしくない悲鳴を上げて、その手を振り払うと、ゲーテはしてやったりな顔でほくそ笑む。
「ひとつ」
「え?」
「ぼくは嘘をついたつもりはありませんが、鈴葉さんに種明かしをしましょう」
シルクハットを脱ぐと、黒い耳がふたつ、ぴょこっと現れる。
帽子の中で押し込められていたのが窮屈だったといわんばかりに、小刻みに動いてこっちを向く。
今更、ゲーテはどっちの耳で音を聞いているのかとか、そんなことをぼんやりと思った。
「林田玲果には、正直ぼくも手を焼いていたのですよ」
その耳を指先で撫でて、ゲーテはイスに座る。
そして並んだイスに私も座るよう、手を差し出し促すから、私はゲーテとひとつ席を空けて座った。
「彼女の対価について、底辺が見え始めていたのは間違いないのですが。いつだったかお話したかもしれませんが、こちら側としての限界がありまして。そこで、どうにかぼくの手を下さずに彼女の世界を終わらせることはできないかと……つまりは、次のプレイヤーを探すことにしたのです」
「それって、もしかして」
「そう、それが鈴葉さん、きみです」
「待って。だって、私が望んだからこっちの世界に引き込まれたんじゃなかったの?」
「えぇ、それは、もちろん。だから、ぼくのこの姿が見えた」
ふと、突然ゲーテの姿が消えた。
にゃお。
鳴き声とともに、足元に暖かく柔らかい感触が擦り寄ってくる。
あのときの、クロネコ。
ゆらゆらと長い尻尾を揺らして私を見上げると、ひょいと膝に乗ってくる。
「きみは、廊下のガラス窓を見つめて、ぼんやりと考え事をしていましたね」
私の膝の上で行儀良く座ったクロネコは、そう言って人間のように微笑んだ。
「誰が答えてくれるはずも無い答えを、求めていた」
「あれは……」
「ぼくは、その答えを用意出来る。きみの望む世界を創ることが出来る。つまり、需要と供給が一致したというわけです。そして、ぼくが開いた扉を、きみは見つけ、自ら手を入れた」
クロネコはテーブルの上に飛び乗ると、その姿は猫耳を有した人間の形に戻る。
私のすぐ脇で、テーブルに腰を掛けた状態で、ゲーテはいつも身に着けている真っ白な手袋を脱いで私の頭を撫でた。
「ピアノを弾きたかった理由も、バスケをやめた理由も、髪を切って男のように振舞う理由も、岩城くんの告白を振り切ってしまった理由も、全てひとつのことに、繋がっている」
私は瞳を伏せる。
床の大理石は磨かれて光っているけれど、とてつもなく、氷よりも冷たいような色をしていた。
「頑なに突っ張って、強がって。もう、そうすることをやめてもいいんだと、誰かに言ってほしい。でもその誰かは、誰でもいいのではなく、きみの心の中に隠している、彼らでなければ意味がない」
そう、そうでなければ、私が犠牲にしてきたことの、私の存在自体の理由が、ない。
「でも……私はそれを望んじゃいけないんだと思う」
「どうして?」
「ひとりだけ、抜け出すなんて、できない」
「誰かが始めに抜け出さなければ、誰もが抜け出せないこともあるのです」
互いを慰めるための行為は、いつしか負の連鎖として互いを苦しめ、縛り付ける。
瞬きをすると、睫毛の先から涙が落ちた。
ゲーテの手のひらから伝わるぬくもりは、忘れようとしている誰かのそれに似ていて。
「今、私が望んでいることが叶ったとしても、それは私が作り出したもので、現実じゃない。そんなの、ただ、辛いだけだし」
虚構の世界、虚像に与えられる幸せ。
そんなもの、味わえばその分だけ、現実から目を背けたくなる。
「だから、会いたいけど、戻りたいけど……」
脳裏に浮かぶのは、決して満足できなかったけれど、今より幸せだったころの家族。
不意に記憶が、映像が、尋常じゃないスピードで巻き戻され、眩暈とともに身体がぐらりと揺れた。
目を開けていられずに、瞼を閉じる。
懐かしい景色、声、家族、友達、岩城、バスケ、ピアノ。
座っていられずに、傍らにある柔らかなぬくもりに身体を預けた。
幼い頃、怖い夢を見て彼のベッドにもぐりこんだとき、そうしてくれたように、ゲーテは私を包み込むように抱きしめて、頭を撫でる。
「もっと単純に落ちてくれるものと思いましたが、そう簡単にはいきませんね。でも、きみが望むことを、もう一度確認させてもらうために、強姦までとはいいませんが、少々手荒な真似をすることを、許してください」
身体が、動かない。
感覚が、ない。
ゲーテの声は、頭の中で遠くに聞こえるだけで、私がそれに反論する機能はすでに削がれていた。
「副作用が起こる可能性もありますが、それも一過性ですから、ご心配なく」
どういう、こと?
「目が覚めれば、鈴葉さんの世界の始まり、ですね」
楽しそうなゲーテの声は、そこで、途切れた。
そして私の意識も、深い深い、眠りに落ちた。