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「おいしいね」
夕食のメインディッシュである白身魚のムニエルを口に運んで、もうひとりの私が正面に座る岩城に微笑んだ。
いわゆる林田さんの世界からの使いまわしらしい豪華な広い食堂で、私と結人は扉の横に立ち、春日さんと林田さんが料理を運んでくるのを待っている。
私たちの仕事は、運ばれてきた料理をテーブルの上に乗せること。私は岩城の、そして結人はもうひとりの私の担当だ。
たかがふたり分、誰かがひとりでやればいいのに。
きらびやかなシャンデリアの下、あと2、30名は座れそうな長いテーブルの一番奥に、岩城ともうひとりの私は向かい合って楽しそうに食事をしている。
残るはデザートのみ。
「たりー……」
ぼそりと結人が呟くと、岩城の後方に離れて立っているゲーテがひとつ咳払いをし、こっちを睨む。
それを受けて結人が舌打するから、私は横目で結人を一瞥して、声を出さずにこっそり笑った。
体育館から結人と一緒に使用人部屋に戻ると、春日さんから
「ご主人様に仕えるという、使用人としての自覚が足りません!」
なんて、こっぴどく怒られた。
言われたとおり、そんな自覚、正直この先も持てる自信がない。
あれから館内の掃除やら、昼食の準備に後始末、庭の手入れと指示されるままに身体を動かしていると、あっという間に日が暮れて夜が来た。
それにしても、本当に妙な気分だ。
あの私を見つめる岩城の瞳は、思っていたよりもずっと、甘くて優しい。
岩城の前で笑ってるもうひとりの私も、気持ちが悪いほど、中学のころの私に間違いなくて。
過去を思い出して再び感傷的になりそうになったところで、扉が開き、春日さんと林田さんが現れた。
「デザートをお持ちしました」
ふたつのカートが運ばれ、上に置かれたモノを見て、結人が怪訝な顔で首をかしげる。
そんな反応に、私もつられてデザートに目をやると、思わず声を上げてしまった。
「あ……」
「贅沢なコース料理の最後が、これかよ」
ガラスのデザート皿の上には、薄いビニールで蓋をされたプラスチックカップのプリンが、ただぽつんと置かれていた。
私がごくりと息を飲むと、同時におなかがぎゅるると音を立てる。
ここにいる全員が硬直し、しばしの沈黙のあと岩城が笑う。
「いいよ。一個だけ、鈴葉の分だけこっちに持ってきて。俺はひとくちだけで十分だから。それは、きみが食べて」
意図的に、私に食べさせたいということ?
それとも……何?
おなかの音が恥ずかしいとか、このプリンが懐かしいとか、「きみ」と呼ばれたことに違和感を覚えたのは一瞬で、岩城の考えてることが益々わからなくて、つい眉根を寄せて岩城の表情を伺った。
「では、有川さん、ありがたくいただきましょうか……」
小さな声で、カートを押してきた林田さんが囁くから、私は首を横に振った。
先にもうひとりの私のほうへ向かった結人に続き、私も皿を持って岩城の元へ急ぐ。
「結構です。どうぞっ」
勢い余ってテーブルに置くと、皿の上のプラスチックカップが揺れる。
「これ、岩城が言ってたプリン?」
「そ。鈴葉、たぶんすげー気に入ると思う」
ふたりの会話なんて、聞いていたくない。
岩城が私をちらりと見遣ったのはわかったけれど、さっさと岩城の側を離れて、再び音を立てそうな胃の辺りをそっと押さえた。
「トミタのプリン」
その言葉は、あきらかに私の背中に投げかけられたもので、足を止め、ゆっくり振り返る。
と、飛んできた物を反射的に両手で受け取った。
わずかに私に微笑んだ岩城は、おいしいと声を上げたもうひとりの私に向き直り、ひとくち食べたいと口を開ける。
ラブラブバカップルのごとく差し出されたスプーンを咥え、本当にひとくちだけ食べた岩城と目が合った。
「好き、だったよね?」
「………」
岩城の言葉に黙ったまま、手の中のプリンを見つめる私に、結人と、もうひとりの私の視線が注がれる。
「有川さん、ご主人様のご好意です。折角ですから、ありがたく頂きましょう」
ゲーテに促されて、私は黙って岩城に背を向けた。
「……岩城、もうひとくち食べない?」
「ん? いいよ。俺は、それ食べてる鈴葉を見るのが好きだから」
「何それ。変なの」
背後で交わされるふたりの会話に、岩城を振り返りそうになって、止めた。
岩城がそんなふうに見てたなんて、初めて聞いた。
でもそれは「彼女」に対してで、過去の私に向けての言葉じゃないのかもしれない。
手の中のプリンをカートに置くと、不思議そうな顔をした林田さんと目が合った。
