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「なーんーでー、こーなるわけ……」
私はそこに胡坐をかいて、膝に肘をつき頭を抱えた。
右の手首には、変わらず金属の輪がついていて、鎖はどういう用途に使うかわからない、壁に付けられた小さな輪に繋がっている。
つまり、結人はここにいないけれど、私は手錠で壁に繋がれたままだった。
ほんの10分前、私はベッドサイドに手錠で繋がれて、こう反論したのだ。
「待って! トイレ行きたくなったらどうすんの?」
「別に、そこでしてもいいよ」
「そんなの嫌よっ。もう逃げたりしないから、これ、外してくれない?」
「約束する?」
「うん、絶対逃げません。約束します」
私はじっと結人の瞳を見つめて逸らさなかった。
そして、結人もまた納得してくれたように頷いたのに。
「姫は前科者だからな、ちょっとやそっとじゃ信じられないね」
ばっさり切り捨てるようにそういうと、結人は私をここ、トイレに監禁して出て行った。
だから私は今、便座の上で胡坐をかいている。
誰かが来たら大変だからと鍵を掛け、脱水症状が起きないようにと、ミネラルウォーターのペットボトルを一本置いていった。
そんなの、こんなところで飲む気になれないのに。
「あー……誰かに助けて欲しいけど、誰かに来られちゃまずいんだよね」
そんなことを呟いて、私は無駄に広いトイレを見渡した。
やっぱり壁は大理石で、最新の設備が施されたトイレは、うっかりヘンなリモコンボタンを押せばびしょ濡れになりそうだ。こんなもの、もっとシンプルでいいのに。
トイレのリモコンの横には、正面に備え付けられた大画面テレビのリモコンがあり、仕方なく私はそれの電源を入れる。
チャンネルはいくつかあって、音楽やドラマに映画、お笑いチャンネルもあるけれど、どれもこの世界で放送しても当たり障りのなさそうなものを厳選されているようだった。
そして、私はあるチャンネルで口をあんぐりと開けたまま、しばし呆然とした。
「は……? なに、これ」
身を乗り出さずとも画面の人物はよーくわかっているのだけど、それでもそうせざるを得ないほど信じられなくて、何度も瞬きをした。
画面の中では、アップテンポな曲に合わせて、私と結人がバスケットポールで互いにシュートを決め、ハイタッチをし、さわやかな汗を真っ白なタオルで拭きながらスポーツドリンクに口をつける。
音楽がゆるやかなものに変わり、次に画面に映し出されたのは結人のシャワーシーン。
様々な角度から身体を舐めるように画面が変わり、思わず目を逸らしてしまう。
まるでアイドルのイメージビデオみたいで、頬が引きつった。
すぐさまチャンネルを変えて、私は溜息を吐く。
「もう嫌だっ」
そう言ってみたところで、昨日の夜ゲーテにしばらく帰れないと宣告されたばかりだと思い出す。
しばらくって、一体いつまでだ。
まったくこの世界の常識も何も理解できないままで、これからしばらくこんなコソコソした生活をしていけというのか。
おまけに、このままだと明日、春日さんが死ぬ。
それなのに結人は今、この世界のもうひとりの私と呑気にデートだなんていう。
結人ともうひとりの私は、女王陛下にナイショで付き合っているとかで、彼女が絶対に現れない限られた時間しか会うことができないらしい。
さっき結人のポケットを揺らしたメールは、その密会を知らせるためのものだったのだ。
女王陛下の林田さんは、一体何を考えてるんだろう。
どうして、こんな世界……。
無理だとわかっていながら、私は手錠を掛けられた腕を力任せに引っ張り、びくともしない大理石にやり場のない怒りをぶつけてみる。
結局手首が痛いだけで、何にも変わらない。
私は呻いてから立ち上がり、今度は手のひらを極力細くして角度を変えて、なんとか手錠の輪から手が抜けないかやってみた。
「どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないのよっ。叶えたい望みなんかないし、男装だってしたくないしっ。全部アイツ、ゲーテのせいよ。あのネコ男!」
「呼びましたか?」
「わっ!?」
「全てぼくのせいだなんて、心外です」
驚いて振り返った瞬間、繋がれた手首を捻って私は顔を歪めた。
そして、いつの間にか現れたゲーテが胡散臭い笑顔のひとつも見せず、目の前までやってくる。
青い瞳で私を見下ろすと、白い手袋に包まれた人差し指を私の鼻先に突きつけた。
「今ここであなたをチョコレートにして、ぼくが食べちゃってもいいんですよ」
にっこり笑うゲーテに、私の頬は引きつって、ごくりと喉が鳴った。
でもその笑顔も一瞬にして消え、真顔に戻ったゲーテは舌打しながら私に突きつけた指を仕方なさげに下ろした。
「しかし、管理人規約でプレイヤーの意思を無視してその命を絶つことは禁じられていますから。残念ながら命拾いしましたね、子猫ちゃん」
口元はキレイな半月を描いているけれど、決して目は笑ってない。
私は、場違いかもしれない妙に乾いた声で笑った。
あからさまに溜息をついて、ゲーテは今まで私が座っていた便座にふたをし、長い足を組んで座る。
「それにしても、子猫ちゃんをトイレに監禁して、自分はもうひとりの鈴葉さんと戯れるなんて、岩城結人も成長したものですね。やはりひとりのプレイヤーの妄想を長期間続けることは難しいとしても、そこに新たな刺激としてもうひとりの裏プレイヤーを加えれば、まだ楽しめるということもわかったことですし。あぁ、失礼、今のはぼくのひとり言ですから気にせずに。ぼくは、それなりにキミに感謝しているのですよ、鈴葉さん」
「……はぁ」
相変わらずゲーテの言ってる意味はさっぱりわからないけれど。
「一体どこから」
このトイレに入ってきたの!?
