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嫌な汗が全身にまとわりついて、ネクタイを外し、ジャケットも脱いだ。
「……変態っ」
小刻みに首を横に振り、前髪をぐしゃぐしゃと掻いた。
「……ロリコンっ」
いつの間にか走り出した私は、誰もいない廊下を体育館に向かっていた。
「なんで」
岩城の相手は私なのに、だけど、今の私じゃなく、中学のころの『私』だった。
「どうして」
意味、わかんない。
弾む息を抑えて、林田さんの世界では裁判所になっていた体育館のドアを開く。
物々しい前の世界とは違い、ワックスをかけられた茶色の床に、誰もいないステージ。更衣室に用具室、そしてバスケットのゴールポスト。現実世界と変わらない体育館が、そこに存在していた。
私は一度大きく息を吐き出して、その場に脱いだジャケットとネクタイを放り投げる。
「ロリコンは、言い過ぎか」
そんなことをひとりごちると、ふと笑えた。
あのころの私は、どちらかといえば周りの女の子たちよりオトナっぽいと言われていたし。
「けど……」
そんな私と、していいことと、悪いことがあると思う。
それも、私の目の前で、私に気付いていたくせに。
呼吸と同時に心拍数も落ち着いてきた一方で、頭の中は混乱したままで。
私はステージ下で隅のほうに追いやられたアップライトピアノの前までくると、黒いカバーを外して無造作に床に置き、鍵盤の蓋を開ける。そして、イスの高さを合わせてから座り、鍵盤に触れた。
しばらく弾いていないから、たぶん、ひどい曲になる。
ぎゅっと指を握りしめてから、再び鍵盤の上に指を置きなおした。
「………」
息を吸って吐き出すと同時に鍵盤を押す。
古いピアノは、篭って割れたような音がする。
それでもいい。今はただ、何もかも忘れて、ただピアノを弾きたい。
ショパンの「革命」を弾き始め、やっぱり左手が動かずにひどいミスをする。
それでも今は、柔らかで優しい曲なんて弾く気になれなくて、ひたすら感情をぶつけるように鍵盤を叩いた。
集中しようと思うのに、脳裏から中庭の光景が離れない。
まるであて付けのような岩城の行動。
でもそれが、岩城の望んだ世界なのか。
私は曲の途中で、両手を広げて鍵盤を強く叩いた。
耳を塞ぎたくなるような濁った和音が体育館に響き、空しく消えていく。
「わかんない」
岩城の気持ちも、私自身の気持ちも。
胸に濁った感情を抱えたまま立ち上がり、なんとなく用具室の扉を開くと、バスケットボールを手に取った。
授業では何度か触れたボールだけど、真剣に楽しんでバスケをしたのは、たぶん高校に入って一度だけ。まだ一年生ころに岩城とふたりでやったのが最後だ。
何度か床にボールをバウンドさせながら、バスケットゴールのそばまで来ると、シュートを放つ。
見事に外れたボールは弾かれて、私の居場所から遠い所へ転がっていく。
溜息を吐くと、なんだか泣きたくなった。
「何をやっても、ダメだ」
ピアノも、バスケも、岩城への気持ちも。
全部中途半端で。
私は黒い革靴と靴下を脱ぎ、ズボンを膝まで折った。
転がっていったボールを拾い、再びゴールに向かってボールを投げた。
今度はリングに弾かれて私のほうへ戻ってくる。
『ボールは、下からリングが見えるように、デコにかまえる。で、肘は開きすぎない。手を伸ばす時は、斜め前。ボールを離す瞬間に、手首のスナップをかける。膝を曲げて、足首のバネも使えよ』
フォームなんて気にせずに、それまで感覚できまっていたシュートが全く入らなくなって、岩城から説教を受けたのは、いつだったか。
「ボールは、額。肘、膝、足首。斜め前」
呟きながらフォームを作ってボールを放つと、緩やかできれいな弧を描き、ゴールに吸い込まれる。
それからゴールまでの角度や距離を変えて、何度もシュート練習をした。
あのときは、岩城がずっとそばにいてくれて、嫌になるほど同じ練習ばかり繰り返して。だけど、そのおかげで、私はスランプを脱出できた。
こんなことを思い出すのは、あんな私を見たからで。
ふたりの姿が浮かんで、またボールはバックボードにあたり、跳ね返る。
「………」
体育館の真ん中あたりまで転がって失速し、動くのを止めたボールをぼんやりと見ながら、私も床に座る。
