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 音楽室の扉を開けると、奥にアップライトピアノが置かれた防音の小さなピアノ室がふたつある。

 左には二段に分かれた観音開きの扉が幾つもあって、中には新しいフォークギターがずらり、揃えられていた。

 十年ほど前だという新校舎の建設時、音楽教師の権力が強かったのか、特に音楽関係の部活動が活発なわけではないのに、音楽室の設備がやたらと充実していた。

 放課後は生徒に自由に開放され、日によるけれど、賑やかな場所となる。

 そして右にある、もうひとつの扉を開ければ授業を受ける広い教室で、残念ながらこっちは開放される日が滅多にない。

 もし、鍵が開いていれば、グランドピアノを思いきり弾くことができるのだけど。

 二階から四階にたどり着き、音楽室のほうを見た私は、思わず自分の目を疑った。

 曲線を描く黒いそれが、ゆらりと優雅に揺れて、わずかに開かれた音楽室のドアの向こうに消えていく。


「……ネ、コ?」


 瞬きをして凝視しようとしたところで、ネコの後姿、しっぽのように見えたそれの影もない。

 そんなの、いるわけないのに。

 私は首を捻ってもう一度影の消えたドアをよく見つめ、辺りを見渡した。


「なわけ、ないよね」


 ほどなく止めていた足を進め、ドアの前まで来ると、やはりネコが通れるくらい少しだけ重い扉が開かれたままだ。

 ドアノブに手をかけ、ゆっくりと中の様子を伺う。

 クロネコの姿はおろか、今日はギター少年たちの姿もない。

 ピアノ室はひとつだけ埋まっていて、いつものピアノを弾かないカップルが、何やら今日もいちゃついてる様子。

 やっぱり何かの見間違いかと息を吐き、私は気を取り直してもうひとつのドア、グランドピアノのある教室のノブに触れ、ゆっくり回してみる。

 回転が止まったところで、手前に引いた。


 やっぱり、ダメ、か。


 動かない扉を前に、期待で高鳴っていた鼓動が一気に収束して、私は落胆の溜息を大きく吐き出した。

 しょうがない、仲良くじゃれあって愛を語るカップルの隣の部屋で、こっちは真面目にピアノを弾こう。

 ピアノ室のドアは、ガラス窓から中が丸見えになるから、いつの間にか外に人だかりができてしまうことがある。

 いわば動物園の檻の中、いや、ガラスケースの中か。

 人から好意的な目で見られるのは悪くないけど、妙な視線を感じてピアノに集中できなくなるから、この時ばかりはちょっとウザイ。

 未練がましく今度は力を込めてドアノブを回してみるけど、やっぱり重い鉄の扉は押しても引いてもびくともしない。

 あきらめの悪い私は、ベートーベンみたいな髪型の、冴えないオッサン音楽教師を思い出して舌打ちした。

 けど、学校にピアノがあって、こうして放課後弾くことができるだけ、恵まれてる。

 そんなポジティブ思考に切り替えて、私はピアノ室のドアを開けようとした。


「にゃぁ」


 か細く高いその声を、私の頭はネコの鳴き声だと判断を下す。

 すぐさまあの黒いしっぽを思い出して、私は姿を探して振り返った。


「!?」


 人間って、あまりにも驚くと、声なんて出ないのだと初めて知った。

 なんて冷静に考えてる場合じゃない。

 私が二度チャレンジして開けることのできなかった扉を、まるですり抜けるように、クロネコの姿が吸い込まれていく。

 天井に向けて曲線を描き伸びているしっぽが、『それ』形に合わせて変形しながら金属の扉の向こうに消えると、『それ』はぎぃと重たそうな音を立てて閉じた。


「……はぁ!?」


 呼吸するのも忘れ、目の前のありえない光景を見ていた私は、息を吐き出しながら声を上げた。

 一度強く目を閉じ、何度も瞬きをして『それ』を見る。

 錯覚、幻覚!? どうやって見直しても、ちょうどドアノブの下方には、ネコがすり抜けられるくらいの、小さな白い『それ』、ドアが存在していた。


「何よ、コレ」


 ドアだ。どう見たって、ドア。

 象牙色のドアの下に、もうひとつ、真っ白なドア。

 ちゃんとノブだって付いてる、何の変哲もないドア。

 あの中年音楽教師、実はネコ好きで、わざわざこんなドアを作ったとか?

