渡辺氏、史上最高の幸運を得る
ギッコ、ギィ、ギッコ、ギィ。
目の前の椅子がゆらゆらと揺れる。
ギッコ、ギィ、ギッコ、ギィ。
四脚の椅子。前側二本だけが宙に浮き、ゆらゆら、ゆらゆら。
机を挟んだ向こう側、前の席の椅子がゆらゆら。
前の席の名前は誰だっけ……佐藤、田中、山田…………?
ちなみに机の持ち主は今席にいない。じゃあ誰が椅子をゆらゆらと揺らしてるかと言うと。
「…………」
一ノ瀬だった。
足を組み、俺の机に片肘を付きながら椅子をゆらゆら。
空いた片手でスマホを眺め、その表情は無表情。一ノ瀬の横顔をチラ見しつつ、俺もスマホをボーッと眺める。
昼休み、特にやることのなかった俺は昼食を食べてすぐ教室に戻ってスマホを眺める作業に耽っていたら、いつの間にか目の前に一ノ瀬がいた。
特に話しかけてくることもなかったものだから、俺も何も言わず。
そんな俺たちを見て、教室の空気はざわめいていた。
「……な、なんだあの空気……」
「入り込みにくい空気なんだが」
「……僕の席が……」
「…………渡辺……羨ましい……!」
とまあ、ひそひそ話に事欠かない話題を提供しているようで。
一ノ瀬は聞こえているのか聞こえていないのか、椅子を揺らしながらスマホを操作していた。
「おーい、誰かー」
そんな時だった。教室のスライドドアが開いたかと思うと、顔を覗かせる初老の男性が現れた。
おいおい不審者か? そう思った俺だったが、誰かと判別した瞬間俺は顔を伏せる。一ノ瀬も同じく顔を伏せていた。
「…………お前らでいいや、おい一ノ瀬、池杉」
なのだが、何故か目ざとく見つけられた俺たちは名指しを受ける。
なんで!? なんで俺たち!? 他にも暇な人いっぱいいるじゃん!?
「……なんでしょーか、小林ーヌ」
我らが担任である小林教諭。規律に口うるさい姿はもはやアイデンティティ。
「次の授業に使う物がちょっと重いから、手伝ってくれ」
「なんで俺たちが」
「暇そうだから」
「こっちも暇じゃないですよー、ね、麗人」
そうだそうだ、と同意の声を上げる。
貴重な休息時間だ、わざわざ教師の手伝いをするなんて酔狂な真似をするはずがない。
帰れ帰れー! と腕を振り上げようとした瞬間だった。
「この前、結局没収せずに済ませてやったことを忘れたか? 後お前らその時サボったろ」
「…………」
俺たちは顔を見合わせる。
大きな溜め息をお互い吐いた後、気だるそうに立ち上がった。
「やれやれ、ギックリ腰をやらかしそうな老人に変わって、手伝ってやりますか」
「だね。敬老の日は遠いけど」
「一言多いんだよ」
っと、しかし立ったら少し催してきたぞ。
トイレに行ってくる旨を一ノ瀬に伝えると、先に職員室に行っておくと言われたので頷いて、スタコラサッサとトイレへ。
入るなり、中にいる人間全員の視線が注がれるのがわかった。思わず俺は足が止まる。
トイレの隅で座り込んでたむろしていたのは、どう見ても品行方正な生徒とはかけ離れた存在。
手に持っている白い紙で巻かれていて火を点けるナニカは、未成年が吸ってはいけない代物である。
引き返そうかとも思ったが、ここで何もせずに引き返して注目を浴びるのも困る。
それにもう尿意が限界なのだ。突如としてやってきた尿意は既に崖っぷちというところにまで来ていた。
背中に視線を浴びながら、用を足そうと小便器の前に立つ。やめて、あまり見ないで。出るものも出ないわっ!
