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岩城が、壊れた。
乱暴なキスをされるがままに受け入れて、真っ白になった私の頭に浮かんできたのは、そんなことだった。
そして、壊したのは、私。
だけど、そもそも、壊したとか、壊れたとか。
あくまで私の中に在ったイメージと、本当の岩城の姿が違っただけなのかもしれない。
あれだ。
よくクラスメイトの女子が言ってる、「付き合ってみたら、なんか違ったんだよねー」ってヤツか。
……ううん、そんなふざけた話じゃなくて。
やっと唇が離れて何度も大きく息を吸って、吐き出して。
岩城がこうすることを望むなら、受け入れるしかないのだと、ふっと身体の力が抜けた。
私の望むカタチではないけれど、今までの曖昧な関係の代償がコレでも仕方がないと妙に納得している自分が不思議だった。
制服をたくし上げ、スカートのチャックを下ろし、せわしなく私の身体をまさぐる岩城に、私は目を閉じる。
「……へぇ。抵抗、しないの?」
手を止め、嘲笑混じりの岩城に、私はゆっくり瞼を開く。
「鈴葉って、こういうの、簡単に受け入れるわけ? だから、アイツともあんなことできたんだ」
「ちがっ……そんなつもりじゃ」
岩城の言っていることは、彼がこの世界に来て目の当たりにした私と結人のことを指しているのはすぐわかった。
「あの時は、理由があって」
「理由? 理由があれば、好きじゃない男も受け入れるのかよ」
「そうじゃなくて!」
「じゃあ、俺よりアイツのことが好きなんだろ? それなのに、俺にこんなことさせていいわけ?」
投げやりな言い方に、私は首を横に振った。
「結人は、そういうんじゃないの」
じゃあ何かと聞き返されたら、どう答えたらいいのか、私はまだわからない。
でも、岩城に向かう気持ちとは、たぶん、違う。
ふっと岩城が笑う声がした。
「結人って……俺だって、結人だし。けど、俺とアイツが全く違うのは、俺自身もよくわかってる。だから、余計に俺自身が全部否定されてるみたいで、ムカツクんだよっ」
感情を押し込めたまま、それでも思いを吐き捨てて、岩城は俯き私の身体を揺さぶった。
「だから、俺も鈴葉を……一番好きだったころの鈴葉を、もうひとり、作った」
強く腕を掴んでいたはずの岩城の手が、わずかに震えている。
「今の鈴葉を全部否定して、俺の中から消したかった。鈴葉だって、俺を幻滅してアイツを選べばいい」
「……そんなこと、できないよ」
「できないって、何だよ……そうやって、いつも中途半端に俺のこと縛り付けて、俺は結局トモダチでそれ以上の何でもなくて。そういうの、もう、嫌なんだよ!」
食いしばった岩城の白い歯が、赤い唇の隙間から見える。
もしかしたら、岩城はずっと、私との曖昧な関係を断ち切りたかったのかもしれない。
不意に腕が開放されて、視界には所々ランプでオレンジ色にぼんやりと照らされた天井が映る。
時々、影が揺れるそこをしばらく呆然と見つめていた私は、制服を直しながら、ゆっくり上半身を起こした。
ソファの端に座っている岩城とは、もうひとり座れるくらい距離があったけれど、心はもっとずっと遠くに離れてる。
「私の話なんて聞きたくないかもしれないけど、もう、最後にするから、聞いて」
足を伸ばして履くには遠すぎるところに転がったローファーを見ながら、私はひとつ、深呼吸をする。
「岩城のこと、好き、だったよ。だから告白された時、嬉しかったし、付き合うのも楽しみにしてた。もし、どっちかが高校に落ちても、それでも付き合おうって、思ってた」
今更、な、話。
だけど、ここから話さなきゃ、前に進めない。
「でも、わかってると思うけど……お兄ちゃんが、死んで」
なるべく深く思い出さないように。
「私の家って、なんていうか、とにかくお兄ちゃんを中心に回ってたっていうか。だから、あの時、何もかもが止まって……崩れた」
感情を無視して出来事だけ伝えられたら。
そう思うのに、あのときの自分でも解せない行動を説明するには、しまい込んだモノを引っぱり出してくるしかなくて。
「それで……学校に来てみたら、当たり前だけど、みんなはフツーに笑ってて。誰かに私の気持ちを知って欲しかったし、何があったのか聞いてくれるだけでもよかったのに、みんな腫れ物に触るみたいな態度でよそよそしくて。けど、そうだよね、誰もヒトが死んだ話なんて聞きたくないだろうし、迷惑だし、そもそも、こんな私の気持ちなんて、誰にもわかるはずない」
唯一そばにいてくれようとした岩城でさえ、きっとそれは不可能だった。
「何でもないふうにすることは、辛くなかった。むしろ、家にいるより、学校に来たほうが楽だったし。だから……高校に入ったら、全部リセットしようって決めたの」
あのとき、私が冗談だと笑い飛ばしたときの、岩城の愕然とした表情が脳裏に浮かぶ。
そして、言葉を失って、仕方なしに見せた苦笑も。
「勝手なこと、言うなよ」
「えっ……」
