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小体育館の入り口はいたってシンプルな観音開きの扉で、上に裁判所と書かれたプレートが掛けられていた。中は幕が引かれ暗く、多くの使用人たちが参加しているはずなのに、不気味なほどしんと静まり返っている。
ステージであったはずの場所には女王陛下が足を組み、気だるそうに金色に輝く豪勢なイスに座っていた。右には薄いファイルを抱えたゲーテが、女王陛下を挟んで左には結人が立っていて、彼らの場所だけが明るく照らされている。
そして私は赤い絨毯のひかれた場所を、小さなランプ灯りひとつを頼りに前へと歩く。
ランプを持つ手と逆の左手首は銀色の冷たい鎖が巻かれ、それは後ろをついてくる彼女の首輪へ続いていた。
私たちが歩き出すと、彼女、春日さんにだけ妙に眩しいほどのスポットライトが当てられ、瞬間、館内にわあっと声が沸き上がる。それは春日さんに対する非難や罵声で、耳を疑いたくなるような嫌な言葉さえ聞こえている。
でも、これが当たり前なのだ。
女王陛下の機嫌を損ね、死刑をすでに宣告されたような使用人に対する態度。
そうしなければ、次は自分がここを歩くことになる。
中央より少し前にステージと同じ高さの小さな台があり、その階段の前に着くと今まで後ろを歩いてきた春日さんを台に上がるよう促した。
立ち止まった春日さんは、わずかに私を見たような気がした。
「早く上れ」
私は冷たくそう言い放ち、春日さんの首に繋がれた鎖を引く。
前のめりになった体勢を直して彼女は唇を噛むと、ゆっくり階段を上り俯いていた顔を恐る恐るステージの上の女王陛下へと向けた。
私は手首から鎖を外し、階段横にある鉄の棒に括り付けると、静かに結人たちのいる壇上へ歩き始めた。
「静粛に!」
ゲーテの声が一喝すると、罵声や嘲笑は瞬時に止み再び沈黙が訪れる。
ひとつ咳払いをして、ゲーテが仕切りなおすようにもう一度口を開いた。
「それでは、メイドが犯した女王陛下への行為について、裁判を始めましょう」
「まどろっこしいことは、もう聞き飽きたわ。さっさと死刑にしちゃって」
溜息混じりに女王陛下が呟くと、春日さんに対する罵声とは打って変わった歓声が上がった。
ちょうど結人の隣に立った私は、粟立った腕を制服の上からそっと押さえ、春日さんを見つめた。
彼女はただでさえ華奢な身体をぐっと縮めて、手錠を嵌められた両手を握りしめたまま俯いている。
「では、簡単に罪状を読み上げます。被告人メイドは昨日、中庭にて女王陛下のティーカップに虫を混入させ、女王陛下に飲ませようとした。寸でのところで女王陛下ご自身がカップ内の異変に気付き、一命を取り留められた。メイド、以上の罪を認めるか」
「……わたくしは、そんなこと、していません」
小さな声は、それでもしっかりと館内に響きわたり、聴衆が再びざわめき始める。
「女王陛下が中庭で紅茶を召し上がるときは、わたくしも細心の注意を払ってお注ぎしております。もしも異物が入ってしまった場合はすぐにお取替えいたしますし、虫だなんてもってのほかのこと……本当に、本当にわたくしは、虫など入れていませんっ」
ちょうど胸元の高さにある柵に手をついて、春日さんは必死で訴えた。
「じゃあ、あなた以外に、誰が入れたっていうの?」
今まで座っていた女王陛下が立ち上がり、ゆっくりとした口調で春日さんに聞いた。
「それは……」
「私が自分で、自分の飲む紅茶に入れたとでも?」
「まさか、そんな!」
「もしも、羽の生えた虫なら、勝手に飛び込んでくることもあるかもしれないわね。だとしても、それはあなたの言う細心の注意が払えなかったってことじゃないかしら? どうなの?」
女王陛下に人差し指を突きつけられ、春日さんは身体をびくりと震わせ瞼を伏せた。
そして、がっくりと肩を落とし、床に膝をついた。
「それは、わたくしの不注意です……申し訳ございません」
「最初から、そうやって謝ればよかったのよ。あなたはいつだってそう、そうやって自分の気持ちばかり押し付けてくる。目障りなのよ」
ふと女王陛下である林田さんの横顔が翳り、強い意思の込められた言葉に私は息を飲んだ。
もしかしたら、これが春日さんに対する林田さんの本当の気持ち?
