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もう疲れました。三年尽くした婚約者を静かに見送ったら、北方公爵に跪かれた

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/01

「君との婚約は破棄だ」


 夜会の喧騒が遠のいた。ヴァレンシュタイン伯爵――私の婚約者は、いつもの優しい笑みを浮かべてそう言った。


「承知しました」


 私は即答した。


「……え?」


 伯爵が目を見開く。周囲の貴族たちがざわめく。当然だろう。三年間、献身的に婚約者を支えてきた侯爵令嬢が、婚約破棄にあっさり同意したのだから。


 でも私は、もう疲れていた。


「リディア、ちょっと待て。話を――」


「お話は結構です」


 私は静かに微笑んだ。怒りはなかった。悲しみも。ただ、もう頑張りたくないという諦めだけがあった。


「婚約破棄の件、明日中に書面で正式にお送りします。今夜はこれで失礼いたします」


 踵を返そうとした瞬間、誰かの視線を感じた。


 振り向くと、謁見の間の奥、王の傍らに立つ男性と目が合った。北方公爵グレイヴ。冷徹な軍人として知られる、氷の公爵。彼が、じっと私を見ていた。


 私は会釈をして、会場を後にした。



 翌日、私は屋敷の書斎にこもっていた。


 机の上には三年分の家計簿が積まれている。婚約者の浪費、私が補填した金額、社交界での立ち回りに使った経費。全て記録してあった。几帳面な性格が、今になって役立つとは思わなかった。