「あのとき、鈴葉がどんなこと考えてるのか、なんとなくわかってた。けど、わかるはずないとか、迷惑とか、聞いてもらえないとか決め付けて、周りに壁作ってたのは、鈴葉のほうだろ! 俺だって、どうしたらいいか、わけわかんなくて……全然、鈴葉のこと、わかんなくなって……それでも、鈴葉がちゃんと話してくれるまで、待ってるつもりだった」
岩城の気持ちが、私自身が作り上げた、私だけに正当化されたロジックを打ち砕く。
突き放したのも、そこに入り込めない何かを作り出したのも、私自身。
わかっていた。
だけど、それを……誰かのせいにしたかった。
「待ってるつもりだったのに、高校入ったら、まるで鈴葉は別人みたいになってて、俺だけ取り残されてるみたいで。だから、もう、ダメなんだって、鈴葉のこと、諦めようとしたんだ」
岩城は頭を抱えて、声を詰らせる。
そんなふうに。
私は、岩城を、こんなに、苦しめてた。
岩城が離れていくかもしれないとどこかで感じた私は、何もなかったように再び近づき、そして、友達以上恋人未満の曖昧でぬるく心地良い関係を築くことに成功する。
計算したわけじゃないけど、ズルイことをしてる自覚はあって。
……最低だと、どこかでわかっていたのに。
リセットし、再び始まったゲームを、そう簡単に終わらせることはできなくなってしまった。
「ごめ……ん……」
そう、林田さんが、自分が始めた世界を、終わらせることができなかったように。
瀬戸際まで逃げ続けて、誰かが止めてくれるのを待っている。
自分で、止める……止まる勇気が、ないから。
「別に……謝るなよ。俺は、ここに、この世界に来るまで、本当に諦めたつもりでいたんだ。友達として、そばにいて、いつかそれぞれお互いに好きな人ができたとしても、それで良いって思ってた。けど、錯覚、だよな。中身は違うけど、もうひとりの俺と鈴葉が一緒にいる姿とか、鈴葉があいつを見る目とか……そんなの、見せ付けられたら、本来なら、アイツじゃなくて、俺がそこにいるはずなのにって。結局、全然諦め切れてないのに気がついた」
転がったローファーより私のそばに、岩城のスニーカーが現れ、私はゆっくり顔を上げた。
「俺、やっぱり鈴葉のこと、諦められない。ずっと好きだったし、これからもそばにいたい。友達じゃなく、恋人として」
見下ろす岩城の瞳は優しくて。
私は緩んだ唇をきゅっと結んだ。
「鈴葉のこと、もっと知りたい。だから、全部、話して」
抱えているもの、全部。
そう言って、岩城は私の隣に座って、躊躇いもなく私を抱きしめた。
「俺、ずっと怖かった。友達の関係のままでいたほうが楽なんじゃないかって、自分の気持ちからも逃げてたけど。もう、逃げないから」
優しさと強さの入り混じった暖かい岩城の腕の中で、ぎゅっと唇を噛んでも、どうしても零れる涙を止められない。
「岩城、ありがと……」
「いや……さっきは、俺のほうこそ、ひどいことして、ごめん」
私は腕の中で首を横に振った。
その私の頬に、岩城の手のひらが触れる。
そして、近づく唇に、私は目を閉じた。
瞬間。
「こほん」
わざとらしい咳払いに、私と岩城はおそらく同時に目を見開き、その咳払いの主を見つける。
「お邪魔します」
それはたぶん、許可を得てから言うはずの台詞だ。
得意の嘘っぽい紳士的な笑顔で、どこからともなく現れたゲーテは私のローファーを拾って差し出した。
「このままでは、鈴葉さんの望む世界を創る前に、うっかり物語がハッピーエンドになってしまいそうでしたので、野暮とわかっていながら登場させて頂きました」
受取れと言わんばかりに前へ出されたローファーを手に取り、私と岩城は顔を見合わせた。
「ご主人様はご存知の通り、明日が最終日となります。期間延長も可能ですが、それには相当の対価を頂くことになりますが、どうしましょうか」
「俺は、もう、いい。延長は、しない」
「さしずめ本当に望むものが、手に入ったから、とでも?」
目を細め、私を見るゲーテの視線が、どこかいやらしい。
唇の端を吊り上げ、意味ありげにわかりましたと頷いた。
「では、鈴葉さん、いよいよあなたの世界を創るときがやってきました。さて、あなたの望む世界をどうぞぼくに聞かせてください。明日が、締め切りですよ」
人差し指を得意げに振りながらウインクする。
こんな時にそんな態度のゲーテに、横にいる岩城の頬が、ぴくりと引きつった。
「そうそう、それと、彼らの処分も、考えておいて下さい」
「え……」
「岩城くんが作り出した人物は過去の鈴葉さんただひとり。彼女の処分は確定ですが、それ以前から存在する、架空人物と、本来であればとうに現実世界に戻っていなければならない彼女の処遇です」
それは、林田さんと、春日さん。
そして、結人のこと、だ。
「それも、明日が締め切りです。今夜一晩、どうぞごゆっくりお考え下さい」
にっこり微笑んで、ゲーテは部屋を後にする。
いつかと同じように、私と岩城と、気まずい空気を残して。
でも、あの時と違って、その気まずい空気は岩城の腕にすぐかき消され、私の身体はまた彼の腕の中に包まれた。
「俺は、先に帰って、待ってるから」
その時、全てを話して、そして、鈴葉の気持ちを、返事を聞かせて。
岩城はそう言って、私を抱きしめ頬にキスをした。