私の勘違いかもしれないけれど、イスに崩れるように座り、肘をついて息をついた林田さんが淋しそうに見える。
「では、女王陛下、このメイドに判決を」
ゲーテが促すと、暗がりで姿の見えない使用人たちのひとりが、死刑だと大きな声で叫ぶ。そして、合わせるように「死刑」と連呼が始まった。
床に視線を落としていた林田さんの口角が上がり、伏せていた瞳は怪しい光を宿して春日さんを見つめた。
淡いピンクのグロスがのった唇がわずかに開きかけたとき、私は静かに彼女を呼んだ。
「女王陛下」
不意のことに女王陛下は唇を閉じ、少し驚いたような顔でこっちを向いた。
彼女の筋書きならば、おそらくこんな場面で「鈴葉」が口を開くわけがない。
私は結人の前を過ぎ女王陛下の前に跪くと、いつかもうひとりの私がしたように、女王陛下の手を取り甲に口付ける。
瞳だけ彼女の視線に合わせ、ゆっくり顔をあげると、女王陛下の頬が次第に赤く染まっていくのがわかった。
「鈴葉様……?」
動揺した女王陛下が私の名を呼び、その視線がちらりとゲーテを見やったから、わずかに私の心臓も跳ね上がる。
もしかしたら。
ゲーテは私が「鈴葉様」じゃないことに気付いているかもしれない。
だとしても、かまわず私は口を開いた。
「このメイドの罪は、確かに許しがたいもの。女王陛下が死刑の判断を下すことも当然のことと存じます。しかし、彼女が存在しなくなれば、我々があなたのそばにいられる時間が減ってしまうのです」
私の言葉に女王陛下が眉をひそめると、今度は結人が彼女の顎に指を添え、中腰になり顔を近づけた自分のほうを向かせた。
「あのメイドが死ねば、同じレベルで仕事をこなせるメイドがいなくなってしまう。そうなれば、あのメイドがやってることのほとんどを、今度は俺と鈴葉様でフォローしなければならない。つまり、今までのように陛下と一緒に過すことができなくなるのですよ」
「ゲーテ、本当なの?」
女王陛下が結人の手を振りきり、血相を変えてゲーテを振り返る。
「必然的に、そうなってしまうかもしれませんね」
にっこり笑ってそう返すゲーテに、女王陛下は私と結人を交互に見てから俯いた。
「私は、あのメイドがどうなろうと、どうでもいい。ただ、女王陛下、あなたと過す時間が奪われることが耐えられないのです」
私は女王陛下の手をなで、もう一度指にキスをすると、顔をあげた彼女の潤んだ瞳をじっと見つめた。
その瞳は向こうで震えているだろうメイドのほうを見てからこちらに返ってくる。
「でも……代わりのメイドなら、いるでしょう」
「申し訳ございません、女王陛下。今のところ、彼女と同等のメイドは育成できておりません。なかなか物覚えの悪いものたちばかりで、困ったものです」
開いたファイルを指でなぞり、溜息と共に首を振ると、ゲーテはぱたんと音を立ててファイルを閉じた。
「では、次のメイドが仕上がるまでの間、死刑を延期するのはいかがでしょう。罪は罪、いずれは裁かれるとしても、女王陛下や側近であるおふたりにご迷惑をお掛けするわけにはいかないようですので」
白い手袋に包まれた指先を顎にあて、逡巡するような仕草をしてから、ゲーテの視線が私を睨んだかと思うと、その口元はわずかに微笑んでいるようだった。
「すべては、女王陛下の仰せのままに」
ゲーテの手が肩に置かれ、女王陛下はぴくりと身体を震わせた。
そして、彼女は唇をきゅっと結んだ後、眉をひそめて立ち上がった。
「仕方ないわ。この死刑執行は、もうしばらく先にするしかないわね」
歯切れの悪い言葉を残して、女王陛下は踵を返し舞台脇へと姿を消した。
