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file4-1「崩壊と新世界」

「そろそろ目を覚ませ!」


 怒声と共に全身に冷たい衝撃を受けて、ぼやけた視界が徐々にはっきり見えてきた。

 鉄柵の向こうに黒い頭巾の人物が、バケツを片手に不気味に笑っている。

 彼の姿は、私の視線と並行に立っていて……つまり、自分が床に倒れているのだと気付くまで、そう時間はかからなかった。

 おそらく水でも掛けられたのか、肌を液体が滑り落ち、不快で拭おうとした手は後ろで拘束されていた。


「本当に良く似せたものだ。しかしよくよく見れば、残念ながらお前には、鈴葉様のような色気が皆無だな……イヒヒヒ」


 看守の丹波先生は、蔑むように私を見下ろし、こっちに向かって唾を吐いた。

 最悪、最低。何が色気だ、この変態。

 上手く声が出ない代わりに咽て、私は身体をくの字に縮めた。

 気色の悪い丹波先生の笑い声は徐々に遠くなり、やがて辺りはしんと静まり返る。

 まだ頭の中はぼんやりとしたままで、ただでさえひんやりとしたこの場所で、水を浴びせられた身体は体温を失っていく。

 起き上がる気力も湧かずに、ただ開いているだけの瞳には、鉄格子が映っていた。


「岩城……」


 わずかに漏れた声は擦れていて、でも耳が痛くなりそうなほどの静寂に包まれた牢獄には十分に響く。

 返事は聞こえないし、他に人間のいる気配がない。

 いや、こんな意識もはっきりしない中で、確信はないのだけれど。

 たぶん、春日さんが閉じ込められていた場所と同じところだろう。そこに今、私がごろりと寝転がっている。

 捕らえられてしまったのに、どこか心はひどく落ち着いていて、今が昼か夜なのかわからないまま、私はしばらく何も考えず、空中を見つめたままだった。

 脳裏にはクロネコが現われたあの日から今日までのことが、スライドショーみたいに断片的に浮かんでは消える。


 全てが本当に夢だったら。


 絶望的な状況で、後悔と共にそんなことを心から願うのは、あの日以来だ。

 この世界のことをよく知らない岩城が、いつまでも逃げられるはずがない。

 ゲーテが加勢して、もし、逃げ切って岩城の願う世界になったとして。

 その時、私はどうしていればいいんだろう。

 もう何も考えたくないと思っても、次々と不安は募り、気がつけば泣いていた。

 どれくらい時間が経過したのかわからないけれど、徐々に頭の中も意識もクリアになると、もうひとりの私を思い出して急に腹が立ってきた。

 上半身を起こすと手首を拘束しているのが手錠だとわかり、ついでに両足首にも足枷が付けられて、長い鎖の先には春日さんよりも大きい……ちょうどバスケットボールくらいの鉄球が転がっている。

 そして、右腕に残る鈍い痛み。

 白いシャツには、ほんのわずかに血の色が染みている。

 ピアノの音に気を取られていた私は、簡単にもうひとりの私に押さえつけられた。

 だけど、相手は私。力は同等。すべて、互角。

 だから目一杯抵抗して私たちは揉み合いになり、後から来た大勢に私は捕らえられ、それでも暴れる私に丹波先生が何かを腕に刺したのだ。

 さしずめ鎮静剤とか、そんな類いの注射だろうか。

 それから気を失って……。

 記憶がより鮮明になっていくほど、ぶつけ所のない怒りが込み上げてくる。

 静まり返ったこの場所に、不意に誰かの足音が近づいて、私は身体を硬くした。

 やがて鉄格子の向こうに現れた彼に、私は息を飲んだ。


「結人……」

「まだ、生きてた?」


 両手をズボンのポケットに突っ込んで、私を見下ろすのは、岩城じゃなく結人だ。

 もうひとりの私は、岩城は結人が探していると言っていた。

 結人だけがここに来たということは、まだ岩城は逃げているの?

 もはや味方とはいえない結人に、私はただ口をつぐんだ。


「水ぶっかけられたの? 拘束されて拷問受けて、これから犯されるみたいで、そそるね」


 バカバカしくて、言い返す気にもなれなくて、結人をちらりと睨んですぐ目を逸らした。


「何? 怒ってんの? 俺が部屋追い出したから、こんなことになったって」

「……そんなの、関係ない」

「じゃあ、アレだ、もうひとりの俺が鈴葉のこと放ったらかして、ひとりで逃げてるのが気に入らないとか?」


 鉄柵に両手を突いた結人の影が、わずかな灯りしかない私の場所から光を奪う。

 岩城はまだ逃げている。

 そう聞かされて、結人に気付かれないよう安堵する。


「あんなヤツの、どこが好きなわけ? ひたすら鈴葉の出方待ってるだけの、女々しいヤツ。おまけに肝心な時に、好きな女をこんな目に遭わせて、どっかに隠れてるだけ。最低だろ」

