第八話「ふたりのBranch Point」
全校集会の後、生徒達は各々の棟に戻っていき、平常通り授業が開始された。
昨日遅くまで柴田への対応を考えていた桜は寝不足で、遅刻しなかっただけでも褒めてほしいと思いながら、教壇に立つスズカの授業を聞いている。
足りない身長を補う為に、教壇に木箱を置いた上に乗る様は、とても教師と思えない威厳の無さだが、取り扱う内容は一般の高校よりハイレベルなものだ。
これは彼女に限らず全学年に共通しており、揺神女学院は特別授業の分だけ通常授業に割ける時間が短いため、必然的に一般校より密度を高くしなければならないからである。
「xを求めるには、yにこの公式を代入して……」
入試をパスする為に猛勉強したとは言え、編入生である桜ではついて行くのがやっとだ。数学の公式などは呪文にしか聞こえない。
眠い頭では処理しきれなくなり始め、瞼が重く感じてくる。そんな桜の異変に気付かないスズカではなかった。
「では、この問題を……桃瀬桜ぁ、ちゃんと聞いているのですかー?」
「ふゎ……」
「聞いているのか、と訊いているですよー!」
いまいち凄味に欠ける怒号と共に投げつけられたチョークが、今にも舟を漕ぎ出しそうな桜の額にクリーンヒット。
「あいたぁッ!?」
痛みにより一瞬で覚醒した桜にクラスの視線が集中し、恥ずかしさに頬を掻いていると、梨沙らのグループからどっと笑い声が上がった。
桜を気遣いながら茨が彼女達を睨むが、どこ吹く風と言った様子で既に黒板へ向き直っている。
このままいじめに発展し、桜のトラウマを刺激してしまわないか……不安になった茨が隣を見ると、桜はぎこちなく笑顔を作っていた。
「大丈夫だよ、茨ちゃん。このくらい平気だから」
「桃瀬さん……」
梨沙や他のクラスメイトからすれば大した事ではないのかもしれないが、彼女にとっては一度その人生を狂わせた原因だ。このままにしておくわけにもいかないだろう。
私がなんとかしなくては――茨は心の内で密かに決意するのだった。
◆◆◆
チャイムが授業の終わりを告げる。スズカは次の授業の準備をすると言って、さっさと教室を出ていってしまった。
次の授業まで起こさないでと言い残し、机に突っ伏したまま動かない桜をその場に残したまま、茨は教室を出た梨沙を追いかけ、廊下で呼び止める。
「あの、小鳥遊さん。少しお話が……」
「話? ……長くなるなら後にして欲しいんだけど」
煩わしげに言われ、何をどう話すべきか思案する。
まずは、彼女にいじめの意識があるかどうか確認しよう。故意に桜を傷付けようとしているのなら、何としてでも止めさせなくてはならないし、無意識でも注意は促す必要がある。
あまり時間は取らせないつもりだったが、次の授業が終われば昼休み。どう理由を付けて桜と別行動したら――
「ねぇ、聞いてる?」
ふと、梨沙の様子がおかしいことに気が付いた。何かに耐えるように唇をきゅっと結び、両膝を頻りに擦り合わせながら話の続きを待っている。
「すみません、もしかすると長くなるかも……」
「じゃあ後にして! ……その……」
普段の彼女からは想像も付かない必死さ。よほど余裕が無いのだろう。
僅かに言葉を詰まらせた後、自らその理由を明かした。
「トイレ、行きたい」
「あっ……し、失礼しました!」
消え入るような声に一瞬聞き間違えかと思ったが、その様子を見れば何を我慢していたのかは明らかだ。
今回ばかりは全面的に茨が悪い。慌てて頭を下げると、梨沙は茨に背を向けつつ、まさかという顔で問う。
「……それとも、トイレまでついて来る気?」
「行きませんよっ!?」
「冗談だバーカ。昼休みに中庭来て」
「えっ? あっ、はい!」
それだけ告げると、スカートを押さえながら内股気味に立ち去った。
茨は彼女に悪い事をしたなと思いつつ、桜にどう誤魔化したものかと頭を悩ませながら教室に戻る。
すると、二人の話し声を聞き取ったらしい桜が、突っ伏した体勢から顔を上げて茨の方を見ていた。
『次からはちゃんと言ってね?』
「……っ」
「茨ちゃん? どしたの?」
脳裏に昨日の桜との会話が過り、ハッとする。隠し事はしない、と約束したばかりではないか。
一人で抱え込もうとした己を恥じつつ、梨沙を問い質したい気持ちや廊下での出来事をかいつまんで話した。
「……という事があって」
「そっか、心配してくれたんだ。ありがとう茨ちゃん!」
「きゃっ……そ、そんなお礼なんて」
感謝の念を表するように桜が茨に抱き付き、赤面する茨。そこへ次の授業を担当する教師が教室に入ってきて、二人は弾かれたように離れてそれぞれの席に着いた。
なんとなく照れ臭くなって、お互いに顔を見合わせて笑う。
話して良かったと安堵する茨だったが、二人の道は思わぬ人物によって分かたれることとなる。
◆◆◆
午前中の授業を乗り越え、昼休み。梨沙の姿は既に無く、他のグループメンバーはまだ教室内で談笑している。
茨と桜もお弁当を手に中庭へ向かおうとした、その時。
ピーンポーンパーンポーン、という音が教室の片隅に取り付けられたスピーカーから流れ、少しの間を置いて凛とした声が響いた。
『高等部二年C組、桃瀬桜さん。至急、生徒会室へお越し下さい。繰り返します。高等部二年C組、桃瀬桜さん……』
「ほぇ、あたし?」
呼び出される理由に心当たりが無く、キョトンとする桜。
まさか数学の授業で居眠りしていたのが原因? それにしても職員室ならともかく、生徒会室に呼び出したりするだろうか。
「今の声、金城会長でしたよね」
「うん。今朝の集会で聞いたから覚えてる……でも何の用だろ? とりあえず行ってくるね!」
「待って下さい、私も――」
心配で同行を申し出る茨をやんわりと制し、微笑みかける桜。
「茨ちゃんは先に中庭行ってて。梨沙ちゃんが待ってるよ」
「でも……」
「大丈夫だから! ほら、早くしないと昼休み終わっちゃう!」
その笑顔には逆らえず、茨は一人で中庭へ向かうことになった。
本当は桜が心配というより、自分が不安で一緒に来て欲しかっただけなのに……そんな弱気な考えを振り払いながら。
【キャラクターファイル】
No.7 椛葉スズカ
柴田 亜子の後続として赴任した教師。主に数学と化学、生物学を担当する。
幼い容姿と口調などから子供に間違われないことがないが、これでも立派な成人女性。
毎日4リットルの牛乳を飲むなど、涙ぐましい努力を重ねている。