ドアは閉まったままだし、ここに窓は無い。
ゲーテは目を細めて笑うと立ち上がる。
「ぼくはこの世界の管理人ですから。どんな場所にも自由自在に現れることができるんです。便利でしょう」
どんな言葉を返したらいいのかわからずに、とりあえず小さく頷く。
でも。
「どんな場所にも、自由自在、なの?」
「えぇ、もちろん。保護区管理人として、常にいかなる緊急事態にも対応しなければなりませんからね」
「じゃあもしかして、私をどこかに飛ばすことも、できたりするの?」
ゲーテは視線だけこっちのよこして、首を傾げた。
「子猫ちゃんは、何がしたいのかにゃ?」
唇を私の耳元に寄せて、言ってご覧なんて囁くから、全身に鳥肌が立った。
昨日の夜みたいに、まるで私が考えて言おうとしてることを知ってみるみたいで。
でも私はあえて、手錠を指差した。
「とりあえずコレ、なんとかしてほしいんですけど」
「脱走癖のある子猫ちゃんにはお似合いですよ」
私が唇を噛むと、それを面白がるように見下してる。
そして、不意に指をパチンと鳴らした。
「えっ!?」
拘束されていた右手が開放されたのと、足元で金属が音を立てたのはほとんど同時だった。
事態を把握できずに手首をさすりながら床を見ると、今まで私の手に絡みついていた手錠が転がっている。
すぐさまゲーテの顔を覗けば、得意げに帽子のつばに手をかけた。
「できる限りのことは、して差し上げます」
「……ホントに?」
「えぇ、もちろん。現在の世界に影響がない程度のことでしたら、なんなりとどうぞ」
「だったら、春日さんを助けてあげて。あんなことで死刑になるなんて、ありえないでしょ?」
私の言葉に、ゲーテは表情を変えないまま何度か瞬きした。
「子猫ちゃんは、お馬鹿さんですね」
真剣な私にそんなことを言うと、声を出さず嘲るように笑うからムカついた。
「ぼくはこの世界に影響のないことなら、と言ったはずですが」
「でも、春日さんが死んだら、仕えるメイドがいなくなるから厄介だって結人が」
「そうですよ。ですから、おそらく彼女亡き後は、結人様と鈴葉様にもメイドがしていた仕事の一部をしていただくようになるかと」
「それなら、わざわざ死刑にする必要なんてないじゃない」
「そうですよ」
思いがけないゲーテの返事に私は混乱した。
「だったら、どうして」
「女王陛下が、それを望んでいるからです」
「林田さん……彼女が、本当に?」
あっさり頷くゲーテに、女王陛下になった林田さんの顔が浮かんだ。
まるで別人の彼女が、本当に林田さんなのかなんて疑問すら生まれてくる。
ふっと笑い私の両肩に手を置くと、目の前にゲーテの青い瞳が現れた。
「まだ、わかっていないのですね。キミが迷い込んだこの世界は、女王陛下である林田玲果が望んで作り出した仮想現実世界なのです。ですから、誰が死のうと生きようと、何をしようと全ては女王陛下の思うがまま。もちろん、プレイヤー以外の身に何が起きようと、元の世界に与える影響は皆無ですから、今回あのメイドが死刑になっても、現実世界での彼女は痛くもかゆくもないわけです」
だとしても。どこか納得できなくて、ゲーテから目を逸らし俯いた。
「しかし鈴葉さん、キミがもし無謀にもメイド救出作戦など考えて行動に移し、それが失敗した時には、おそらく死刑は免れないでしょう。そのようなことがあれば、もちろん元の世界に戻ることなど不可能。この空想世界で一生を終えてしまうということもお忘れなく」
結人にも言われたとおり、私は春日さんのことなんかじゃなく、自分のことを心配しなくちゃいけない。
でも、春日さんが死刑になるきっかけを作ってしまったのは、おそらく私で。
だから、せめて。
「ゲーテ、お願いがある」
「何ですか」
「最後に、もう一度春日さんに会いたい」
意味のないことですねと、ゲーテは笑った。