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 暗闇に慣れていた目が、陽の光に拒絶反応を示して思わず瞼を伏せる。

 背後で錆びた扉が閉まると、そこへゲーテが手をかざし、有ったはずの扉が一瞬にして白い壁へと変化した。

 ふとどこからともなくおいしい匂いが漂ってきて、正直な私のおなかが「ぐー」と鳴る。

 聞かれなかったことにしたかったのに、ゲーテも林田さんも私を見てにっこり笑った。


「まずは腹ごしらえとしましょうか」

「……うん」


 昨日の朝、岩城がいなくなって朝食を食べ損ねて、結局おとついの夜から何も食べていない。

 視界がぐらつくのは、空腹のせいなのか。

 ふたりに笑われたのは恥ずかしかったけれど、このままじゃ本当に倒れそうだから頷いた。

 私が足を引きずるのを見て、林田さんが手をとって支えてくれる。

 ゆっくりとゲーテの後につきながら、私は辺りを見回した。

 世界が変わったはずなのに、この建物自体は特に何の変化もないようで。

 床は大理石、窓の外には私が倒れていた時と同じ中庭がある。

 暗闇から出た瞬間には眩いほどだった光も、窓の外を覗けば太陽は薄っすらと雲に隠されていた。

 ここに来た日と、景色は変わりない。

 けれど、どこか不気味なほど静まり返っていて、私たちの足音だけがやけに廊下に響いている。

 一階の食堂を通り過ぎたところで、ゲーテは扉をノックした。


「開いています、どうぞ!」


 忘れもしないこの声に、私と林田さんは顔を見合わせた。

 ゲーテがドアを開けると、全身をおいしい香りに包まれる。

 鼻を鳴らして、私は思わず大きく深呼吸した。


「春日さん、これから使用人見習いとなる玲果さんと鈴葉さんです。ぼくひとりの指導では至らない部分もあると思いますので、ご協力、お願いしますね」

「はい。もちろんです。ビシバシ指導させて頂きますので、よろしくお願いします!」


 一礼して身体を起こすと、ツインテールがふわりと揺れる。

 変わらないメイドファッションの春日さんが、目の前でにっこりと笑っていた。


「彼女は優秀なメイドですので、今回特別に残ってもらいました。おふたりは、この春日さんの言うことをよく聞くように」


 ゲーテは春日さんの後ろに回ると、彼女の肩に手を置きそっと耳打ちする。


「自分を殺そうとした人間と、命の恩人ですが、今はきみのほうが立場が上なのです。気後れすることはありませんからね。逆らったり歯向かうようなことがあれば、すぐぼくに教えてください」

「わかりました」


 ゲーテの言葉に表情を変えることなく、春日さんは笑顔のまま頷いた。


「では早速、おふたりには、これに着替えてもらいます」


 テーブルにセットされたそれぞれの着替えを、私と林田さんに渡すと、春日さんは部屋の奥にあるシャワールームに案内してくれた。

 ここは外の豪華さとは一転、簡素な作りで、もちろん結人の部屋のような調度品もない。

 シャワールームも衝立で仕切られ、カーテンで目隠しされているものがふたつあるだけで、清潔感はあるけれど、床は大理石ではなくタイル張りだ。

 結人の部屋のバスルームより、私はこっちのほうが落ち着いた。


「鈴葉さん、足、どうかしましたか?」

「あ、うん。ちょっと捻っただけ」

「では、着替えが終わりましたら、先に手当てしましょうね」

「ありがとう」


 微笑んで出て行く春日さんに、林田さんは一度も目を合わせないまま、先にカーテンの向こうに姿を隠した。

 私も横に置かれた籐のカゴに渡された着替えを入れ、カーテンの中に入る。

 やっと、この微妙に湿って臭っていそうなシャツとサヨナラできて、ほっとする。

 林田さんに続いて私も蛇口を捻ると、少し熱めのシャワーを浴びた。


「命の恩人って、どういうこと?」

「え?」


 シャワーを背中に浴びながら、シャンプーの途中で林田さんが声をかけてきた。

 その台詞ははっきりと耳に届いたのだけど、聞こえないフリをしてみる。


「もしかして、あのコの裁判の時、あの場所にいた鈴葉様って、有川さんだったの?」

「……そうだよ」


 今更な話だから、正直に答えた。

 すると、わずかな沈黙のあと、林田さんは声を上げて笑いだす。


「そっか、そうなんだ。そうだよね、鈴葉様があんなこと言うのはおかしいって思ってたんだ。やっぱり、有川さんだったんだ」

「うん」


 もしかしたら、責められるのかもしれない。

 私もまさか、新しい世界になっても彼女が存在するとは思わなかったし、それが私たちの指導係になるなんていうのは、全くの予想外。

 ゲーテが春日さんに言った言葉は、おそらく彼女ではなく、林田さんの胸に強く響いたはずだ。


 春日さんにとって、自分を殺そうとした人間。

 林田さんにとって、自分が殺そうとした人間。


 状況も力関係も一変して、これからは仲間になる。

 それから、林田さんは一言も発することなく黙っていた。

 私も自分の正義感を彼女に押し付けようとは思えなかったし、それよりも熱いシャワーを浴びてのぼせたわけじゃないはずなのに、ふらつく身体のバランスを取ることで精一杯になっていた。