「お嬢様、ヴァレンシュタイン伯爵がお見えです」


 侍女の声に、私は溜息をついた。


「お断りして」


「しかし……」


「もう会う理由がありません」


 淡々と告げる。侍女は困惑した表情で退室した。


 それから一週間、伯爵は毎日のように訪ねてきた。けれど私は一度も会わなかった。婚約破棄の書面は法的に問題ない形で送付済み。もう話すことは何もない。


「リディア! 頼む、話だけでも!」


 屋敷の門前で叫ぶ伯爵の声が聞こえる。私は窓から庭を眺めた。薔薇が綺麗に咲いている。この庭の手入れも、私がやっていた。伯爵の屋敷の庭も。


 三年間、私は何をしていたのだろう。


「お嬢様」


 侍女が再び部屋に入ってきた。


「北方公爵グレイヴ様がお見えです」


「……公爵が?」


 意外だった。彼とは夜会で顔を合わせる程度の関係。話したことすらない。


「お通しして」


 応接室で待っていると、公爵が入ってきた。漆黒の髪、鋭い灰色の瞳。軍服姿の彼は、噂通り近寄りがたい雰囲気を纏っていた。


「初めまして、リディア・フォンタイン侯爵令嬢」


 彼は私の名を呼んだ。姓ではなく、名を。


「グレイヴ公爵。ご用件は?」


「単刀直入に申し上げます。貴女を守りたい」


 私は紅茶のカップを置いた。


「守る……とは?」


「ヴァレンシュタイン伯爵が貴女に接触を試みています。望まぬ接触から、貴女を守ります」


「なぜですか?」


「あの夜会で、貴女を見たからです」


 公爵は真っ直ぐ私を見た。


「婚約破棄を告げられて、貴女は怒らなかった。泣かなかった。ただ静かに去ろうとした。その姿が……美しかった」


 心臓が跳ねた。


「美しい、とは?」


「疲弊しているのに、品格を失わない。それが、私の目には美しく映りました」


 公爵の声は低く、静かだった。


「私は貴女の護衛を申し出ます。ヴァレンシュタイン伯爵、あるいは他の誰かが貴女に不当な圧力をかけるなら、私が盾になります」


「……お気持ちはありがたいですが、なぜそこまで?」


「貴女が頑張らない、と決めた瞬間が見たいからです」


 私は息を呑んだ。


「三年間、貴女は誰かのために頑張ってきた。これからは、貴女自身のために生きてほしい。その姿を、私は見ていたい」


 公爵は立ち上がった。


「お返事は急ぎません。ただ、私は貴女の傍にいます」


 彼は会釈をして、去っていった。



 それから、公爵は本当に私の傍にいた。


 社交界に姿を見せれば、必ず彼が近くにいる。伯爵が近づこうとすれば、公爵が間に入る。言葉少なだが、行動で示す男だった。


「リディア様、最近公爵とお近づきになられたとか」


 友人のエレナが囁いた。


「護衛をしていただいているだけです」


「あの氷の公爵が? 貴女だけを?」


 エレナは目を輝かせた。


「社交界中の噂ですわ。北方公爵が、ついに心を開いた女性がいるって」


 私は首を振った。


「誤解です」


「でも、公爵は貴女から目を離しませんわ。先程も、ずっと貴女を見ていましたもの」


 本当だろうか。私はそっと公爵の方を見た。彼は柱の傍らに立ち、確かにこちらを見ていた。目が合うと、小さく頷いた。


 守られている。


 その実感が、胸を温かくした。


「リディア!」


 伯爵の声が響いた。彼が私に向かって歩いてくる。けれど、公爵が素早く間に入った。


「ヴァレンシュタイン伯爵。婚約破棄は成立しています。これ以上、リディア嬢に接触するのはお止めください」


「公爵、これは私と彼女の問題だ!」


「婚約破棄を一方的に告げたのは貴方です。彼女はそれを受け入れた。終わった話です」


 公爵の声は冷たかった。


「私は……間違っていた。リディア、君が必要なんだ。戻ってきてくれ」


 伯爵の声が震えていた。けれど、私の心は動かなかった。


「ヴァレンシュタイン伯爵」


 私は公爵の横に立った。


「もう、遅いのです」


「リディア……」


「三年間、私は貴方のために尽くしました。貴方の浪費を管理し、社交界での評判を守り、夜会では常に貴方を立てました。けれど貴方は、私を選ばなかった」


 私は静かに微笑んだ。


「それで良いのです。貴方には貴方の幸せがある。私には私の幸せがある。それだけのことです」


「しかし……」


「お幸せに。私はもう、貴方のために頑張りません」


 私は踵を返した。公爵が無言で私に寄り添う。伯爵の呼ぶ声が背中に届いたが、振り返らなかった。


 その夜、公爵が私を屋敷まで送ってくれた。


「ありがとうございます、グレイヴ公爵」


「グレイと呼んでください」


 馬車の中、彼はそう言った。


「え?」


「私は貴女に、名で呼ばれたい」


 彼の灰色の瞳が、月明かりに照らされていた。


「では……グレイ様」


「様も不要です」


「それは……」


「いずれ、そう呼んでいただきたい。今は、まだ良いです」


 彼は私の手を取った。


「リディア。貴女が自分のために生きると決めた時、私はそばにいます」


 手の温かさが、心に染みた。



 一ヶ月後、王宮から召喚状が届いた。


 内容は「ヴァレンシュタイン伯爵とリディア・フォンタイン侯爵令嬢の婚約破棄に関する審問」。おそらく伯爵が、王に訴え出たのだろう。


 謁見の間には、多くの貴族が集まっていた。王が玉座に座り、その傍らに公爵が立っている。


「リディア・フォンタイン侯爵令嬢、ヴァレンシュタイン伯爵。前へ」


 私と伯爵が、王の前に進み出た。


「伯爵、そなたは婚約破棄の撤回を求めているそうだな」


「はい、陛下。私は一時の過ちから、リディアとの婚約を破棄してしまいました。しかしそれは間違いでした。どうか、もう一度機会を」


 伯爵が頭を下げた。


 王は私を見た。


「リディア侯爵令嬢、そなたの意見は?」


「婚約破棄は、既に成立しております。撤回の必要はございません」


「しかし伯爵は、そなたとの婚約を望んでいるぞ」


「私は、望んでおりません」


 私の声は静かだった。


「陛下、一つお見せしたいものがございます」


 私は懐から、三年分の家計簿を取り出した。


「これは、婚約期間中の全ての記録です」


 王が侍従に命じて、家計簿を受け取った。ページをめくり、王の眉が動いた。


「……これは」


「ヴァレンシュタイン伯爵は、三年間で私の持参金の八割を浪費されました。賭博、宝飾品、不要な馬。全て記録してございます」


 謁見の間がざわめいた。


「伯爵、これは事実か?」


 王の声が厳しくなった。


「それは……リディアが勝手に……」


「私が勝手に、とおっしゃるのですか?」


 私は伯爵を見た。


「では伺います。貴方の屋敷の庭は、誰が手入れをしていましたか? 貴方の社交界での評判は、誰が守っていましたか? 貴方の借金を、誰が返済していましたか?」


 伯爵が言葉に詰まった。


「全て、私です。三年間、私は貴方のために尽くしました。けれど貴方は、私の価値に気づかなかった」


 私は王に向き直った。


「陛下、私はもう疲れました。婚約破棄の撤回は、お断り申し上げます」


 王は頷いた。


「分かった。婚約破棄は正式に成立とする」


「陛下!」


 伯爵が叫んだが、王は手を上げた。


「ヴァレンシュタイン伯爵。そなたは侯爵令嬢の献身を無駄にした。その報いは、社交界が与えるだろう」


 王の言葉は、宣告だった。伯爵の顔が蒼白になる。


「リディア侯爵令嬢は、今後グレイヴ公爵の庇護下に置く」


 王が公爵を見た。公爵が一歩前に出た。


「陛下、お許しください」


 公爵は、私の前に跪いた。


 謁見の間が静まり返った。


「リディア・フォンタイン侯爵令嬢。私はあなたを、妻として迎えたい」


 公爵の声が、静かに響いた。


「三年間、あなたは誰かのために頑張ってきた。これからは、私があなたのために頑張ります。あなたは、ただ笑っていてくれれば良い」


 彼は私の手を取った。


「私と、人生を共にしてください」


 涙が溢れた。


 初めて、誰かが私のために跪いてくれた。初めて、私のために頑張ると言ってくれた。


「……はい」


 私は頷いた。


「グレイ。私も、あなたと共に歩みたい」


 公爵が立ち上がり、私を抱きしめた。謁見の間に拍手が響く。


 伯爵は、ただ呆然と立ち尽くしていた。



 それから半年後、私は公爵夫人になった。


 北方の領地は、噂ほど寒くはなかった。むしろ、温かかった。グレイが傍にいるから。


「リディア」


 彼が書斎に入ってきた。


「今日の夜会、行きたくなければ断っても良い」


「いいえ、行きます」


 私は微笑んだ。


「でも、疲れたら帰りましょう」


「もちろん」


 グレイが私の肩を抱く。


「君が疲れたと言えば、私はいつでも君を連れて帰る」


「ありがとう」


 私は彼の胸に顔を埋めた。


 もう、頑張らなくて良い。ただ、自分のために生きれば良い。


 そう思えるようになった今が、一番幸せだ。


 窓の外、薔薇が咲いている。


 今度は、私のための薔薇だ。

お読みいただき、ありがとうございました。


「もう疲れた」と静かに去る主人公と、それを守る公爵の物語でした。

怒らず、泣かず、ただ品格を保って去る。そんな大人の恋愛を書きたくて。


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