そしてそのまま、寝そべった。
床は冷たくて、林田さんと一緒に過ごした牢屋を思い出す。
こんなことになるのなら、先に私の願いを叶えてもらえば良かった。
そうすれば、岩城のあんな望みなんて、知らずに済んだのに。
「こんなとこでサボってんじゃねーよ」
身体を起こして振り返ると、ネクタイを緩めながら結人がこっちに向かってくる。
「掃除、もう終わったの?」
「いや。まだだけど。鈴葉を探してこいって、ゲーテからの命令だ」
岩城と同じ姿の結人すら、今の私は直視できなかった。
「わかった。戻るよ」
「鈴葉」
立ち上がろうとした私の目の前に結人がしゃがみ、私の顔を覗きこむ。
「やっぱ、好きじゃないとか言っときながら、ああいう状況はショックなわけ?」
「結人も、見たの? 岩城と一緒にいる……『私』」
黙って、じっと私を見つめるから、耐え切れずに視線を逸らす。
もう一度立ち上がろうとして、今度は腕を掴まれた。
「俺の知らない鈴葉だった」
「……うん。何年か前の、私だよ」
「アイツはどうして、今の鈴葉じゃなくて、あの鈴葉と一緒にいんの」
「知らない」
知りたい。
でも、知るのは、怖い。
ただ、わかっているのは、今の私が否定されているということだけ。
泣いてしまいそうで、それを悟られたくなくて。抱きしめてほしくて。
私は結人の背中に両手をまわし、すがるようにジャケットを握りしめた。
「鈴葉」
結人は、知らない。
今の私しか知らずに、私を好きになってくれた。
このまま、この世界で、私も結人と一緒に消えてしまえたらいいのに。
「俺は、鈴葉のことが好きだよ」
「私も……」
肩に埋めていた顔を上げて、私は目の前の結人の瞳をじっと見つめた。
「私も、結人が好き」
そして、私の方から結人の唇にキスをする。
けれど唇はすぐに離れ、結人は私の頬を手のひらで包み込むと、表情を変えないまま口を開いた。
「鈴葉は、もし俺が『岩城結人』じゃなくても、俺のことを好きになった?」
「え……」
「俺が、アイツと違う顔や身体でも、好きになってくれた?」
どう答えていいのか、わからなかった。
結人は岩城で。
だからこそ、最初は戸惑って、そして魅かれたのは間違いなかった。
「結人は……結人だよ。だから、違う顔とか身体とか……そんなの、考えられない」
「曖昧で誰も傷つけない、優秀な答えだね」
「だって」
「いーんだよ、別に。そんな答えが返ってくるんだろうって思ってた。つーか、感傷的になって甘えてるだけの告白とか、いらねぇから」
そんなつもりはなかったのに、中途半端な私の心を見破られ、突きつけられた気がした。
言葉を返せない私に向かって大きく息を吐き出して、結人は立ち上がる。
「いつまでもサボってたら、マジで俺、消されるから行くぞ。食事の後片付けは、俺と鈴葉でやれだって。めんどくせーな」
まるで今の話をなかったことにしたみたいに、いつもの調子で悪態を吐くから、急に不安になる。
私も立ち上がって結人の名前を呼ぶと、ふと表情が翳る。
「ゲーテは俺を消そうとしたのに、それをアイツが止めさせたんだ」
「岩城、が……?」
「一番消えてほしいはずの俺が、どうしてまだここに存在してるのか、俺にはよくわかんねぇ。けど、アイツに礼を言うつもりはないし、鈴葉のことも絶対に譲らない」
低い声で強く言い放つと、私を見て口角をくいと上げた。
「ってことで、今夜はこの前の続きしようぜ」
「……バカ」
いつもならそんな台詞にうんざりしたり、腹が立ったりするはずなのに、今は、ひどく安心する。
思わず頬が緩んで、私はほっと息を吐き出した。
ポケットに手を突っ込んで私に背を向けた結人において行かれないよう、私は靴と靴下を拾い、その背中を追う。
岩城のことは、まだどうしたらいいのかわからないけれど、落ち込んでなんかいられない。
いつか、ちゃんと向かい合わなきゃいけないと思っていたんだから。
放り投げたままだったジャケットとネクタイを、結人が拾って私に差し出す。
「ご主人様にお会いした時に、その格好ではヤバイですから、ちゃんとしなきゃいけないですわよ、鈴葉さん」
誰かを揶揄するような真似をして、わけのわからない言葉遣いになった結人からそれを受け取り、私は笑いながら身支度を整えた。