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「天邪鬼、現代ではツンデレ。ちなみにぼくのこれは、ケモ耳と呼ぶんだそうです」
帽子を取って耳を指差しそんなことを言うけれど、そんなの知らないし、激しくどーでもいい。
それとも、私に感傷に浸っている暇なんかないとでも忠告しているのだろうか。
もとはといえば。
「岩城の、せいだからね」
聞こえないかもしれないと思った。
だけど、聞こえるかもしれない声で私は言った。
「は? なんだよ鈴葉、どういう意味だよ」
どうやら耳に届いていたようで、聞き流してくれるのかと思えば、今回はそうではなかった。
「岩城が勝手にいなくなったりするから、結人が怒って部屋を追い出されたのよっ。これからどうするつもり!?」
「別にアイツにかくまってもらわなくたって、どこかそのへんの部屋に隠れてりゃいいだろ?」
「じゃあ、着替えは? 食事は? この状況がいつまで続くかなんて、わからないんだよ? とにかくしばらく黙ってこの部屋にいれば、なんとかなったんだから」
「んなこと言うなら、鈴葉はアイツと仲良く部屋に閉じこもってろよ! 俺は俺で、ひとりでもかまわない」
ふいと顔を背けられ、やっと私は我に返った。
今、岩城と言い合ってる場合じゃないのに。
そう気がついたときには、結人は私の手からジャージの上着を奪うように取り、強く私を睨んで背を向けた。
こんなふうに険悪になるつもりじゃなかったと、私は髪をぐしゃぐしゃと掻いた。
「さすがに同じ人物だけあって、岩城くんもツンデレ、ですか。もしくは流行の草食系男子、とか」
ゲーテの台詞は岩城を挑発したつもりなのかもしれないけれど、岩城は立ち止まることなく、そのまま足を進める。
私は足の痛みに唇を噛みながら、岩城の背中を捕まえた。
「ひとりでなんて、危険すぎる。ごめん、一緒にいよう、岩城」
岩城はなんとか立ち止まって、小さくわかったよと頷いてくれる。
私はそっと溜息をついて、岩城の背中から手を離した。
今ここにいる相手は、結人じゃない。岩城なのだ。
つい結人に文句をぶつけるように岩城に物を言ってしまったことを、ひどく後悔すると同時に、妙な空しさが胸を絞める。
「足、どうした?」
「うん……ちょっと捻っただけ」
「大丈夫か」
「……平気」
そう、こうやって、岩城はいつだって優しい。
だから、私もあんなふうに声を荒げて彼を責めることなんて、したことがなかったのに。
付かず離れずの微妙な距離を守るために、本音をぶつけることは、もうやめていたのに。
「私、どうかしてる」
「それは、俺も同じだよ」
私たちはお互いに、できそこないの不自然な笑顔を突き合わせているのかもしれない。
隣にいるのに、以前よりもっと、岩城との距離が遠くなった気がした。
と、ゲーテが白い手袋を身につけた手で、拍手しながら私たちに近づいてきた。
「ふたりが同性ならば、これは爽やかな友情かもしれませんが、男女に友情など成立しない。どちらかが一方的に恋心を抱いている場合が多く、ほとんどが儚い片思いで終わってしまう。まぁ、一般論ですが」
そんなことをわざわざ口に出して、一体ゲーテは何が言いたいんだ。
「さて、鈴葉さん。今、岩城くんから彼の望む世界を受け付けたのですが。鈴葉さんもお決まりですか?」
「え……?」
思いがけない話に岩城の顔を見上げると、一瞬目を合わせただけで、岩城はすぐ視線を逸らした。
「そろそろ、林田玲果の妄想世界も終わりが近い。順序として鈴葉さんのほうが先なのですが、まだきみの望む世界を聞いていませんでしたから。すでにお決まりでしたらお伺いしようと思いまして」
