file1-1 「迷える子猫ちゃん」
ガラス窓の向こうで静かに降り続ける雨は、これから始まる暑い夏への序章に過ぎない。
だけど、私はこの季節が好きだ。
洗濯物が乾かないとか、モノがカビるとか、文句ばかりの母は言うけれど、ギラギラと光る太陽の下、今にも干からびてしまいそうになるより、こうしてしっとりとしているくらいが丁度いい。
壇上で教科書の物語を読み上げる先生の声は、柔らかなテナー。
大学受験対策の授業が始まったとはいえ、流れるような朗読は雨音の旋律に乗り、クラスメイトの中には子守唄に聞こえてしまっている子もいる。
私は教科書の文字を目で追うのをやめ、斜め前、主のいない席を見た。
彼女、林田さんが姿を見せなくなって、もう一週間ぐらいになる。
眼鏡をかけて垢抜けない感じの彼女は、その印象どおりに大人しく、口数も少なかったような気がする。
担任は風邪をこじらせたと言ってたけど、本当だろうか。
彼女と似たような雰囲気の友達がふたり、いつも一緒にいたはずだし、クラスで孤立していたというわけでもない。
だからじゃあ、例えば彼女の電話番号やアドレスを聞きだして、どうしたの、なんて連絡する気もないし、ただ、なんとなく気になっているだけ。
お決まりな通学路の景色みたいに、漠然と通り過ぎて行く日常。
その中に残る彼女の背中。
今までそこにいたはずの存在が、不意に消えてしまったことが、どうしても胸の奥に引っかかっていた。
ぼんやりと生きている毎日が、突然終わってしまうことがあるのだと、私はよく知っている。
小さく息を吐き出し、伸びてしまったショートヘアを耳にかけると、私は再び教科書に視線を戻した。
「有川さん、今日、数学の講習、出るの?」
放課後、カバンを持って廊下に出た私、有川鈴葉は、見ず知らずの女の子に突然声を掛けられた。
いやと首を振ると、長い黒髪を指先でくるくると触りながら、目の前の彼女は頬を赤らめる。
「あの……岩城くんは、どうするのかな」
そんな可愛い顔の上目使い、ぜひあいつの前でやってほしい。
私はうんざりしながらも、いつものいたずら心が芽生え、脳内スイッチを女子モードから男子モードに切り替えた。
口元はわずかに緩めて、だけど、決して微笑まない。
眉に力を込めて表情を作り、ただじっと彼女の瞳を見つめると、みるみる彼女が私に見惚れていくのがわかる。
いつからか、この「堕ちる瞬間」を見るのがたまらなく快感になった私は、きっと変態だ。
頃合だと私は目を細め、彼女の耳元に唇を寄せ、そっと甘く囁いてみる。
「岩城じゃなく、アタシじゃ、だめかな?」
瞳を潤ませて切ない表情の彼女を見ると、同じ女として、私は一体何をやってるんだろうと思う。
そんな冷静な自分もいる反面、明らかに彼女の反応を楽しんでるアタシがいた。
「コラ、鈴葉。お前また女ナンパしてんのかよ」
「ん? あぁ、岩城、今日の数学の講習、受ける?」
「俺は、講習の前に補習だよ」
「あ、そう」
引きつった岩城を一瞥し、私はスイッチを女子に戻すと、ぼんやりと私と岩城を見つめる彼女に「岩城も出ないって」と告げた。
目が覚めたように彼女は一度大きく目を見開くと、ごめんなさいと頭を下げて踵を返す。
頬を真っ赤に染めて逃げ去る彼女がこれまた可愛くて、だけど、少し可哀相なことをしたかもしれない。
「ホント、岩城ってモテるよねぇ」
「そういう鈴葉も、女のクセに、女にモテるよな」
「おかげさまで」
「ナニ、やっぱおまえ、そういう系なの?」
「さぁ? どっちもイケるんじゃないの」
「それ、どう受け取ればいいんだよ」
隣で呆れてる男、中学の時から腐れ縁の岩城結人に、私は返事をするかわりに微笑んで見せた。
中一の時は、私より頭ひとつ分ちっちゃかったくせに、今じゃ168cmの私も見上げるくらいまで成長した。
私たちが立ち話をしていると、どこからともなく湧いて出るように、わらわらと女の子たちが集まってくる。
なんとも遠巻きに、だけど、ちらちらとこっちに熱い視線を送りながら何やら囁きあっているのは、いつものこと。
そして、岩城に想いを寄せてるであろう女の子を、逆に私が誘惑の真似事をするのも、最近じゃ日常茶飯事。
「あのチビ岩城が、こんなイケメンになるとはねぇ」
「一体いつの話してんだよ。つーか、俺だって、あの女の子らしい鈴葉が、こんなイケメンになるとは思わなかった」
