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「じ、冗談じゃねーよっ! テメーらの勝手で何で俺が消されるんだよっ」
「では、人質は拘束しておきましょう」
私が声を上げるより先に、ゲーテが得意げに指先をパチンと鳴らした。
とたんに結人の身体は跳ね上がり、音を立てて床に倒れる。
「んーっ!!」
口元にはガムテープ、後ろで拘束された手首、そして足首にはロープがぐるぐると巻かれて、結人は身の危険を感じた芋虫のごとく身体をくねらせていた。
じたばたする結人の視線がゲーテを睨んだ後、私のほうを見る。
何か言いたげに、でもそれを許されずに、結人は諦めたように動きを止め、後ろを向いた。
「彼に聞かれたくないのなら、ふたりで場所を変えましょ」
「私は……かまわないけど」
気の強い女の子。
正面に立つ過去の自分を見て、そんなことを思う。
その真っ直ぐな瞳には、耐え切れずにこちらが瞼を伏せてしまう。
岩城のイメージで作られているとはいえ、私はこんなにも凛としていたんだろうか。
「あなたは、『私』なんでしょう?」
同じ目の高さで、1メートルと離れていない場所に立つ彼女が、ゆっくりと瞬きをする。
窓から吹き込んだ風に長い髪が揺れて、懐かしいシャンプーの香りが鼻を掠めた。
「たぶん、ね」
厳密に言えば、きっと違う。
岩城が作った彼女は、本当の私じゃない。
ところで、と彼女が話を切り出した。
「どうして、髪、そんなに短いの?」
「……切りたかったから」
「それに、男みたいな格好は、何で?」
「これは、岩城が望んだから。私が好きでやってるわけじゃない」
ふうんと全く納得なんてできないような表情で頷いて、まじまじと私の顔を覗いた。
「昨日のプリン、あれは、あなたが好きなものなの?」
「別に……」
「でも、昨日岩城は、好きだったよねって、聞いたでしょ」
「そうだっけ」
「とぼけないで」
「……じゃあ、好きだったのかも」
「本当のこと言って」
「そんなの、どうでもいいじゃない」
「どうでもよくなんかない。昨日、岩城はプリンを食べる私を見るのが好きだって言った。私は昨日、初めてあのプリンを食べたのに、おかしいでしょ? まるで、今までも見てきたみたいな言い方するなんて」
淡々と話していた彼女の口調が強くなり、瞼を伏せて小さく息を吐いた。
「岩城は私のことを愛してるって言ってくれるけど、あなたのことばかり見てる」
低い声ではっきりとそう告げると、ふたつの瞳が私を睨む。
「私は、誰かの代わりに愛されるなんて嫌。その誰かが、まるで自分と同じ存在だとしたら、尚更」
宣戦布告だとすれば、既に私は負けている。
そんな気持ちを、あのころの私がしっかりと持ち続けることができたなら、きっと今頃岩城の横にいるのは彼女じゃなくて、ホンモノの私だっただろうか。
でも、もしも、なんて話は、夢を語るより馬鹿馬鹿しい。
「誰かの代わりになることでしか、存在意義を見出せない人間もいるの」
「どういう意味?」
「あなたのことを言ってるんじゃなくて。世の中には、そういう人もいるってこと。あなたは今のその気持ちを貫けばいい」
「そういう人って、あなた自身のこと?」
不覚にも私は口篭る。
すると目の前の彼女が、小さく笑った。
「誰かの代わりになるために、そんな格好してる、とか? だとしたら、その誰かって、誰?」
「あなたは……知らない人。そんなことより、知りたいのは、岩城と私に何があったかってことじゃなかったの?」
彼女は黙ったまま、静かに頷いた。
話を逸らすためとはいえ、そんなことを自分から言ってしまったことを、私は後悔した。
「……何も、なかった」
「え?」
「プリンは……私の好きなものだったし、岩城と一緒に食べたこともあった。でも、それだけ」
「それだけ……?」
「勝手に岩城は私のこと、好きだったのかもしれないけど、それ以上も以下もない。告白されたけど、付き合わなかったし」
嘘じゃない。
本当に、私たちの間にあったことを掻い摘んでいえば、そういうこと。
彼女の身を包んでいる制服が懐かしい。
でも、蘇ってくる記憶は、葬り去りたいことばかりで。
「岩城、私に聞いたの。何の前触れもなく、突然」
憤りを抑えるように、彼女が言う。
「何、を……」
「『どうして、俺を振ったの』って」
「え……?」