「私は……別に、他の世界なんて、望んでない。ただ、現実に帰りたいだけ」
顎に手をあて私の顔をじっと見つめたあと、ゲーテは瞼を伏せてそうですかと呟いた。
「ねぇ、この世界が終わったら、林田さんは現実の世界に帰るの?」
返事の代わりにゲーテは澄んだ青い瞳をこっちに向ける。
美しい青は、時としてひどく冷たい色に変わる。
「それに、今いるもうひとりの私や、結人とか、みんなはどうなるの?」
「さぁ」
人を馬鹿にするようにおどけて首をかしげ、ゲーテはにっこり微笑んだ。
背後で黒いしっぽがゆらゆらと揺れている。
「気になりますか? 結人様がどうなってしまうのか」
「べ、別に結人のことだけを言ってるわけじゃなくて」
「岩城くんが来るまで、濃密な三日間を過ごされたわけですから、それなりの感情を抱いてしまって当然です。お気持ちは察します」
「だーかーらー、そういうんじゃなくって!」
「まぁまぁ、落ち着いてください。それでは、岩城さんの世界から先に作ることにしましょうか」
結局私の質問に答えはなくて、だけどこれ以上聞いても余計なことばかり言われそうで、私は口をつぐんだ。
代わりに横でずっと黙っていた岩城が、小さく声を漏らす。
「待てよ。俺の世界が先って……その間、鈴葉は、どうなるんだ?」
「さて、どうしましょう」
ゲーテの意地悪な笑みに、岩城の喉がこくりと鳴った。
「その胸のうちを、彼女には見られたくないですか?」
岩城の望む世界。
知りたいけれど、知ってはいけない気がする。
そっと岩城の顔を盗み見ると、タイミング悪く同じように私を見下ろす岩城の視線とぶつかった。
「非常に面白くなりそうですね。では、早々にこの世界を終わらせて、新しい世界の準備を始めましょうか」
私たちの気持ちを弄ぶようなゲーテが、指を鳴らそうと手を上げた時だった。
「そんなの、ダメよ! この世界を終わらせるなんて、絶対、イヤ!!」
悲鳴にも似た叫びに、私と岩城は驚いて振り返った。
彼女は握りしめた両手を小刻みに震わせ、唇をかんで私たちを睨んでいた。
教室で見せたことのない、穏やかなはずの目元をぎゅっと吊り上げて。
「これはこれは、女王陛下」
「ゲーテ、どういうこと!? 私まだ、終わらせるなんて……それに、どうして」
彼女、女王陛下である林田さんの目が、私と岩城を交互に見る。
それは、私たちをこの世界の人間じゃないと、現実のふたりだと認識しているような視線だった。
いつからそこにいたのか、どこから話を聞いていたのかわからないけれど。
これは。
たぶん。
かなり、マズイ状況だと思う。
「悪いな。俺たち、早く帰りたいんだよ」
彼女が林田さんだと気がついた岩城が、ごく普通に女王陛下に話しかけると、途端に林田さんは顔を上気させて表情を強張らせる。
そして、激しく首を左右に振ると、食いしばった白い歯が唇の向こうに見えた。
「絶対、絶対、ダメ。この世界は、誰にも渡さないっ」
強く言い放ち顔を上げたのは、もはや林田さんじゃなくこの世界を牛耳る独裁「女王陛下」だ。
私は息を飲み、岩城のシャツを掴む。
「誰か! 誰か来て!! 侵入者よ、捕まえて!!」
とたんに、どこからともなくこちらへ向かう足音と、あきらかに私たちを捕らえるための声が聞こえてきた。
「どういうことだよ!?」
「侵入者は、死刑よ!」
「お前、何ワケわかんないこと言ってんだ」
近寄る岩城の手を払いながら、女王陛下は力いっぱいに叫ぶ。
「岩城、とにかく逃げよう!」
「逃げるって、だって鈴葉」
「彼女は本気で私たちを死刑にする気なの!」
本人を目の前に言っていいことなのかわからなかったけど、躊躇っている暇はない。
そうしているうちにも、足音がどんどん近づいてくる。
