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それはたぶん、他の誰かからみれば、とてもちっぽけで馬鹿げているのかもしれない。
林田さんが自分の作った世界にこだわり続け、現実を拒み、それを失うくらいなら命を投げ出してもいいというのを私が理解できないように、きっと私の抱えているモノも、私以外の誰かが受け入れるなんてことは不可能で。
わかったフリをして、なんとなく想像することはできても、本当の意味で理解してもらうことなんて、たとえ同じ経験をしたとしても無理なことだ。
それが現実だと気付いても、理解して共感してもらいたい気持ちはどこかにあって。
同情なんて嫌だと思っていても、ひとりでは抱えきれなくて、誰かにそばにいてほしくて。
そんな矛盾を昇華できずに、私は踏み込んでこようとするものを拒絶し続けてる。
「鈴葉さーん」
「有川さーん」
「鈴葉―っ! ったく、どこ行きやがったんだよっ」
「おや、あちらに何か塊が見えますよ」
「何ですか、あれ……。結人さん、見てきてください」
「何で俺だよっ。テメーが行けよ」
「ですからっ! その言葉遣い、直してください!」
「うっせーな」
「まぁまぁ、みなさん落ち着いて。誰が何を話しているのかよくわかりませんから、そろそろ鈴葉さんに起きてもらわなくては」
騒々しさに夢から覚めたものの、まだ眠っていたくて身を縮める。
気配とともに抑えた足音が聞こえて、私は「それ」を頭から被って寝返りを打った。
「……す、鈴葉なのか?」
恐る恐る伺うような声に、目を細めて隙間から彼を見つけた。
「うわーっ! 何かいる! ヤバイのいるってっ!!」
人をバケモノ扱いするなっ!
驚愕の表情でおののき踵を返した結人に、イラっとしながら私は再びその中に身を隠す。
「す、鈴葉さん! 今、何時だと思ってるんですか!」
遠くから聞こえるのは、春日さんの声。
何時かなんて、知らない。
「もうお昼ですよ! 昼食は鈴葉さんに運んでいただかないと……」
別に私じゃなくたって、誰かが運べばいいことだ。
そこに三人もいるんだから、こうしてる間に持っていけばいいんだし。
「困りましたねぇ。ご主人様は鈴葉さんをご希望ですが。仕方ない、とりあえず用意は春日さんと林田さんでお願いします」
そうそう、ゲーテの言うとおり。
誰だってできることなのだから、あえて私が行く必要なんかない。
どこか納得できないような不満げな返事を残し、女子ふたりの足音が遠退いていく。
「さて、結人さん、我々で寝込みを襲うことにしましょう」
「は!?」
は!?
私は結人と同時に叫びそうになるのを堪えたものの、わずかに緊張が走って耳を澄ました。
「ふたりがかりで襲えば、いくら鈴葉さんでも抵抗できませんよ。ぼくとしては、もっとグラマラスなボディが好みなんですが。鈴葉さんのような男装女子を脱がすのもなかなか乙かと。では、参りましょうか」
「マジ、かよ……」
マジなわけ、ないでしょーがっ!
