シビュラの追憶
毎毎新聞社が発行する週刊『シビュラの追憶』は、ジャーナリズムを主体としながらも、ある種全うなオカルト要素を程よく混合させた、子供から大人まで幅広い読者を抱える情報誌である。
編集長を務める一波鋭は、若干34歳にして業界を席巻する特ダネをすっぱ抜いた生粋のジャーナリストでもあった。彼の信条は真実の追求であり、時に狂気を滲ませた執拗なまでの拘りは、陰謀でさえも真実として成立させてしまうほどの、近寄り難い神々しさを発することがあった。
「凪ちゃん、ちょっと」
朝からだんまりを決め込み、深い思考に浸っていた一波が重い口を開いた。
「何でしょう、編集長」
凪雫は一波に対し萎縮することのない風変わりな新米社員であった。
一波の唐突な呼び出しに一抹の不安を覚えながらも、彼女はそれを超える期待に心を弾ませた。
「ここに彩幻館という画廊がある。できたのはつい最近だ。ここを調査してほしい。なんでもこの画廊の絵画を購入すると妙な体験がオプションで付いてくるらしい」
一波は彩幻館の位置情報を凪の携帯端末へ送信した。
「妙な……体験ですか……」
「予算は100万。それを超えるようなら諦めろ」
「……わかりました」
オフィス街の喧騒から僅かばかり離れた路地裏の一角に、アンティーク調のファサードをこしらえた画廊があった。
「こんにちは……」
凪が小声であいさつをしながら中へ入ると、奥の暗がりからひとりのスタッフが現れた。
「ようこそ、凪雫さん。お待ちしておりました」
「――え?」
どこか愁いを帯びたオッドアイが印象的なスタッフは、少年とも少女とも判別し難い不可思議な容姿と声色で、確かに凪雫と発した。
「ボクは彩幻館の主人、霧靄霞です。どうぞこの絵画をご覧ください」
「キリ……モヤ……」
凪は自分を知る理由を問うことも忘れ、彩幻館の主人、霧靄霞を凝視した。そして徐に彼が指し示した一枚の絵画に視線を移した。
「これは……」
件の油彩画にはどこか見覚えのある情景と7人の人物が描かれており、凪自身と編集長の一波、そして霧靄霞の姿を確認することができた。
「あなたは一体……」
「ボクはこの世界の創造主です。この絵画に描かれた人物はボクのかけがえのない友人たちであり、創造事業の立役者です」
「……」
常軌を逸した霧靄の発言に戸惑う凪であったが、会ったはずのない絵画の中の住人からは、どこか淡い懐かしさを感じた。
「さあこちらへ。あなたはあの日の顛末を、無意識の底に刻み込む必要があります。なぜならあなたはジャーナリストを志し、実現させたからです。あなたはこの世界の希望であり、正しく機能するための良心」
「……希望……良心……」
凪は霧靄に導かれるまま『∞』と刻まれた扉を開き、部屋の奥へと吸い込まれるように消えていった。
――――
「凪ちゃん、俺をからかってる?」
「まさか……ただ彩幻館に入った後の記憶はなく、気づいたときは薄暗い神社の境内にいた、それが真実です」
「狐に化かされたか……」
「ただ、その神社で鮮明に思い出したというか、確信したことがあります」
「ほう……」
「私にとっての、ジャーナリストの使命とは真実を暴くことではなく、近づくことなんだと」
「……」
「人間の理解には限界がある。だから真実に辿り着くことは不可能。でも近づくことはできる。真実を追求する一波さんはなぜ『シビュラの追憶』を作ったんです? 信条に矛盾しています」
「――確かに。『シビュラの追憶』はジャーナリズムとオカルトの融合誌だ」
「一波さんは人間の限界を理解しているはずです。だからすべての現象に懐疑的です。無知の知を実践する、『シビュラの追憶』はそれを忘れないために創刊した。違いますか?」
「違いない。すると俺は、自分への戒めのため、敢えてオカルティズムを残した、ということか」
「ジャーナリストは神の設計図に触れる権利を民より付託された存在。だから私は今、ここにいるんだわ」
神妙な面持ちでオフィスを出た一波の前に、突如として彩幻館が現れた。
彼は霧靄霞を押し退け、館の奥深くへ潜り込んでいった。
この短編は拙著『∞D - 夢想幻視のピグマリオン -』(長編)の設定を借りたスピンオフとしてもお楽しみいただけます。
短編に興味を持たれた方は、是非長編もお読みいただければ幸いです。