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どうしてだろう。
本当は不安でいっぱいのはずなのに、ともすれば一秒先に私の命は消えてしまうかもしれないのに。
金属で繋がれた手の先にある、結人の指に触れたら。不意に抱きしめられたら、どうしようもなく安堵する。
誰かの体温を感じることが、こんなに心を穏やかにするなんて、ずっとずっと昔に忘れていた。
結人の声がぼんやりと遠くに聞こえて、私はいつのまにか眠ってしまったんだと気がついた。
そしてゆっくりと、まだ重い瞼を持ち上げる。
「これ? 俺の新しいペット。だけど、強暴だから隠してんの」
そんな結人の言葉に戸惑う女の子の返事が聞こえる。
「ついでによく逃亡するからさ、こうして繋いでるわけ」
「はぁ……で、では、鈴葉様のお召し物はクローゼットに掛けておきましたので、わたくしはこれで」
「あ、ちょっと待って。こっち、来て」
春日さんが、私の制服を持ってきてくれたんだ。
口調は明るく戻ってるし、ちょっとだけ安心した。
私をペットだなんて随分な言い様で腹が立つけど、鎖で繋がれて、ご主人様の言うことを聞かなきゃいけない状況は、残念ながらまさに、それだ。
彼女が部屋を出て行ったら、いよいよケータイを探しに行かなきゃ。
まずは倒れていた中庭に向かって……と逡巡していると、不意にベッドが音を立てて沈み、春日さんの可愛らしい悲鳴が微かに聞こえた。
「ゆ、い…と様……」
「俺がペット飼ってるってことは、誰にも秘密だよ?」
動揺を隠せない春日さんに、たしなめるような結人の低い声が囁いた。
そして、突然訪れる一瞬の沈黙。
あまりにも怪しげな雰囲気に、二人の様子を伺おうと、私はそっとシーツを持ち上げて隙間から目を凝らす。
となりで寝ていたはずの結人の私と繋がれている手は、おそらく春日さんのものであろう白く細い指先に重なっていた。
そのまま視線を上へ向けると、目を閉じた結人の顔が、春日さんの頭の向こうに見える。
な……な、な、なぁーっ!?
ペットである正体不明の私は、衝撃的な景色に思わず声を上げてしまうを必死で堪えながら、しばしそこから目を逸らすことができずにいた。
どれくらい、「それ」を眺めていたのだろう。
ふたりの姿が離れて、瞼を開いた結人を目が合い、すぐさまシーツを被りなおしたものの、急速に脈を打ち出した心臓の音が、ふたりに聞こえてしまいそうな気がした。
正体不明なペットがぴくりと動いたせいか、春日さんが小さく声を上げる。
「大丈夫、ちゃんと調教してるから、襲ったりしないよ」
何が。何が、調教だ!?
沸々とこみ上げる怒りで、シーツを握る手が震える。
相手が春日さんじゃなきゃ、わざと襲ってやるところだ。
「秘密、守ってね」
「もちろんですっ。それでは、失礼いたしますっ!」
ベッドが揺れると、ぱたぱたと慌しい足音が遠退いて、やがて部屋のドアが閉じる音がする。
何か言ってやらなきゃ気がすまないと思う一方で、あんなところを見せられたら、結人とどう顔をつき合わせていいのかわからない。
「鈴葉、着替え、クローゼットの中だってさ。自由に使えよ」
「………」
「じゃあケータイ、探しに行こうぜ」
繋がれた手首を引っ張られたけど、私の身体は頑なに起き上がろうとしなかった。
自分でもよくわからないけど、身体と一緒に思考回路も硬直してる。
シーツを引っ張り合い、無言の問答がしばし続いて、イラついたように露骨に溜息を吐いて結人が口を開いた。
「おい」
「………」
「おいって」
「………」
「もしかして、ヤキモチやいてんの?」
「んなわけ、ないでしょっ!」
「へー、そう? じゃあ何怒ってんの」
そうだ、どうしてこんなに頭に血が上ってるんだろう。
目の前で結人が春日さんとキスしてたから?
そんなの、また「日常」だなんて言われたら、どうしようもないし。
ペット扱いされたこと?
