第二話「セピア色のBlack Lily」
それは二年前、中等部で迎えた最後の冬のこと。
冬休みに突入した揺神女学院に残っているのは、年末に帰省の予定が無い寮暮らしの生徒達と宿直の教員くらいなものであり、つい数日前までの活気が嘘のような静けさを助長するように、あちこち雪が降り積もっている。
そんな寒空の下、白く染まる息を切らしながら、夏棟へと続く道を急ぐ人影が一つ。
まさか、冬休みの宿題を学院に忘れてきてしまうなんて……もう何度目かになる自責の念に沈む心を奮い起こし、15歳の青木 茨は教室を目指していた。
自分は実家暮らしだからこうして取りに来られるものの、これが遠い実家に帰省中の生徒であれば、白紙のドリルを提出する破目になっていたと思うとぞっとしない。
とはいえ、こんな情けないミスを真面目な両親が知ったら朝までお説教コースは間違い無しだろう。二人が帰ってくる前に、急いで帰らなくては……
そんな焦る気持ちとは裏腹に、視界の端に違和感を認めて茨は足を止めた。
「あれは……」
中央塔の二階部分から四棟を繋ぐ渡り廊下の陰、春棟のそばに何か動くものがある。
人、なら気にも留めなかった。飼育動物にしてはシルエットが……大き、すぎる。
「フシュウゥ……」
「えっ……?」
立ち止まって目を凝らせば、それの姿をはっきりと知覚できてしまった。
成人男性を優に越える巨体はごわごわとした白い体毛で覆われ、手足などの末端部分は茶色い皮膚が露出している。指の節一つが人間の頭ほどもあり、そんな手で掴まれればひとたまりもないことは誰の目にも明らかだ。
ビッグフット──様々な本を読み知識を得てきた茨の脳裏に過ったのは、未確認生物とカテゴライズされる、日常には有り得ざる存在の名前。
地球上に生息するいかなる生物ともつかない痕跡を残し、遥か昔から人々の好奇心と恐怖心を煽ってきたと言われている伝説上の存在が、どうして学院の敷地内に? そもそも、ここは山奥どころか都会の真っ只中。騒ぎになったりしないものなのか?
様々な思考が頭の中を巡り、周囲に対する注意が疎かになってしまった。その結果──
パキッ!
冬の空に、乾いた音が響く。茨が足下の枯れ木を踏み折ってしまった音だ。
まずい、と思った時にはもう遅い。毛むくじゃらの巨人は、ゆっくりとした動きで体を回転し、音の出所……茨の方を向いた。体毛のせいで目の場所は分からないが、視線を感じる。
「ひっ……!?」
「フゥウーッ……」
「やっ、嫌……来ないで……!」
どうして逃げなかったのか。己の愚考を悔いてもなお、恐怖に竦んだ彼女の脚は動けずにいる。
全身が震え、総毛立ち、がちがちと歯が打ち鳴らされる。
持ち前の想像力の豊かさが仇となり、はっきりと思い描いてしまった死のビジョンによって、少女の顔は涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃになっていた。
怖い、殺される、怖い、死にたくない、助けて、誰か、怖い、怖い、怖い!