なんとなく笑みを返して、私は立ち位置に戻ると岩城の横顔を見つめる。
それから食事中、岩城の視界に私が入ることは、おそらく無かったと思う。
食事が終わり後片付けをしてから、朝食と同じ使用人部屋で私たち四人も夕食をとった。
「有川さん、ご主人様から頂いたプリン、召し上がりませんか?」
「あ、あぁ……」
ちょうど食べ終わったころ、春日さんが立ち上がって、冷蔵庫からあのプリンを持ってくる。
銀色のスプーンとともに、どうぞと差し出されたものの、手が進まない。
「食べないの?」
「林田さん、食べたかったらあげるよ」
「べ、別にそんなつもりで言ったんじゃなくて! それに、好き、なんでしょ?」
両手をぶるぶる振って拒否しながら、向かいに座っていた林田さんは上目遣いでこっちを見る。
食べなきゃいけないような雰囲気に、私はビニールをはがし、ひとくち食べた。
あのころと変らず、甘くて濃厚で、舌触りは滑らかで。
だけど、どこか切なくて、私は目の前の林田さんに差し出した。
「中学の帰り道に、トミタってケーキ屋さんがあって。前はよく買って食べてたの。おいしいよ、食べてみて」
ふうんと頷いて、林田さんはひとくち食べて目を輝かさせた。
「おいしぃーっ」
「よかったら、春日さんも食べて」
「わ、わたくしも、よろしいのですか……?」
林田さんに続いて春日さんも食べると、同じようにおいしいと声を上げた。
「結人も、食べる?」
隣に座る結人を見ると、いらねぇよと席を立った。
「もうシゴト終わりだろ? 俺、先にシャワー浴びるわ」
「あ、うん……」
ふいと背を向ける結人の様子が気になったけれど、なんとなく声を掛けられないまま、結人の姿はシャワールームのほうに消える。
結局、私も二口くらい食べて、あとは林田さんと春日さんのふたりにあげた。
自分たちの皿洗いや片付けは当番制にして、今夜は私と林田さんが洗い場に立つことになり、ふたりでキッチンの前に並ぶ。
「有川さん」
食器の洗剤を洗い流す私の横で、皿を拭きながら林田さんが私を呼んだ。
「何?」
「岩城くんと、有川さんって……その……本当に付き合ってないの?」
一瞬、私の手が止まった。
「あ、あ、あの、別に、答えたくなかったら、いいんだけど……」
「いや……うん。付き合ってないよ」
「本当に?」
持っていた皿で顔の下半分を隠して、林田さんの目がこっちを伺っている。
「うん。ホント。よく一緒にいるけど、友達」
「そう、なんだ」
「残念?」
「え?」
「林田さんの想像みたいに、付き合ってたほうが良かった?」
「や、え、あ、それ、それは、あくまで私の妄想で! なんていうか、そのー……私にとってふたりは憧れっていうか」
顔を真っ赤にして、しどろもどろになりながら、林田さんは首を振った。
そして、深々と息を吐く。
「有川さん……笑わないで、聞いてくれる?」
最後の皿を洗い流し、ふきんを手にしながら私は首を傾げた。
「校内きっての美男美女が、あんなに仲がいいのに付き合ってないっていうのは、すごく有名で、何かワケがあるんじゃないかって、ずっと不思議だった。私、勝手に有川さんは……その、女の子にしか興味ないのかなって思ってて。だけど、同じクラスになってみたら、そうでもないのかなって。やっぱり、ふたりは実は付き合ってて、それを隠さなきゃならないワケがあるんじゃないかとか、そんなことばかり想像してて。だから、あんな世界になっちゃったっていうか……ごめんなさい」
ちょこんと頭を下げるから、私は微笑んでから持っていた皿を棚に戻す。
「別に、想像なんだから、謝ることないよ」
苦笑した林田さんは、ふと真顔に戻って私を見上げた。
「有川さんは、岩城くんのこと……好きじゃないの?」
今は、好きじゃ、ない。だけど。
「中学のころは、好きだったよ」
「じゃあ、岩城くんも……」
「でも、付き合ったことないし、高校入ってから、あっちは他に彼女できたし。いつの間にか、ホントに男とか女とか、そういうの越えちゃったっていうか」
「そう思ってるの、有川さんのほうだけなんじゃないのかな」
何気なく呟くような林田さんの一言が、胸の奥にチクリと刺さって笑えずに口を噤んだ。
「あ、いや、あの、ごめんなさい! なんとなくそんな気がしただけで……」
林田さんがあまりにも動揺してるから、随分と嫌な顔でもしてしまったのかもしれない。
私は首を左右に振って微笑んだけど、それから微妙に気まずい空気が流れたまま、あまり言葉を交わすことなく片付けを終えた。
林田さんは部屋に戻ったけれど、私はひとりになりたくて、暗い廊下をあても無く歩いた。