「いきなり言うから、ワケわかんなくて。私は岩城のこと振ったおぼえなんかないし、笑い飛ばしたけど。でも、わかった。たぶん彼は、あなたに振られた理由を、同じ存在である私が知ってると思ったのね」
鼓動が、少しずつ早くなる。
ひとつ脈を打てば、胸の奥の傷に触れて痛みが走る。
「私は岩城のことが好き。あなたは?」
「ずっと前は……好きだった」
「好きなのに、付き合わないなんて、理由がないわけ、ないよね?」
彼女の言うとおりだけど、決定的な理由なんて、ない。
「黙ってないで、何か言って」
苦し紛れの言い逃れや嘘なんて、たぶん、彼女は見破るだろう。
「あなたが……ずっと岩城のそばにいてあげて」
「そんな答え、ずるい」
「私、あなたみたいに強くもないし、可愛くない。だから……」
私は彼女の両腕を掴んで、頭を下げた。
「岩城のとなりにいるのは、私なんかじゃなくて、あなたみたいな人なんだよ。もう、私、昨日みたいに動揺したりしない。ちゃんと距離を取る。だからお願い、それ以上もう何も聞かないで……!」
あんなふうに岩城の膝の上で微笑んで、キスするような、私はそんな女の子じゃない。
岩城のために、こうやって私のところに乗り込んできて、真実を突き止めようとするほど強くもない。
でも、この世界は岩城が望んだもので、目の前に存在するのは彼が求める『鈴葉』の姿。
押しつぶされそうな気持ちをこらえて唇を噛む。
瞼を開けたら、溜まった涙が溢れそうで、顔を上げられない。
「……わかった。放して」
ゆっくりと彼女の腕から手を放し、手のひらを膝に置いた。
背を向けたであろう彼女の足音が、少しずつ遠ざかっていく。
やがて錆たドアが音を立てて開き、静かに閉じた。
ぼんやりとした視界には、ワックスで磨かれた床が歪んで映り、ぽたぽたと足元に滴が落ちる。
鼻先がつんと痛くなって、片手で口元を覆い、そのまま床に膝をついて力が抜けたように座り込んだ。
「……っく……う……」
後ろにゲーテがいるのに、そばに結人がいるのに。
嗚咽を止められなくて、私は両手で顔を覆う。
自分自身で、取り返しのつかない道を選んだくせに、今更こんなに後悔するなんて。
生ぬるい岩城との関係に、面倒なフリをして甘えていたのは私のほうだ。
突き放して、でも振り返って追いかけてくれるのを待っていて。
そこに姿が見えなくなったら不安でしょうがないくせに、優しくされると噛み付きたくなる。
かまってほしくて、イタズラばかり繰り返す、まるでコドモ。
早く忘れたいのに、そばから離れられなかったのは、ずっと、ずっと。
岩城のことが、好きだったから。
「擬似失恋」
わずかに笑みを含んだゲーテの声に、私の身体がぴくりと反応する。
「ひとりよがりな妄想から作られた、思い通りに動く理想の人形に敗北するのは当然です。と私が言っても、何の慰めにもなりませんか」
いつもの調子でそう言ったあと、溜息を吐いて私の横を通り過ぎる。
「あとは結人さん、お願いしますね。お仕事はたっぷりありますから、遅くならないうちに戻ってください。鈴葉さんも、彼女に宣言したように、動揺せず冷静にお仕事を続けてもらいますよ」
嗚咽を強引に押さえ込もうと必死でこらえながら横を見ると、こっちに背を向け寝転がっている結人の手足を拘束したものが消えていた。
ゲーテが体育館から出て行っても、しばらく沈黙が続き、やがて私も落ち着いたものの、頭の中は真っ白で何も考えられなかった。
「おまえら、ホント馬鹿だな」
急に結人が声を荒げるから、私は驚いて横たわってる彼を見た。
ごろりと寝返りを打ち、不機嫌そうに私を睨む。
「鈴葉、どーすんの?」
「どうするって……わかんない」
「じゃあ、どうしたい?」
何も言えなくて、私はただ口を噤む。
結人は正面に胡坐をかいて、私の両手をそっと包み込むように握った。
そして、頬に触れるだけのキスをする。
「泣き顔も可愛いくて、今すぐ押し倒したいくらい」
唇が触れ合いそうな距離で、結人が微笑んだ。
「けど。今はやめとく」
静かに息を吐き出して、手を握る力を強くした。
「俺にいい考えがある。とにかくそれで、アイツと決着つけてこいよ。それまで我慢するから」
不貞腐れたように私の頭をぐしゃぐしゃと撫でると、唇を尖らせてから笑った。
叱って責められるかと思っていたのに、優しすぎる結人にまた涙腺が緩む。
どこまでも、私は『岩城結人』に甘やかされている。