file5-1「彼と彼女の存在理由」
「つーか、引くな……」
隣でバナナだけ食べている結人を尻目に、私はテーブルの上に並べられた白米、味噌汁、焼き鮭、卵焼き、ほうれん草のおひたしを次から次へと口へ運ぶ。
「病み上がりなんだから、いっぱい食べなきゃ元気でないの」
「フツー病み上がりは、おなかに優しいモノを、少しずつ食べるだろ。急にそんなにがっついたら、逆に腹壊すんじゃねぇの」
「おいしいんだから、大丈夫よ」
「鈴葉さん、お味噌汁はわたしが作ったんです」
「有川さん、卵焼き、おいしい?」
テーブルの向こうで微笑む春日さんと林田さんは、黒のメイド服に白いフリフリエプロン、ツインテールにはこれまた白いフリフリのカチューシャというまったく同じ格好で、並んで立っていた。
「うん、ふたりともおいしいよ。ありがとう」
おかわり、と茶碗を差し出せば、尻尾を振った犬のようにふたり一緒にそれを受け取り、キッチンのほうへと駆けて行く。
「あのふたり、どうなるかと思ってたけど、上手くやってるみだいだね」
「どっちにしろ、あいつらふたりとも、命拾いしたんだ。そういう極限状態を越えると、変な連帯感生まれたりすんじゃん?」
「ふーん……」
「ま、俺らは、連帯感を越えた関係だけどね」
「食事中は触んないで」
耳元に唇を寄せて肩を抱いてくるから、私は身体を揺すって結人の手を振り払い、味噌汁をずずずとすすった。
「何だよっ、昨日は泣きついてきたくせに」
「私も極限状態を越えて、ついでに熱でうなされて、どうかしてたんじゃないかな」
「……そーかよ」
二杯目のごはんを持ってきてくれた林田さんに、キラースマイルでお礼を言えば、頬を赤くしてはにかんだ。
うん、私、随分調子が戻ってきた。
焼き鮭の皮までおいしくいただいて全部たいらげると、私は箸を置き、ごちそう様と手を合わせる。
朝目が覚めると、熱は下がっていて、まだ少し身体がだるいけれど、動けないわけじゃない。
ゆっくりとベッドで休んだせいか、足首の腫れも引いたし、痛みも随分楽になった。
ここにいる林田さん、春日さん、私にそして結人、この四人が使用人としてご主人様である岩城の身の回りのお世話をするということを、春日さんから聞いたけれど、まだ状況はよくわからないままだ。
食器を片付けようと重ねたところで、春日さんが私の横に来て口を開いた。
「鈴葉さん、早速ですが、お仕事です」
「え?」
「ご主人様が、中庭で朝食を摂られるそうなので、お食事を運んでください」
「うん」
「それから、今後、お仕事のお話をする際は、敬語でお願いします。たとえ同じ使用人とはいえ、メリハリが必要ですからね」
「……わかりました」
春日さんの口調がやや厳しくなり、真剣な眼差しで私を指差すから、背筋を伸ばして小さく返事をした。
私の反応に春日さんは頷いて、にっこり微笑んだ。
「マジで、結構なスパルタなんだよ」
耳元でこっそり囁く結人の声が春日さんにも聞こえてしまったのか、目を吊り上げて結人を睨む。
「結人さん、あなたはこれから私たちと、ご主人様のお部屋の掃除に向かいます」
「えっ、ヤダよ。俺は鈴葉とメシ運ぶ」
「まずはその言葉遣い! そしてだらしのない態度! しっかり直して頂きます」
「なっ、そんな急に変えられっかよっ!」
「結人さん、ゲーテ様とのお約束、忘れていませんよね?」
イスから立ち上がりかけていた結人が、その一言で喚くのを止めて、脱力したように腰を下ろした。
「……わかってまーす」
いかにもわざとらしく、面倒くさそうに言うと、大きく息を吐き出して席を立った。
ゲーテとの約束って、何?