「一応、ちゃんと女のつもりですけど」
「だったら、髪伸ばせよ。中学ん時みたいなロングに」
「それは、岩城のシュミでしょ? 私には関係ないし」
私は流行の男装女子じゃない。
ちゃんと女子の制服を着てるし、たまに乱暴な言葉を使ってしまうこともあるけど、肩で風を切りながら、がに股で歩くなんてこともない。
確かに凹凸のはっきりしない薄ペラボディだけど、それなりに標準女子のつもり。
バレンタインに告白してきた女の子曰く、
「中性的な存在感が、たまらなくイイの」
だとか。
もちろん、お付き合いのほうは、丁重にお断りさせていただいたけど。
いつからか、意識してオトコスイッチを入れることを覚えたけど、いわゆる戯れ、遊びであって、本気で女の子が好きなわけじゃない。
でも正直なところ、高校に入ってからろくに恋もしてないから、果たして自分がドッチなのかは、未だよくわからなかったりする。
岩城のほうは、自他共に認めるイイオトコだ。
中学の頃は丸い童顔だったけど、今では輪郭も縦に伸びた。きりっと上がった眉の下には、冷たすぎない涼しげな瞳、自然と口角の上がっている口元は、誰にでも好印象を与えるだろう。
バスケ部だけあって、長身で体型もそこそこがっしりしてる。
「ところで、岩城のほうこそ、彼女決めたの?」
「あ?」
「ほら、バレンタインにたくさんチョコ、貰ったじゃない」
「あぁ。おまえより少なかったけどな……」
「で?」
「べつに、いーんだよ。俺はおまえとのホモ疑惑で十分」
「だからー、それを解消したいから、とっとと誰かと付き合ってよ」
「いいじゃん、ホモで」
「イヤよ」
普通に付き合っているという疑惑をかけられるならともかく、ホモって一体どういう意味だ。
面白がって噂してるのはわかるけど、どうにも納得がいかない。
「じゃあ、鈴葉が誰かと付き合えばいいじゃん」
「女の子と?」
「おまえなぁ…そういうこと言ってるから、ホモとか言われんだぞ」
「だって、好きになれるような男が周りにいないんだから、しょうがないじゃない」
「あー、そうですか。そりゃあ、悪かったな」
あまりにも神経に障ったような顔をするから、私は声を上げて笑った。
「何それ、あ、もしかして岩城、自分のこと言ってる? ないない、ないよ。岩城と付き合うとか、ありえないから大丈夫」
私の台詞が止めを刺したのか、不満そうに頷き、岩城は大きく息を吐いた。
女の子たちの前で、声のトーンを抑えることなく、こんなやりとりをしてしまうから、イケメン岩城のホモ疑惑は深まってしまうのに。
高一の時、ひとつ上の先輩と半年くらい付き合ったあと、岩城の彼女いない歴は続いていた。
その後、どんな女の子に告白されても、誰とも付き合うことのない岩城は、
『先輩との付き合いでトラウマを受け、オトコに目覚めてしまい、けれどそんな事実を払拭するために、再び女の子を好きになる努力をしている。そして、渋々好きになる相手として選んだのが、中世的魅力で女子を魅了する有川(つまり、私)』
なんてびっくりするようなことを、女子の間で噂されるようになってしまった。
それはもう幅広く知られた話で、一時、私は担任に呼ばれて真実かどうか、確かめられたことがある。
本当ですって言ったら面白くなるような気がしたけど、私も巻き込まれるのは必至だったから、一応否定しておいた。
思い出してまた笑ったところで、丁度チャイムが鳴った。
「やべ、俺、補習行く」
「頑張ってね」
「鈴葉、すぐ帰るのか」
「ううん。いつものとこ行って、そのあとは学習室で少し勉強してから帰るつもり」
「んじゃ、バスケ終わったら、学習室覗くよ」
手を振って私たちが別れると、周囲にいた女の子たちも、ぱらぱらと散り始める。
彼女らにいたずらな微笑をちらりと見せて、私は音楽室へ向かって歩き出した。
背中では黄色い歓声が沸く。
私、進路の志望校を、有名な女だらけの某歌劇団の学校にしたほうがいいんじゃないかと思う。
ふと、窓ガラスに映った自分と目が合って、耳にかけていた髪を手に取り、ゆっくり下に引っ張った。
「そろそろ、伸ばしても、いいかな……」
問いかけても、どこからも返事なんか聞こえてくるはずがなくて。
私は再び髪を耳にかけると、帰ったらカットの予約を入れようと決めた。