「おい」
背中に太くて低い、鋭い声が投げつけられた。俺にじゃないよな? 俺にじゃないって誰か言って。
「お前だよしょんべんしてるやつ」
俺でした。まったく、なんだというのですか。こっちは尿をしたいというのに。
心の中だけで虚勢を張りつつ、首だけで振り返る。あらやだ、全員睨んでるわ。
「お前一年の一ノ瀬と仲良いんだって?」
「いえ、そんなことありませんよ。でわ」
恐怖のあまり尿は顔を覗かせる様子はない。もうさっさと違うトイレに行こう。
「待てや」
そうは問屋が卸さない。チャックを上げるのと俺の肩に相手の腕が乗っかるのは同時であった。
「お前一ノ瀬のなんなの?」
なんなの? まったく、主語はハッキリしてほしいですね。質問が曖昧でどう答えたらいいのかわかりませんわ。
……なんなの、と聞かれてもな。共に巻き戻る仲? 巻き込んでしまった仲? なんだろうか。
「……クラスメイト?」
当たり障りのない表現だとそれしかないだろう。言ったところで理解はされないだろうし、詳しく説明するつもりもない。
「ふ~ん」
俺の肩から重みが去っていく。
もう行っていいみたいだ、足早にトイレから出ていこう。
最後の最後まで視線が背中に刺さっていたのは気になったが、早く離れたかった。
どうして、一ノ瀬のことを聞いてきたんだろうか。ぼんやりと考えながら職員室へと向かう。
……のだが、俺は姿を隠す。何故か?
段ボールを抱えた一ノ瀬が、先輩と話していたからだ。
距離が遠く、何を話しているのかは聞こえないが、せっかくの先輩との交流のチャンスなのだ、邪魔しないのが肝要というものだ。
壁から顔だけ出して様子を伺う。通りゆく生徒がぎょっとした表情で俺を見るが、気にしない。
何やら話している様子。あ、先輩が手を伸ばしたぞ。どうやら段ボールを持とうとしてくれているらしい。
優しいじゃないか、それなのに大学に行った途端残念な人になるとは、今の姿を見たら誰も想像がつかないだろう。
しかし、一ノ瀬は何かを話していて段ボールを渡す様子はなく、それどころか先輩は離れていった。
…………あれぇ?
俺は予定通り一ノ瀬の元まで向かう。
「麗人おっそい!」
「あ、ああ……悪い」
先程まで先輩と喋っていたというのに、今までのような浮かれた様子はない。
俺が近くにやってきたのを見て。怒ってはいるものの、まるで俺が来るまで待っていたようにも見える。
先輩のことを聞こうかどうしようか、考えている間に一ノ瀬は教室へと歩いて行っていた。
「持つ」
「あっ…………ありがと」
短くそれだけ言って、段ボールを奪い取るように受け取った。いや重っ!
ずしりとした重量感。これを二人だけに持って行かせようなんてどうかしてるぜ。
「……先輩には、頼まなかったのか?」
「見てたんだ。んー、まぁ、ね。麗人が後で来るって言ったじゃん」
「だからって、律儀に俺を待つ必要も無かったんじゃ……」
「いーじゃん、別に」
良いと言えば良いんだが。
先輩と付き合いたがっていたんじゃなかったのか? その言葉は口から出てくることは無かった。
「それに! 麗人は運動不足だから!」
「……これで運動不足は解消出来ないだろ」
「うっさいなぁ。いいから黙って運ぶ」
「へいへい」
まあ、一ノ瀬の人生だ。やりたいようにすれば良い。
俺がとやかく言うものでもないだろう。
それに、俺には目下差し迫った問題を抱えているのだ。
「…………」
「どうしたの、そんな切羽詰まった表情して」
「…………トイレ行きたい」
「はぁ!? さっき行ってきたんじゃないの!?」
そうなんだけど。そうなんだけども。
「やんごとない事情があって、こんにちはからさようならまでする機会が無かったと言うか」
「嫌だ聞きたくない」
しかし一度下ろすともう持ち上げたくない重さだ。どうせなら運びきってからトイレに駆け込みたいところだが。
重すぎて俺の腕も限界と来たもんだ、さてどうしよう。
「…………」
「我慢できないなら、行ってくれば?」
「お、女の子にこんな重いもの持たせられるわけが……」
「内股で言われてもね」
だってしょうがないじゃない!!
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