聞くに聞けないまま、じゃあなと軽く手を上げて、結人は春日さんと部屋を出て行った。
残っていた林田さんから食事の乗ったカートを渡され、彼女もふたりのあとを追ってドアの向こうに消える。
私はしばしカートを見つめてから、背もたれにかけていたネクタイを手に取った。
「何でまた、男装なわけ」
岩城が想像した世界でも、私は男役なのか。
そんな岩城に食事を運ぶなんて、やっぱりムカつく。
「ネクタイの締め方とか、知らないし……」
まぁいいや。
春日さんはいないし、相手は岩城だし、とりあえず一番上のボタンまで締めて、ジャケットを羽織る。
そして、カートに手をかけた。
そこにはパンとサラダにベーコンエッグが、ふたり分乗せられている。
首を傾げたところで、ドアがノックされ、ゲーテが現れた。
「おはようございます。鈴葉さん、顔色もすっかり良くなりましたね」
「あぁ、まぁ……」
「ネクタイは、どうしましたか?」
「したことないから、どうやっていいのかわからなくて」
「ご主人様の前に立つときは、きちんとした身だしなみでなければなりません」
私がジャケットのポケットからネクタイを出すと、すかさずそれを手に取り、手早く私の首にかけた。
「それに本来であれば、ご主人様より先に食事を頂くなんて、もってのほか。今日は特別ですが、明日からはしっかりお願いしますね」
「うん」
「うん、ではないと、春日さんに教えられませんでしたか?」
「……は、いっ」
死刑にならないように、こそこそ隠れているのも嫌だったけど、何てメンドーなことになったんだっ!?
体力が戻ると、怒りの感情もしっかりと湧き上がるようになって、思わず舌打ちしそうになる。
ネクタイを締めているゲーテが、ふと私を見つめて微笑んだ。
「なんだか、新婚さんみたいですね」
頬が引きつって、返す言葉が見つからない。
「さぁ、出来ました。では、ご主人様に粗相のないように」
「……わかりました」
苦しいのは気のせいか?
ゲーテにぽんと背中を押されて、私はカートを押しながら部屋を出た。
真っ直ぐな廊下には、誰の姿もなかった。
今日はうっすらと陽が差していて、床には格子の窓の影が出来ている。
私はカートの上の料理を見ながら、岩城と一緒にいるのは誰なのかと考えた。
ひとりで食べるなら、ひとつのさらにふたり分盛り付ければいいのだし、ナイフとフォークもふたり分揃えてある。
一緒にいる誰かは、私じゃない。
どこかで、岩城の想像の中では、私が彼の隣にいるんじゃないかと自惚れていた。
そばにいるのが女の子とは限らないけれど、男装した私が彼らの前に向かうのは、正直複雑で。
中庭のエントランスまで来ると、心地よい風がすり抜ける。
そして噴水の向こう、芝生の上に、彼らの姿を見つけた。
ぴたりと、私の足が止まる。
そこにある景色を受け入れられなくて、スロープを降りて芝生の上でカートを押すのは難しいかもしれないなんて、現実的なことを漠然と思う。
無造作に投げ出された両足、その上に跨るように乗っている彼女の、スカートの下から伸びる白い膝、紺色のハイソックス、見覚えのあるローファー。
長い黒髪が風でふわりと揺れると、彼女の首筋に顔を埋めていた彼の瞳がこっちを向いた。
私は息を飲んだのに、彼は何事もなかったように彼女の背中から腰に手を滑らせ、そして穏やかに微笑んで、愛おしむように彼女を見つめる。
彼女は私に気付くことなく、彼の髪に指を絡ませ、額から瞼、鼻先にキスをして、最後にふたりは見つめ合って、互いの唇を重ねた。
苦しいのは、きついネクタイのせいでも、病み上がりのせいでもない。
互いを味わった唇が離れて、ふたりは額をくっつけ、幸せそうに笑っていた。
耐え切れずに私は瞼を伏せて、ネクタイを緩めると一番上のボタンを外す。
そんなことをしても、胸の痛みは一向に治まる気配がないのに。
「あ、朝食だね。私、持って来る」
「いいよ。ここまで持ってきてもらおう」
「岩城、どれだけイイ身分なの? 自分でできることは、自分でしなきゃダメだよ」
たしなめるような口調でそう言うと、彼女は小走りでこっちに向かってきた。
「ありがとうございます。あとは、私がやりますから」
私が顔を上げると、彼女もやっと気がついて、その表情から笑みが消える。
私と彼女は、しばらく互いを見つめて呆然としていた。
「あなたって……」
先に口を開いたのは、彼女のほうで。
「『私』?」
それは、私の台詞だ。
彼女……中学の制服を着た中学生のころの私が、目の前で眉根を寄せ、怪訝な顔でこっちを覗き込んでいる。
まだ、真っ直ぐにバスケと岩城を見つめていたころの、幼い私。
「鈴葉に似てるけど、ただの使用人だから、気にしないで」
「そう、なの?」
振り返った『私』に、岩城は微笑んで頷いた。
「では、失礼します」
ただの使用人の私は、一刻も早くこの場所から逃げ出したくて、彼らに向かって一礼すると、そそくさと中庭を後にした。