「鈴葉さん、岩城くん、中庭はともかく、ぼくの管理範囲はこの建物内だけですので、逃げても外へは決して出ないように!」
走り始めた私たちに向かって、ゲーテが叫ぶ。
「二度と、戻れなくなりますからね」
笑顔で手を振るゲーテは、楽しそうに「お元気で」と付け加える。
まったく、敵対的なのか、それとも味方なのか、さっぱりわからない。
ろくな返事もせずに、私と岩城は階段の前までやってきた。
「鈴葉、ここからは二手に別れよう」
「でも」
「もし、どっちかが捕まっても、もうひとりが助けにいけばいい。ふたりとも捕まるよりはマシだろ」
「……わかった」
岩城は下の階へ、そして私は上へと向かう。
ほんの一瞬、もしかしたら岩城は私と逃げたくないんじゃないかと思ったけれど、すぐに逃げることに頭を切り替えた。
とにかく私はまだ、もうひとりの私が横に並んでいない限り、こっちの鈴葉として追っ手を欺くことができるはずだ。
階段を上がり、私は胸に抱えたままの制服をどうにかしたくて、辺りを見渡した。
並んでいる扉は、どれが誰の部屋か、何のためなのか開けるまでわからないし……。
「鈴葉様! ご無事ですか!」
声を掛けられ振り返ると、二人組みの男子が息を切らしながらこっちに向かってくる。
私は咄嗟に制服を後ろに隠した。
「侵入者がこの中にまぎれ込んでいるとかで」
「あ、あぁ。私は向こうを見てくるから、こっちは頼む」
「はい、わかりました」
適当な方向を指差し彼らに伝えると、あっさり私に背を向けて彼らは侵入者を探し始めた。
ほっと息を吐き、私は向こうと指差した音楽室のほうへ足を進めようとして、痛みの走る足首に思わず身を屈める。
勢いよく階段を駆け上がったせいか、さっきよりも痛みが増している。
「こんな時に……」
私は一度振り返り、誰もいないことを確かめてから、違和感のある足を引きずるように歩き始めた。
これから、あとどのくらい逃げたり身を隠したりしなきゃいけないんだろう。
岩城、大丈夫かな。
結人は……どう思ってるだろう。
そんなこと考えている場合じゃなくて、一刻も早く、しばらく見つからないような場所を探し出さなきゃ。
壁に手をつきながら歩みを速めると、どこからともなくピアノの音が響いてきた。
耳に微かに届く音色は、以前もうひとりの私が弾いていた二階の窓辺からなら、もっと大きな音で聞こえてくるはずで。
音楽室は防音になっているから、本来、この廊下まで聞こえてくるはずがないのに。
「でも……聞こえる」
まるで引き寄せられるように、私は足の痛みを忘れて音楽室のドアに手をかけた。
ゆっくりドアノブを回し、扉を開ける。
この世界に、防音設備はないのだろうか。
それとも、これは、幻聴?
奥のピアノ室には誰もいない。ピアノの音が聞こえるのは、もう一枚扉を隔てた向こう側からだ。
ノクターン。もうひとりの私が弾いていた、あの曲と同じ。
でも違う。私の弾き方じゃないし、もうひとりの私が弾いていた雰囲気とも違う。
もはや胸騒ぎどころじゃなく、心臓が早鐘を打っていた。
「……まさか」
そう、ここは空想遊戯保護区。
誰かの願いを、妄想を世界という形のあるモノに変えてしまう場所。
「みーつけた」
その声で現実に引き戻され、恐る恐る後ろを向いた。
「私は私を探す、結人は結人を探すのが、一番良い方法だと思ってね。なんとなくわかるでしょう? 『自分』の居場所」
私と全く同じ顔、身体、声を持つ人間が、目の前にいる。
なんとか逃げ出そうとした私は、あっけなくもうひとりの私に腕を捕まれ壁に押し付けられる。
「逃がさないよ」
不敵に笑う私にすぐさま嫌悪を覚え、反発し合っていた岩城と結人の気持ちが、いまさら身に沁みてわかる気がした。