「だから、好きとか、そんなんじゃない。何度も言ってるけど、岩城に恋愛感情なんて、全っ然無いから」

「じゃあ、俺は?」

「えっ……」

「俺のこと、好き?」


 好きじゃないと、岩城と同じように恋愛対象になんかならないと言ってしまえば、それでいいのに。

 結人と視線が絡み合って、一瞬答えに戸惑った。


「俺は、好きだよ。今、目の前にいる鈴葉のことが好きだ。だから、助けに来た」


 結人はポケットを探ると、取り出した物を私に向かって差し出した。

 ジャリと金属が重なり合う音を立て、大きなリングにいくつかの鍵がぶら下がっているのが見える。


「結人、そんなことしたら……」

「侵入者を逃がしたなんて、バレたら即刻死刑だな。つーか、看守から強引にコレ奪ってきたから、アイツの目が覚めたらそれまでかも、な」


 鍵の束を握りしめて、結人は不敵に笑った。


「俺は、好きな女は命を懸けて守る。絶対に逃げたりしない」


 真っ直ぐな瞳は、その言葉にひとかけらの嘘も偽りもないことを証明してるみたいで。

 そしてその台詞に頷くことは、岩城が私を見捨てて逃げているということを認めてしまうことで。


「……ダメだよ」


 私は、本当はこの世界にいちゃいけない人間なのだから。


「こんなの、女王陛下も、もうひとりの私も、認めるわけないじゃない」


 半ば馬鹿にするように笑って顔を上げると、怒るだろうと思っていたのに、真剣な表情を変えずにじっとこっちを見つめていた。


「鈴葉。俺を、アイツの変わりに鈴葉の世界に連れて行けよ」

「何……」

「じゃなきゃ、もうひとりの鈴葉を向こうに送って、お前がここに残ればいい」

「そんなこと、できるわけないじゃない」

「何でだよ!? やってみなきゃ、わかんねぇだろ」

「岩城が良いって言うわけない」

「結局アイツかよ。やっぱ好きなんだろ?」

「違う!」

「だったら……」


 いつの間にか互いに睨みあって声を張り上げていたのに、不意に結人が背を向ける。

 途端に胸を締め付ける感情に、私自身、どうしたらいいかわからない。


「俺も、鈴葉と一緒に死ぬ」


 低い声が、はっきりと私の耳に届く。

 次に顔を上げると、結人は鉄格子の鍵穴に手に持っていた鍵を入れ、開錠しようとしていた。


「ちょっと、結人! バカっ!! ダメだってば、何してんの!?」

「鍵開けてんの。見りゃわかるだろ」


 近づいて何とか止めようとしても両足の足枷がびくともしなくて、私は床に這いつくばったまま、バタバタと両手を動かした。

 結人は目を吊り上げて、イラついた表情をしながらもたくさんある鍵を順番に鍵穴に入れ、まわしていく。


「クソ、どれだよっ」

「何考えてんのっ! ホントに死ぬ気!?」

「鈴葉を助けることしか考えてねぇし、一緒に死ねるならそれでいい」

「馬鹿!」


 幾つ目かの鍵を廻した時、カチッと錠が開放された音がした。


「よっしゃ、開いた!」


 鉄柵の扉が開き、中に入ってくるなり、結人は満面の笑みで私を抱きしめた。

 その力が強すぎて、苦しくて。

 だけど、暖かくて、切なくて。

 全身の力が抜けて、涙腺まで緩んだけれど、泣くのは必死で堪えていた。

 頬に触れる手のひらの温もりに、瞼を伏せれば涙が零れそうで、でもすぐそばにある結人の瞳をまともに見ることができなかった。

 俯こうとする私の顔を両手で包んで、結人の唇がわずかに躊躇ってから私の唇に重なる。

 ここまで追い込まれて、まるで王子サマみたいに助けに来てくれたから、なんて特別な状況のせいかもしれない。

 春日さんを助ける時は、あんなに不甲斐無く女王陛下に逆らうことを嫌がっていたくせに、今は、後先なんか何にも考えずに鍵を開けてくれた。

 一緒に死ねるならそれでいいなんて、どーしよーもなくバカだし、とにかく強引だし。

 でも私は、こうやって無理やりにでも気持ちをこじ開けて欲しかったのかもしれない。


 本当は。

 結人じゃなく、岩城、に。


 結人のキスを受け入れて、求められるままに応えながら、そんなことを考えている自分が嫌になる。

 だけど、結人。私は、結人のことが好きだよ。

 そう言葉にして伝えるのは、まだ怖かった。

 こんなふうに揺れている気持ちのままで、好きだなんて言えない。

 濡れた髪の隙間を結人の指がすり抜け、首筋を伝い背中を彷徨う。

 その軌道に沿って、見えない糸で縛られていくみたいに、私の身体はぴったりと結人に寄り添って離れられない。

 唇が何度も甘いキスを繰り返して、やっと、結人は私の耳元で熱い溜息を吐いた。


「鈴葉。これからもずっと、そばにいて」


 頷いてしまったら。

 もし、本当に私が結人を現実の世界に連れて行ってしまったら。

 ……一体、どうなってしまうんだろう。


「有川さんが結人様のそばにずっといることなんて、不可能だわ」


 私たちはその声が聞こえるまで、他の誰かの気配に気付くことができなかった。

 結人が振り返ると、開け放たれた鉄柵の向こうに、女王陛下である林田さんが立っていた。



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