file6-1「そして、扉は閉じられた」
頭上で鳴り響く電子音に、いつものように手を伸ばし、ボタンを押す。
スヌーズ機能とはありがたいのだけど、慣れてしまえば危険なもので、もうちょっとだけ眠っても許されるような錯覚を覚える。
伸ばした手をもう一度布団の中に引っ込めて、起こされた意識を再び心地よい眠りへとシフトしようとした時だった。
「鈴葉、いい加減起きなさいよ! 今日は朝練だって言ってたでしょ。早くしなさい」
「ん……」
戒めるように、でも機嫌の良い明るい母の声が聞こえ、同時に足音が近づいて布団を奪われる。
「ほら、おにぎりも作ったから、早く仕度して」
はいはいと掛け声とともに、身体を揺さぶられ、私はしぶしぶ身体を起こす。
「高校生活最後の県大会なんでしょ? 今日から朝練だってはりきってたくせに、部長の鈴葉が一日目から遅れるわけにはいかないんじゃないの」
そう……だったっけ。
欠伸をしながらぐっと両手を上に伸ばすと、私はベッドから降りてチェストの引き出しを引いた。
さっさとジャージに着替えてカバンを持ち、階段を降り、そのまま靴を履く。
でもどこか身体がフワフワと浮き上がったようで、頭の中は霞んで霧がかかったようにぼんやりとしていて。
なんだか、まるで。
夢の続きを見ているような。
「鈴葉、おにぎりとお弁当ね。そうそう、今日から怜、教育実習でしょ。5日間だったわよね?」
「……え?」
「怜も鈴葉も頑張らなきゃいけないから、今夜は家族四人で、すき焼きにしよっか」
「四人って」
「お父さんも、すき焼きだって言ったら、早く帰ってくるでしょう」
「けど……お父さん、福岡でしょ」
単身赴任、してるはずだ。
そう、去年から。
「鈴葉、何寝ぼけてるの。まったく、ぼーっとしてたらバスに乗り遅れるわよ。気をつけてね」
からからと朝から爽快に笑う母の姿を、久しぶりに見たような気がした。
何かが引っかかっているのに、その笑顔にほっとして、私はおにぎりと弁当を受け取り家を出る。
雨が降りそうな空だったけれど、傘を取りに戻るのは面倒で、そのままバス停に向かう。
早朝のバス停は誰もいない。
それどころか、今朝は車も一台も通らない。
何かがおかしいはずなのに、そんなことはどうでも良かった。
「ブラシ、貸してあげようか?」
ふと横を見ると、今まで誰も居なかったはずのそこに、同じ高校の制服を着た女の子が私を見上げて立っていた。
アイドルみたいなツインテールがよく似合う、可愛い女の子。
「あれ……」
クラスメイトの、林田さん、だった。
確か、そうだ。
彼女はカバンの中からヘアブラシを取り出すと、柄を私に向けて差し出した。
わけもわからずそれを受け取り、そこでやっと、私は長い髪にブラシひとつ通さずに家を出てきたことに気がついた。
「ありがと」
遠慮なく彼女のブラシを借り髪を梳くと、手首にあった黒いゴムでひとつにまとめる。
彼女もなにか部活でもしてるんだろうか。
こんなに朝早く、同じバスに乗り合わせるなんて。
それを訊ねようとしたとき、タイミングよくバスが到着し、私たちは先客のいないバスに乗り込んだ。
林田さんが前方の一人掛けのイスに座り、私は後方の二人掛けのイスに座ろうと荷物を置いたとき、一旦閉じたバスの扉が再び開き、もうひとり、慌てた様子で駆け込んでくる。
「おはよ、鈴葉」
「岩城、おはよう」
「あぶねー、乗り遅れるトコだった。女子も、今日から朝練だったな」
「あ、うん」
通路を挟んで隣の席に座り、大きく息を吐き出すと、私のことを見て笑った。
「何?」
「いや、ううん。何でもない」
「何よ、それ」
聞き返しても、微笑んで首を振るだけで、岩城は窓の外を向いてしまう。
何かいいことでもあったんだろうか。
よくわからないけど、私も窓の外をなんとなく眺める。
いつもと変わらない景色。
でも、何かが違う。
何が、違うのかよくわからないけれど。
バスが停車すると、最後に降りて、そのまま体育館に向かう。
初日ということもあって、集まりは悪かったけど、それでも来たメンバーで一時間ほど軽く練習をして解散した。