悲痛な叫びは掠れた呻き声にしかならず、必死の祈りは曇天に届かない。
そうしている間にも、ぎしっ……と雪を踏み固めながら巨大な足が迫ってくる。
ああ、もう駄目だ。自分は今日、ここで死ぬんだ──と諦めかけた、その時。
仰いだ空に、茨は一点の黒を見た。
瞬間、雷鳴のような一筋の光が空から降り注ぎ、白い巨人を貫く。それは周囲の雪を巻き上げながら地上に、呆然とする茨の前に降り立った。
目元まで覆う鳩羽色のロングヘアー、全身を包むゴシック&ロリータ調の黒いドレスには傷一つ無い。そして何より目を引くのは、その手に握った棒状の物体だろう。
新体操のバトンを想起させる細長い柄の先端に、百合の花弁を象った金属質のカバーが付いており、中心部には黒く輝く水晶玉が嵌め込まれている。
それは敢えて言い表すならば、女児向けアニメの主人公が持つ魔法のステッキに酷似していた。
それだけであれば、目の前に突然コスプレをした不審人物が現れたとしか説明しようがないだろう。しかし、その人物の背後にある巨人の姿が、そこで起きた出来事を物語っていた。
流血などのグロテスクさは無く、巨体の中心には風穴が穿たれている。それも僅かな間でしかなく、やがて巨人の姿は蒸発するように消えていった。
「……大丈夫?」
「あ──」
ゴスロリ姿の人物に声をかけられ、ようやく茨は自分が生きていることを自覚して、その場に膝から崩れ落ちる。
既にビッグフットは跡形もなく、いよいよ乙女が出してはいけないモノを垂れ流しかけていた茨と、謎の人物だけがそこに残されていた。
「あなた、は……?」
ようやく絞り出したのは純粋な問い。
全ての答えは、目の前の人物が握っている、そう信じて茨は相手を見上げる。
長い前髪の下から覗いた瞳は仄暗く、それでいて僅かに気遣うような色が垣間見えた。
「……私は、ブラックリリィ」
「ブラック、リリィ……」
静かで落ち着いた女性の声がした。言葉が通じるというのがこれほど嬉しく思ったのは初めてだ。
その事に安堵したせいか、緊張の糸が切れた茨の意識は急速に沈下していく。
女性は更に何か言っていたが、薄れゆく意識の中で耳に残ったのは、彼女が名乗ったブラックリリィという名前だけだった──
◆◆◆
それから、茨は冬休みの宿題を一日で終わらせ、両親には図書館に行くと嘘を吐いて、毎日のように学院に足を運んでいた。
目が覚めた時は自室のベッドで横になっており、宿題は勉強机の上に置かれていた。あの時の光景は全て夢だったのか、確かめるために。
こうして足しげく通っていれば、またあの女性に会えるかもしれない……しかし結果は芳しくなく、一度も遭遇することなく冬休みは終わりを迎えた。
クラスの人間に話しても取り合ってはもらえないだろう。この三年間、読書に没頭し続けた茨はどのグループにも溶け込めず、クラスでも浮いた存在になってしまっているからだ。
突拍子もない話をしたところで、クラスメイトは馬鹿にしてくるに決まっている。
かと言って教師も当てにはならない。読書や勉強に対する姿勢こそ評価はしてくれるものの、所詮は子供の言う事などまともに聞いてくれないだろう。
そんなわけで誰にも話せないまま数日が経った。学校の様子に変化は無く、怪物が出たという噂すら立っていない。
やはり、あの時の出来事は夢か幻だったのだろう──そう結論付けようとした茨を、一人の女生徒が呼び止めた。
「……中等部三年、青木 茨で合ってる?」
「え……っ!?」
その声は、忘れもしない……助けてくれた女性のもの。振り向いた茨の前に立っていたのは、記憶と異なる容姿の少女だった。
制服姿なので、学院生なことは間違いない。背の高さから見て高等部の生徒なのだろうが、その髪は色こそ同じ鳩羽色であれど、肩にも届かないようなショートボブで目元も露になっている。
胸に大きな膨らみを確認できなければ男子生徒と見紛うほど整った顔立ちの少女を前に、茨は思わず胸が高鳴るのを感じた。
「え、っと……どちら様、ですか……?」
「三年の黒澤……いや、ブラックリリィと名乗った方がいい?」
「……!」
その名を聞いて、再び心がざわついた。そして、目の前の人物に恩人の姿が重なる。
ようやく会えた。伝えたいこと、聞きたいことが山のように浮かんでいっぱいになり、金魚のように口をぱくつかせてしまう。
しかし、そんな茨の気持ちに冷や水を掛けるかの如く、彼女は淡々と告げた。
「あの時の事、そしてこれから話す事は……誰にも洩らさないで欲しい」
【キャラクターファイル】
No.2 青木 茨
高等部二年C組所属。7月生まれの16歳。
引っ込み思案で、本の世界に逃避しがちなため友達が少ない。
編入生の桜となら新しい関係を築けるかもしれないと思い、勇気を出して声をかけた。
そのため、桜に嫌われることを恐れているが、どうしても言えない秘密を抱えている。
好きなものは読書と妄想、嫌いなものは美術の授業(絶望的に絵心が無い)。




