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チャプター1 黄金の夢

「仕方なかったんだよ。こうするより道はなかった」


 ゴールデンバットは自分に言い聞かせるようにそう呟く。


 彼はしばらく走り続けていたので、これは息が整ってからようやく告げられた一言だった。まだその声音には、多分に息が混じっている。


 隠れるように路地裏へと入り込み、休憩とばかりに壁にもたれている。そのまま座り込みたい気分だったが、一度そうしてしまったが最後、二度と立ち上がれないような気がして必死に堪えた。


 気を紛らわすかのように空を見上げると、建物と建物の間から振り落ちてくる雨と曇天の空が覗けた。すっかり濡れ鼠となっている彼は、全身に尚も雫を浴びながらゆっくりと笑い始める。


 自然と漏れてきたようなその笑いは、次第に絞り出すかのようになっていく。やがて苦しそうに身を屈め始めたかと思うと、そんな自分を叱咤するかのように彼は壁を叩いた。


「くそ」何度も。「くそ」何度も。「くそ」何度も。「くそ」何度も。


「くそが!」


 最後にそう叫んだものの、その声はあっさりと雨音に掻き消される。後に残ったのは虚しさと手の痛みだけだった。


 と、その時、遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえてきた。次第に近づいてきているのがわかる。


「くそ!」


 ゴールデンバットは最後にもう一度そう毒づいて、再び駆け出した。


 ぬかるみ始めている地面に足をとられそうになるも、何とか持ちこたえる。転がっているゴミバケツを蹴り飛ばすと、その中を漁っていた猫が一鳴きして逃げて行った。


 サイレンが聞こえる。段々と近づいてきているのがわかった。


 彼は自分の逃げている方向に自信がなくなり始め、慌てて踵を返すことにした。転ばないよう細かく足を踏み鳴らして停止。体を反転させる。


 サイレンの音はなおも追いかけてきていた。ゴールデンバットは心の中で何度も毒づきながら走る。


 なんでだ。なんだって俺がこんな目に合わなくちゃならない。


 しかしそんなことを言っていたって始まらない。何としてでもこの場を逃げおおせなくてはならない。


 だが、そんな彼の願いは叶わなかった。サイレンはもうすぐそこまで来ていて、彼が路地を抜けたその先には、無数のパトカーが並んで行く手を塞いでいた。ゴールデンバットは急いで踵を返したが、反対側にも既に警官が立ち並び道を塞いでいる。


 すっかりと逃げ道を失った彼は狼狽えるも、それでも何とかして逃げだせないかと視線を彷徨わせているしていると、並んだパトカーから次々と警官が降りてきた。ドアを閉める音が連なる。


 警官の一人がゴールデンバットに近づいていった。帽子を深くかぶっており、表情は暗い影に閉ざされている。無言のまま、ぬかるんだ地面をにちゃにちゃと踏みしめる音だけが聞こえた。


「何だよ……」うっかり漏れ出てきた弱気な声を振り払うように、ゴールデンバットは吠えた。「何だってんだよ!」


 しかし警官は答えない。無言のままで、次第に彼に近づいていっている。


 間もなくして警官は拳銃を引き抜いた。それを真っ直ぐゴールデンバットに向けたかと思うと、躊躇することなく引き金を引く。


 音と共に、激しい閃光が辺りを包んだ――


          *


 ゴールデンバットは飛び起きる。小さい畳敷きの六畳間。年季の入ったアパートの一室で、彼は万年床の掛け布団を撥ね飛ばすようにして、上体を起こした。


 垂れる汗をそのままにし、荒れた呼吸を必死に整える。両手で顔を覆い、何とかして気持ちを落ち着けた。


「夢か……」自らに言い聞かせるように、あえて口に出した。「忌々しい朝だ」


 しかし、それは何の慰めにもならなかった。彼は堪らず笑い始める。くつくつと笑っていたかと思うとやがてそれに悲しそうな声音が加わり、最後には笑い声だけが消えて涙だけが流れた。


「なんで……なんでこんなことになるんだよ……」


 それから数分後。泣き止んだ彼は、頬に着いた涙の痕を拭うため、顔を洗うことにした。洗面台に立つ。蛇口をひねると想像よりも勢いよく水が流れてきたが、気にせずバシャバシャと顔を叩いた。周囲に水をまき散らしながらも、必死に何度も顔を拭う。


 やがて息が続かなくなると顔を洗う手を止めた。流れる水をそのままに、彼は目の前の鏡を見る。口元を丸ごと覆うくらいの髭、深く剃り込んだ眉、後ろに流している髪。必死に強面を繕ってきたその顔。しかし血筋は争えないのか、どうしても父親の顔が連想された。


 彼はその度に思い出す。父親に何度も言われた言葉を。


『お前は出来損ないだ』


『一家の恥だ』


『お前みたいなやつは生まれて来ない方がよかった』


 別に良家でもなんでもなかったのに父親は厳しく、彼はただ罵られ続けた。確かに彼は昔から勉強も運動もあまりできなかった。どちらかと言うと引っ込み思案な大人しい性格だった。


 しかし、そんな不出来な子供が、自分の息子であることが許せなかったのだろう。父親は繰り返し、罵声を浴びせてきた。まるでそうすれば改善するかと思い込んでいるかのように。


 ゴールデンバットはある意味ではその言葉に答えた。彼は父親の言う通りの出来損ないになることにした。自ら落ちぶれた生活を送り、幾度と罪を犯していった。そうすることで父親を嘘つきにしないことにしたのだ。これも一種の親孝行だろう。


「親父の言う通りだ」ゴールデンバットは独り言ちる。「俺は出来損ない。だからこそ」


 気づけば手が震えていた。その手でかつて彼は拳銃を握り、引き金を引いた。そして、初めて人を殺した。


 彼は鏡に思いっきり手をついた。すっかり臆病風に吹かれた自らの手を叱咤するように強く。そして、濡れたままの顔を見据えてこう言った。


「もう一度やるんだ」


 そう、もう一度。


「目障りな悪夢とはもうおさらばだ」

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