 そんなわけない、と思う。

 昨日までは無かったはずだし、そもそも、こんな鉄の扉に、もうひとつ後付けでドアなんて、あまりにも不自然すぎる。

 目の前の出来事を事実だと捉えたくなくて、だけど、現実に存在するドアに、私の思考回路はおかしな結論を出そうとしていた。


「このドアは、開いてるんだ……」


 私は床に膝をついて、ネコサイズのドアを凝視した。

 サイズ同様、ネコの手のひら仕様なノブは、使い古されたような鈍い銀色。

 このドアが開くなら、そこからなんとかして鍵を開けられないかと考えた。

 私の腕が入ったところで、鍵のついたドアノブまで長さが足りないけれど、何かモノを使えば鍵に届くかもしれない。

 やってみる価値はあると、私はその銀の小さなノブを回した。

 手ごたえを感じてドアを引き、私は床に耳をつけて中を覗く。

 向こうにはグランドピアノの脚が見えて、とたんにテンションが上昇した。


「よしっ」


 とりあえず、何か硬くて長いモノを持って手を入れて、内側のノブにつけられた鍵を回すことができればいい。

 ペンや定規の硬さじゃ、鍵を回すだけの力が入らないだろうと、私はフリップタイプの携帯電話を取り出した。

 薄型に機種変したばかりだけど、今現在、所持品の中で使えそうなものはこれしかない。

 私はこのとき、あまりにも不自然なドアや、消えたネコの存在を忘れていたわけじゃなかった。

 携帯を持つ手をドアの向こう側に差し込むと、電話の先がドアノブに触れたのがわかる。

 あと、少し。

 ただグランドピアノが弾きたい一心で、誰にも見られちゃいけない格好で、必死に手を伸ばした。


「鍵を、掛け忘れてしまったな」


 突如、ドアの向こうから聞こえた声に、額に浮かんでいた汗は、一気に冷や汗に変化した。

 でも、あの中年音楽教師の声じゃない。もっと若い男の声だ。

 だとしたら、誰? あのクロネコの飼い主? まさか。

 慌てて手を引き戻そうとして起こったアクシデントに、私の冷や汗は倍増する。


「う、そ……」


 強引に肩まで入れたせいか、腕が引き抜けない。

 いや、違う。

 つい今まで、こんなに肩までは入っていなかったはずなのに、まるで。

 向こうに『吸い込まれてる』みたいで。


「な、何、何なのっ!」


 必死に左手をドアに突き、引っ張ろうとしても、身体ごと強い力で向こう側に引き込まれていく。

 格好なんか気にしてられない。このままじゃ、右腕が引きちぎられる。

 私は身体のありとあらゆる部分を使って抵抗を試みてみるけれど、向こう側で一体何が起こっているのか、まったく歯が立たない。


「あ、あのっ!! すいません、聞こえますかっ」


 こうなったら、怒られるのを覚悟で、ドアの向こう側の声に助けを求めるしかない。

 左手のひらで、ばんばん音を立ててドアを叩き、彼に呼びかけた。


「ちょっと、大変なことになってるんですけど、なんとかしてもらえませんか!」


 肩はすでにすっぽりと飲み込まれ、頬の横には冷たいドアがあった。

 このままじゃ、首が絞まって死ぬか、腕が本当にもげるか……嫌な想像を振り払いたいのに、ドアの向こうにいるはずの人物から返事はない。

 じりじりと、身体が少しずつ向こう側へ持っていかれるのがわかる。

 なんだか、私はこのドアに食べられてしまうような気がした。


「おや?」


 焦りが絶望に代わる前に、向こうから呑気な声が聞こえた。

 けれどそれは、確かに何かを見つけた声で。


「き……聞こえますか!」

「えぇ、聞こえますよ」

「よかった。すみません、ちょっと腕が、抜けなくなっちゃったんですけど、そっちからなんとか押してもらえませんか」

「申し訳ないけれど、今、ぼくはとっても急いでるんだ。このままじゃ、女王陛下を怒らせてしまう」

「は……?」


 ????????

 わずかに見えたと思った希望の光は、絶望をほんの一瞬引き伸ばしたにすぎなかった。

 なんだそれ、ジョオウヘイカ? もしかして、扉の向こうにいるのは、頭のねじがぶっ飛んだ猟奇殺人者で、私の腕が切り離されるのを嬉々とした表情で眺めてるとか!?

 そんな突飛な発想をしてしまうほど、私の頭の中もパニック状態だ。

 

「と、とにかくっ! ちょっとでいいんです、このままじゃ、私……」

「あぁ、大丈夫。人間が入るには、ちょっとドアが小さいんです」

「そんなの、わかってますっ!」


 逆ギレしてしまったけど、それはあまりにも状況をわきまえず、上品に笑いながら答えるアンタのせいだ。

 悲しくなって、抗う力が抜けてしまいそう。


「とにかく、時間がないので、ぼくはこれで失礼」

「え!? ま、待って、待って!! っていうか、どこ行くのよっ!!」


 この教室へ繋がるドアは、コレしかないはずだ。

 意味わかんない! 相手が悪かったと諦めるしかないの?

 その時、突然顔の横にぽっかりと『穴』が開いた。


「へ……」


 思わず中を覗くと、そこは私の知っているグランドピアノが置かれた教室じゃなく、たくさんの星が輝く夜空のような闇が、ひたすらに続いていた。

 その中に、私の右腕と携帯電話が浮かんでる。


「え……えぇっ!?」


 遮るものがなくなった腕を引き戻そうと、バランスの崩れた体勢を変えようとする暇なんか、無かった。

 もしかしたら、女の子らしく甲高い叫び声を上げたのかもしれないけど、次の瞬間には、自分の身に起きたことに声を失った。

 闇の中に吸い込まれた身体は、まるでどこかに落ちていくように、猛スピードで一定方向へ向かっていく。

 手を伸ばしても、私がいたはずの空間はみるみる小さくなり、腕をすり抜けたカバンが口をあけたまま床の上に落ちている景色は、あっという間に夜空に消えた。


「岩城ぃーっ!!」


 どうしてこんな時に、彼の名を呼んだのかわからない。

 そして、私の意識もここで途切れた。



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