どうせ私を起こそうと、適当なことを言っているだけだ。
嫌だ。絶対に起きない。絶対に食事を運ぶなんてこともしたくない。
……岩城に、会いたくない。
私が岩城の世界に「参加」する必要はないはずで。どこかでこうして隠れているうちに、早く時間が過ぎてくれればいい。
今ならまだ、現実の世界に戻ってからも、すべて見なかったことにして、以前のように笑える気がするから。
「よろしいですね、結人さん」
頭上からゲーテの声がして、思わず身体がぴくりと揺れる。
「っつーか、なんでゲーテも一緒に襲うんだよ」
「暇だからです」
「暇だったら女襲っていいのかよ!?」
「いえ、適当な理由が見つからなかったので」
「鈴葉、起きなきゃマジでコイツ、ヤる気みたいだけど。おい、起きてんだろ?」
やや投げやりな口調に、私はぐるぐると身を包んでいるそれを、剥がされないようにぎゅっと掴んで身体を丸めた。
「結人さん、上半身と下半身、どちらにしますか?」
「おい、ちょっと待て」
「結人さんにとっても、下半身は未知の領域でしょうから、ぼくが上半身にしましょうか」
「ちょっと待てって!」
結人の声が焦っていた。
と、突然ウエスト辺りに何かが乗りかかってくる。
「鈴葉さん、こうなったら待ったナシですよ? いいですね?」
隠れてわからないはずなのに、ゲーテは耳元でそんなことを言い、ほんの一瞬の間があったかどうか。
ちゃんとガードしていたはずの中に侵入してきた手が、私の胸を鷲掴んだ。
「この、変態ーっ!!」
殴ってやろうと伸ばした手を、寸でのところでかわされた。
そしてその手首を取ってゲーテは笑う。
「おはようございます、鈴葉さん。思っていたより手ごたえがあって驚きました」
まだ左胸に添えられたままの手が、もう一度確かめるように揉む。
「いやぁーっ! 最低、変態、セクハラっ!!」
すぐさまゲーテの手を払いのけて、私は身体をくねらせそこから抜け出し、肩で大きく息をした。
私の抜け殻みたいなそれの上に膝をついていたゲーテは、楽しそうに微笑みながらゆっくりと立ち上がる。
「それにしても、少々かび臭いこんなものに包まって隠れているなんて……」
私が包まっていた黒いピアノカバーを手に取り、呆れた顔で首を振る。
昨日の夜、ぼんやりと館内を歩き回って、結局この体育館にたどり着き、ピアノのカバーをかぶって眠った。
誰にも見つけられないことを祈って、ピアノの陰に隠れて縮こまって。
ゲーテの横で頬を引きつらせている結人と目が合い、お互いにきりりと目尻がつりあがった。
「結人も助けてくれたっていいじゃないっ」
「なんだよ、俺は起きろっつったろ!」
「だけどっ!」
「ケンカしている暇はありませんよ。鈴葉さんは、お仕事に戻っていただかないと」
近づいてくるゲーテと距離を保つよう、私は後ずさりした。
「嫌。私はもう岩城の世話なんかしない」
「おや、それはまたどうして」
「どうしてって、三人いれば十分じゃない。だいたい何で私が、こんな格好で食事運んだりしなきゃいけないわけ? もうひとりの私だっているんだし……私が岩城の身の回りの世話をするとか、意味ないでしょ」
「意味があるかないか、決めるのはご主人様です」
「そんなの……勝手すぎる」
「鈴葉さんが仕事を放棄するのも、勝手すぎます」
ゲーテに何を言っても無駄だ。
私が背を向け歩き出すと、すかさず結人が追いかけてくる。
「オマエさ、そんなに突っ張ってんなら、ちゃんとアイツと話しろよ」
肩を掴まれて、その腕を振り払い、私は足を止めた。
「何にも知らないくせに」
「んぁ?」
「私と岩城のこと、何も知らないくせに、簡単にそんなこと言わないでよ!」
みんな無神経に、私の古傷を引っかいてくる。
私と結人は睨み合って、そして結人のほうから視線を逸らした。
「知るかよ……知らねぇよ、お前らに何があったのかなんて」
吐き出すように言ったあと、結人は薄ら笑いを浮かべた。
「付き合ってらんねぇ。俺、やることやんなきゃ消されるから、行くわ」
足早に横をすり抜ける結人に、何か声を掛けようとしても、言葉が見つからなかった。
結人の言うとおり、ちゃんと話をしなきゃいけないのはわかってる。
そして、結人が私たちのことを知らないのも当たり前で。
わかっているのに、こうやって、私はまた掴みかけた「何か」を失う。
不意に結人が足を止めるから、私もつられて入り口のほうを見た。
「教えて」
彼女は、真っ直ぐに私を見つめてそう言った。
「あなたと岩城に何があったのか、私は知りたい」
わずかに首を傾け、目を細め、睨むようにこっちを見つめているのは、もうひとりの私だった。
胸の前で腕を組み、ゆっくり近づいてくる。
「話したくないって、言ったら?」
私の問いに、彼女は足を止め、視線を結人に向ける。
「岩城に頼んで、まぎらわしい彼を消してもらう。だって、おかしいでしょ? ひとつの世界に、同じ人間がふたりずついるなんて」
指を差された結人は、愕然とした表情で私を振り返った。