今までになかった判決に使用人たちはどよめき、膝をついて俯いていた春日さんは信じられないという顔でぼんやりと中を見つめている。
結人はすっかり機嫌を損ねた女王陛下の後を追い、私は静かに深く息を吐いた。
「それでは、本日は閉廷いたします」
ゲーテの合図で使用人たちはざわめきながら、首輪で繋がれたままの春日さんを残してここを出て行く。
「彼女を解放する鍵です。どうぞ」
淡々と業務をこなすように、ゲーテは腰を上げた私に小さな鍵を差し出した。
私は確かにその鍵を受け取り、握りしめてジャケットのポケットに入れる。
「見事なお芝居、楽しませて頂きました」
すぐに立ち去ろうとした私の耳元に口を寄せて、ゲーテがククッと喉を鳴らして笑う。
私は一瞬にして血の気が引いて、ゲーテの青く澄んだ瞳をまじまじと見つめた。
「やっぱり……気付いてたの?」
「もちろん。ぼくはこの世界の管理人だと、昨日も言ったはずですが」
まるで、最初から全てお見通しだったとでもいうように、ゲーテは腕を組んで私を見下ろした。
「それにしても、随分とぼくの仕事を増やしてくれましたね。これから縛られて監禁されているもうひとりの鈴葉様を解放して、ある程度辻褄の合うように記憶の操作をしなければなりません。それに、メイドの教育、ですね。あぁ、あとなぜ思い通りにならなかったのか、女王陛下にも適当なことを説明しなければなりません。……これはひとり言ですので、どうぞお気になさらずに」
とぼけたようにはっきりとそう言ったあと背を向け、再びこちらを振り返った。
「鈴葉さん、死刑は延びただけで、取り消されてはいません。キミのした行為は、彼女に恐怖の時間を長引かせる結果になったかもしれませんね」
では、と微笑み、今度こそ背を向け階段を下りはじめたゲーテに、私は唇を噛んだ。
ゆらゆらと規則的なリズムで揺れる尻尾が何だか癪に障る。
ゲーテの言うとおり、結果として今回死刑は免れたものの、メイドが仕事を覚えた時、彼女は再びここに立たされ、今度こそ間違いなくその命を絶たれるのだ。
私はポケットの中の鍵を握りしめて、春日さんのもとへ急いだ。
彼女はまだ呆然として、床に手をついたまま座っていた。
「春日さん、首の、外すよ」
首に嵌められたベルトの鍵穴に鍵をあてようとしたとき、突然春日さんが抱きついてきて私はしりもちをつくような格好で彼女を受けとめた。
がくがくと音を立てるように身体は震え、顔を埋めた胸元からは嗚咽が聞こえてくる。
「……大丈夫?」
「わたくし、生きて、いるのですね?」
ゆっくりこちらに顔を向けると、涙で表情を歪ませながらも嬉しそうに喜んでいるのが見て取れた。
そんな春日さんに私もほっと胸を撫で下ろす。
「死刑は、取り下げることができなかったけど……」
「いいえ。わたくしには、こんな奇跡、十分すぎます! 今日で終わってしまうと思った世界がまだここにあるなんて、どうやって鈴葉様にお礼を言ったらいいのかわかりません」
涙を必死に拭いながら、ありがとうございましたと何度も頭を下げるから、私はただ首を横に振った。
春日さんが落ち着くのを待って首輪を外し、メイドの仕事に戻るよう伝えると、何度もこっちを振り返りながら、跳ねるようにこの裁判所を後にした。
ただひとり、暗い部屋に残された私は、ネクタイを緩めて頭をかくと、大きく溜息をついた。
「私、一体何やってんの」
作られた世界の、現実には存在しない人物のために一喜一憂し駆けずり回り、そして。
「どーしよう……」
昨日、結人とした約束を思い出して、頭を抱えた。