 手を突いた壁が、妙に冷たい。

 シャワーの温度より、身体のほうが熱を持っているのか、背筋に悪寒が走る。

 わけのわからない世界に来てしまったことでの異様な緊張感と興奮。昨日の状況に空腹。これまで溜まった疲労が、ふと途切れてしまいそうで。

 シャワーを止めようと蛇口に手をかけた。

 それをちゃんと閉められたのか、曖昧で。

 壁にもたれた身体が床に崩れ、視界が徐々に闇に包まれていく。

 身体の感覚も、聴覚も、すべて奪われていくような状況の中、血相を変えた林田さんが私の顔を覗き込んでいた。

 そして視界には白い天井だけが映し出されて、私はたぶん、目を閉じた。

 遠くで声が聞こえて、途切れ途切れに意識が戻るのか林田さん、春日さん、うすら笑いのゲーテが見えたり消えたりする。


「これは困りましたね、ふたりでベッドまで運べますか?」

「私たちで、ですか?」

「無理よ! ゲーテ、アンタ男なんだから運んでよ!」

「ですから玲果さん、ぼくのことは『ゲーテ様』とお呼びください」

「そんなこと言ってる場合じゃないのよっ」


 うるさい。

 こっちは頭がガンガンするのに、私の上で三人が声を張り上げてる。


「春日さん、『アレ』はどうしましたか?」

「『アレ』は……わたくしではどうすることもできませんでしたので、とりあえずあのまま置いてありますが……」

「仕方ありません、緊急事態ですし、鈴葉さんがこの状況では、暴走することもないでしょう」


 アレって、何の話だ。

 そんなことどうでもいいし、私を運べないなら、ここでしばらく横にしておいてもらえれば、それでいい。

 たぶん、寝てれば良くなる。はず。

 再び意識が深いところに沈んでいきそうで、私は抗わずに成り行きに任せた。


「鈴葉!」


 その声に、私の意識は引きずりだされて、重い瞼を開ける。


「しっかりしろよ」


 結人? それとも岩城?

 朦朧とする私は、彼をどちらか判別することはできない。

 いや、でも結人はもう、いないはずで。

 だから岩城だと思うのに、確信できなかった。

 もしかしたら、とっくに意識は落ちていて、夢なのかもしれないし。

 複雑な気持ちのまま、ついに私はしばらく気を失うことになる。

 目が覚めた時は硬いベッドの上で、ゆっくりと何度か瞬きすると、誰かの手のひらが私の頭を撫でた。


「結人……」

「心配させんなよ」

「結人」

「ん?」

「結人、なの?」


 声が、震えた。


「そうだよ」


 私が聞いた意味を、ちゃんと理解して答えてる?

 少し憮然としたような顔で返事をしたあと、結人は私の額にキスをした。


「まだ熱下がんねぇな」


 手のひらを額や首筋に当て、結人は短く息を吐いた。


「ゲーテの野郎が今日は一日ゆっくり休んでいいってさ。その分、明日働かされるらしいけど」


 私が結人の頬に向かって手を伸ばすと、その手に自分の手のひらを重ねて、頬にあててくれる。

 確かに感じるぬくもり、存在。


「どうして……」

「俺も、よくわかんねぇ。けど」


 一度目を伏せて次にこっちを向いた結人は、切ないほど優しい瞳で私を見つめた。


「また会えて、よかった」


 私も、会いたかった。

 結人がいてくれて、良かった。

 岩城じゃなく、結人なのか、もっと触れて確かめたくて、私はもう片方の手を伸ばす。

 それに答えるように、結人の身体が私に重なった。


「ナニ? あの夜の続きしたいの?」

「バカ」


 耳元で笑う結人の背中を、私はしっかりと抱きしめる。


「大丈夫。俺はちゃんとここにいるから」


 結人の指が私の短い髪の毛を撫でる。

 そして瞼に唇を寄せた。


「だから、今はしっかり眠って、早く元気出せよ」


 確かに結人はここにいるのに、どこか浮ついた私の頭は夢か現実かわからなくなって不安になる。

 ずっと結人を見ていたいと思うのに、私は結人の手を握ったまま、再び眠りに落ちた。



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