そうかもしれないけど、そうじゃない気もする。
シーツが捲られて、にやけた結人が私を見下ろした。
「別に、怒ってなんかないわよ」
「同じように、キスしてあげよっか?」
「結構ですっ!」
近づいた顔を左手のひらで受け止め付き返すと、私は身体を起こしてちらりと結人の顔を覗きこんだ。
目が合えば、その瞼を閉じて春日さんに口付けていた結人の表情が脳裏に浮かび、胸の奥がチリチリと燻る音を立てるみたいで、私はすぐさま顔を逸らす。
コイツ、この結人はこういう人間なのだ。
わかってるつもりなのに、頭の中は混乱したままで。
「姫ってさぁ、やっぱ」
その結人の言葉を遮るように、突然、叫びにも似た悲鳴が館内に響きわたった。
「何なの?」
尋常じゃない声に、これも日常的なことかと思えば、結人も眉根を寄せて首を振った。
「まさか、ケータイが誰かに見つかっちゃったとか……!?」
「それぐらいで、こんな悲鳴上げるかよ」
そのとおりだけど、でも。
私の不安を汲み取ってくれたのか、結人がベッドから立ち上がり、手錠の鎖を引いた。
「んじゃ、ちょっと見に行ってみるか」
ついでにケータイも探しに行くぞと言われ、私も結人のあとについて部屋を出た。
「ねぇ、コレ、外さないの?」
廊下の壁にぺたりと背中をつけて中庭を覗く結人に、私は低い声で手錠を揺らしながら聞いた。
金属の触れ合う音が静かな廊下に響いて、振り向き様、結人に無言で睨まれる。
そして、その視線は再び中庭へ向けられた。
結人の後ろから私も彼の視線の先を追えば、日が差し込み始めた中庭に、二人の姿が見える。
メイドに、もうひとりは女子の制服姿……ということは、女王陛下、か?
同じように悲鳴を聞き、駆けつけたらしいゲーテと、こっちの世界の「私」、鈴葉がエントランスから現れた。
「マズイな……」
目を細め眼下に広がる光景を見つめながら、結人が小さく呟いた。
「この騒ぎがおさまったら、どうせ携帯捜索しなきゃなんないし。とりあえず、下りるか」
こっちを一瞥すると、鎖で繋がれた私の手首を掴み、辺りを警戒しつつ歩き出す。
誰もが中庭の出来事に気を取られているのか、私たちは誰ともすれ違うことなく一階まで下りてきた。
中庭から姿が見つからないよう、影に姿を隠しつつ、結人は窓をほんの少しだけ開けて、中の様子を伺った。
結人と壁のわずかな隙間から中を覗くと、女王陛下の後姿と、その前で怯えてひれ伏すようなメイド、そして、メイドを腕組しながら血の通わない視線で見下ろす私がいた。
ゲーテは相変わらず穏やかな嘘くさい笑みを浮かべ、女王の隣まで歩み寄る。
「女王陛下、どうされましたか?」
ゲーテに声を掛けられた女王陛下が、ふいと後ろ、こっちを向いたから、結人が慌てて姿を隠した。
おかげで彼女の顔を見損ね、かわりに不機嫌そうな結人に見下ろされる。
「紅茶に、虫が……このメイド、私の紅茶に虫を入れたのよっ!」
「おや、それはいけませんね」
涙声ながらも、責めるように刺々しい口調の女王陛下と、それに応えたのは今までより冷静、いや冷淡にも聞こえるゲーテの声。
「わ、わたくし、そんなこと……」
かすかに聞き取れるような怯えた声色に、思わず結人の顔を見上げると、私の頭に浮かんだ誰かを肯定するみたいに頷いた。
「じゃあ、誰が入れたっていうの? それとも、アンタ、私が嘘を吐いてるとでも言うの?」
低くなじるように一変した女王陛下の台詞が中庭に響く。
私は彼女が一体誰なのか、どうしても知りたくて、そっと中を覗きこんだ。
「ねぇ、顔を上げて何とか言いなさいよ。このブスメイド」
再び後姿になってしまった女王陛下は、長いストレートの黒髪を揺らしながらひれ伏すメイド、春日さんに近づくと、両手を腰にあて仁王立ちで彼女を見下ろしている。
そして、震えながらも顔を上げかけた春日さんのその頭を、黒のローファーを履いた右足で踏みつけ、声高らかに笑い出した。
「バッカじゃないの。アンタに言い訳する余地なんかないのよ。私に逆らうことが、どういうことか、わかってるでしょ?」
最低だ。何なんだ、あの女。
女王だけじゃない、その行為をただ見つめるだけのもうひとりの「私」も、うっすらと口元に笑みを浮かべているゲーテも。
思わずそう口に出してしまいそうになるのを必死でこらえて、それでも喉元まで突き上げる感情をどう抑えていいかわからず、代わりに静かに息を吐き出した。
そんな私の暴走を阻止するかのように、結人の手が強く私の手首を掴む。
「では、女王陛下、このメイドはどういたしましょうか?」
「そうねぇ」
ゲーテの問いかけにやっと足を春日さんの頭上から離し、彼女は、こっちを振り返った。
そして、さも楽しげににっこりと笑う。
「死刑しか、ないでしょ」
残酷な台詞を吐いたとは思えない朗らかな表情を、こんなふうに可愛くメイクした彼女を、私は知らない。
だから、ほんの一瞬、誰なのかわからなかった。
でも、どうして。
むこうの世界では友達だったはずの春日さんに、あんなことするんだろう。
女王陛下は、ここ数日、ずっと学校に姿を見せない林田さんの、ある意味変わり果てた姿だった。