シュートが、いやによく決まった。
まるで、私の考えた通りに誰もが動き、完璧なパスワークで、計算されたようにボールがリングに吸い込まれていった。
出来すぎている。
素直に喜べばいいことなのかもしれないのに、違和感が消えずに、私は自分の両手を見つめた。
「鈴葉、おはよ」
教室に入ってすぐ、私を呼びとめたのは。
岩城……じゃなくて。
「ナニ、めずらしいモノ見るみたいに見てんだよ」
「だって……」
「こーゆー設定にしたのは、お前だろ」
人差し指を私に突き付け、彼はそんなことを言う。
設定? 一体、何の……。
「結人様、設定を考えたのは鈴葉さんじゃないのよ。まぁ、名前と苗字で呼ばなきゃならない妙な双子ってことだけど、あの管理人の考えそうなことだわ」
いつの間にか、朝一緒にバスを降りた林田さんが隣にいる。
彼女の言葉が、頭の中にすんなりと入ってくることはなく、でも今、目の前にいる彼の存在を認めるより、簡単に受け入れられる。
教室を見渡せば、いつものクラスメイトが変わらず談笑していて、チャイムとともに担任が現れた。
このクラスには直接関係ありませんが、今日から教育実習が始まります。
担任がそう告げて、私は今朝の母の言葉を思い出す。
『怜』
お兄ちゃんが。
音大に行っていたお兄ちゃんが、教職課程なんか、取るんだ。
留学、したんじゃ、なかったっけ。
どうしてこんなにも、記憶が曖昧で途切れ途切れなんだろう。
わかってるはずのことが、わからない。
わからないのに、わからないことがあたりまえみたいな、妙な感覚。
私、どうしたんだろう。
退屈な授業がいつものように始まり、窓の外はやっぱり雨が降っていて、景色は灰色に霞んでいる。
時計の針とクラスメイトは当たり前の時間を刻み、休み時間はつけっぱなしのテレビから流れてくるCMみたいに訪れて、そして、ドラマが始まるように授業が再開する。
その繰り返しの中で、私だけがついていけずに取り残されているみたいで。
ぼんやりとしている私が「おかしい」ことに気付いているのは、結人と、林田さんと、春日さんだけ。
彼らしか、目に付かない。
彼ら以外、誰だか、わからない。
クラスメイトのはずなのに。
先生も、生徒も、顔がわからない。
よく見れば、灰色の人型をした影だけが、烏合のごとくそこに在る。
「あ……」
何かを思い出せそうで、私の口から声が漏れた。
瞬間、電子的なチャイムではない、大きな釣鐘でも鳴り響くような音が、私の思考を引きずり戻した。
「おい、鈴葉。お前、大丈夫か?」
「えっ」
「ずーっと、ぼーっとしてるけど」
「……うん」
結人が隣の席に座り、机に肘を突いて怪訝な顔をする。
「少々手荒な真似をしたと、あの方は言ってましたけど……心配ですね」
林田さんと同じツインテールの春日さんが、私の顔を遠くから覗きこんで、そんなことを言う。
周りの生徒達が一斉に動き出して、もう放課後が来たのだと気付かされる。
気付く、なんて、おかしい。
昼休みだって、あったはずなのに。
「有川さん、音楽室に、行くんでしょ?」
私の机に手をついて、林田さんが微笑んだ。
そうだ、私、ピアノを。
「いや、だって私、ピアノは……ずっと前に、止めたのに」
わずかに爪が伸びた指先を見つめ、そろそろ切らなきゃいけないと思う。
でもそれは、バスケのためじゃなく、ピアノを弾くために。
「したいことを、すればいいのよ」
「したい、こと……?」
「そう。だって、ここは有川さんの世界なんだから」
林田さんに腕を引かれ立ち上がると、そのまま背中を押されて教室を出た。
ざわめく廊下を進むと、ジャージ姿の岩城を見つける。
「いつものトコ?」
いつもの。音楽室。
私はこくりと頷くと、じゃあ後でと岩城は手を振って、その姿は見えなくなった。
にゃぁ。
校内で聞くはずのない鳴き声に、私は辺りを見回した。
通り過ぎていく生徒達の足の隙間に、黒く長い尻尾が揺れている。
にゃぁ。
もう一度鳴いて、尻尾をぴんと伸ばすと、跳ねるように私から離れていく。
「待って……!」
時々振り返る黒猫に誘われて、私は夢中で後を追いかけた。