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「……は、…ずは」
誰かが、私の肩に触れて名前を呼んでいる。
遠くから聞こえる声が、少しずつ鮮明になってくる頃、ぼんやりと視界が開けた。
灰色の空から降る細やかな滴が、静かに私の頬を濡らす。
視界が不意に暗く影を落とし、現れたのは見慣れた顔。
「鈴葉」
岩城。
微かに唇は動いたかもしれないけれど、声にならなかった。
すべての感覚を奪われてしまったかのように、意識だけがここにある。
私、どうしてこんなことに。
「大丈夫か、鈴葉」
わからないけど、あんまり大丈夫じゃない気がする。
どうしてこんな雨の中、芝生の上に寝転がってるのか、何ひとつ思い出せない。
岩城に抱え起こされて周りを見渡しても、ここがどこだかわからない。
ふと額に柔らかな感触が落とされて、私は顔を上げる。
今まで見たことのない、切なげな岩城の表情に、私はにわかに衝撃を受けた。
それも、お互いの息が絡まりそうなほど、こんな近い距離で。
「なん、で」
やっと、声が出たのは、本能がこの状況を危機だと悟ったからかもしれない。
「近いーっ!」
まるで電源スイッチをオンにしたかのように、身体の感覚を取り戻した私は、すぐさま岩城の顎を押し返した。
その腕の中から抜け出すと、慌てて立ち上がる。
しりもちをついた格好で、岩城は顎を押さえて私を見上げた。
「どうしたんだよ、鈴葉」
「そ、そ、そ、それは、こっちの台詞よ。どさくさにまぎれて、何しようとしてんのよっ」
訝しそうに首をかしげ、岩城もゆっくり立ち上がった。
くらりと眩暈がするのは、この状況のせいなのか、それとも倒れてたのに無理やり起きたせいなのか、もうわからない。
「何って……大丈夫だよ。今、女王陛下はバスルームに入ったばかりだから、しばらくは出てこないだろう」
「は……?」
「一体、何があった? こんな場所で倒れてるなんて。心配したぞ」
ジョオウヘイカ?
その言葉、聞いたことがある。
だけど、いつ? 頭の中が混乱して、上手く思い出せない。
「けど、さすがにまずいだろ。お前がその服、着てるなんて」
「え?」
「それも、陛下の気まぐれか?」
私の理解できないことを次から次へと話しながら、岩城はこっちに近づいてくる。
目を細めて、優しく微笑んで。
そんな余裕たっぷりな表情だって、初めて見る。
「岩城、何か、変だよ」
一定の距離を保つべく、私は数歩下がって、岩城の様子を伺った。
「変なのは、鈴葉のほうだろ。頭でも打ったのか?」
笑ってそう言われると、そうなのかもしれないと思う。
だけど、だけど。やっぱり、何かがおかしい。
「それに」
一気にふたりの間を詰められて、腕をつかまれた。
「ふたりっきりの時は、岩城なんて呼ぶなって言ったろ?」
は!?
いつから私たちは、そんな関係になったんですか!?
いや、なってない、絶対になってない。
私の知ってる岩城は、そんなこと、こんなカッコイイ顔して言えるようなヤツじゃない。
こんなふうに、積極的にオンナに迫れるようなオトコじゃないっ!
「アンタ、誰?」
「だから、何なんだよ鈴葉。記憶喪失ゴッコとか、そういう新しいプレイ?」
腕を振りほどこうとしても、岩城はニヤニヤしながら離してくれない。
「今日はマジで女っぽいし、可愛いよ」
甘い口調に乗った言葉に、思わず全身が粟立った。
あの岩城が、こんな調子でそんな台詞を吐くなんて、絶対にありえないっ。
この、目の前のオトコは、一体、誰!?
「結人様、結人様!」
聞き覚えのある声に岩城が振り返り、私もその方を見た。
薔薇の垣根の向こう、西洋風の建物のエントランスから、白いひらひらのエプロンをした女の子が手を振っている。
「結人様、ゲーテ様がお呼びです」
「わかった。今行くよ。鈴葉、またあとで」
いやらしい流し目だけ残して、岩城は足早に建物内に向かう。
そして岩城を呼んでいた女の子に何やら耳打ちすると、今度はその彼女がこっちに向かって来た。
「鈴葉様、どうなされたのですか? こんな格好で、びしょ濡れで……すぐに替えのお召し物をお持ちいたします」
「あ……」
「はい?」
「春日さん、だよね?」
確か、クラスメイトの春日さんだ。
確信が持てないのは、彼女の格好が黒のローファーに、ニーソックス、ふわふわした短めの黒のワンピースの上には白いフリルの付いたエプロン。で、ツインテールの頭には、何の役目かまったくわからない、エプロンと同じくフリルのついたカチューシャ。
いわゆる、コスプレ的なメイドファション。
今日は、学園祭だったっけ?
彼女のスタイルを下から上まで目で辿ると、頬を赤くしてこっちを見る瞳と視線がぶつかった。
「わたくしなんかの名前を、覚えていてくださったんですね……?」
「いや、だって、クラスメイトだし」
「え?」
え? って。
聞き返される意味がわかんないけど、春日さんは、あの休み続けてる林田さんの友達だ。
巻き髪ツインテールは、いつもなら後ろでひとつにまとめた真っ直ぐストレートで、眼鏡をかけていたから随分と印象が違うけど。
「このままでは、風邪をひいてしまいますわ。とにかく、中へ」
春日さんに促されて、私は建物の中に入ることにした。
私が倒れていた場所は、どうやら中庭だったようで、小さな丸い噴水に見事な薔薇の垣根、短く刈られた芝生には、石畳が続いていた。
大袈裟な階段を上ると、春日さんがガラス張りのドアを開けてくれた。
「ここ、どこ?」
ぼそり呟いて、私は息を飲む。
映像や写真でしか観たことのない、中世ヨーロッパのお城みたいな天井画に調度品。
光ってる床は、大理石?
「では、すぐに着替えと熱い紅茶でもお持ちしますので、鈴葉様はお部屋でお待ち下さいませ」
「えっ、部屋って……」
呆然とする私に、にっこり笑って深々と頭を下げると、春日さんはツインテールを揺らしながら小走りでどこかへ行ってしまった。
ひとり、置き去りにされた私は、どこへ行けばいいのか。
部屋で待てって言ったって、どの部屋に行けばいいんだ!?
「っていうか、ここ、どこっ!」
声がホールに空しく響いた。
とたんにぶるっと身体が震える。
どれくらい、あの芝生の上で気を失っていたんだろう。
髪の毛からは、冷たい滴が頬を伝って落ちる。
制服のジャケットから中のシャツまで、しっとりと湿っていた。
私はジャケットを脱いで、濡れた髪をかきあげる。
「ホントに、記憶喪失かな」
岩城が言っていたように、どうにも状況が把握できない。
ここがどこで、どうしてこんなところにいるのか。
岩城がいつの間にあんな色男になって、春日さんがいつからイメチェンしてメイドの格好をしてるのか。
何かが起きたことは、覚えてる。
だけど、それが何だったのか、思い出せない。
私は雨の降り続ける外を眺めて、小さく息を吐いた。