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芸術作品の量が増加し、質が低下する現代について 

 猪木武徳の「経済学に何ができるか」という本に、アレクシス・ド・トクヴィルの思想を紹介する、次のような記述がある。


 「ところがデモクラシーのもとでは、生産者は互いに交流し他人の仕事に関心を持つことは少なくなった。社会的なつながりが崩れ、多くの人は、最小のコストで最大限の金を稼ぐことしか求めなくなる。ものを作る人を抑制するものは消費者の意向だけになったのだ。他方、自分の力以上の欲望を持つ消費者が無数におり、これらの人々はできの悪いもので我慢することはあっても、欲しいものを諦めることはないとトクヴィルは述べる。」


 「しかし、貴族制の時代に比べ、芸術愛好家の多くは比較的貧しくなる一方、ほどほどに経済的な余裕があり人真似から美術品を好む人の数は増加する。したがって芸術に関心を持つ人は数としては増大するが、往時の『大金持ちで趣味のよい消費者』は稀な存在になる。そのような状況では美術品の数は増えるが、個々の作品の質は低下するトクヴィルは予想したのである。」


 

 トクヴィルの洞察は、丁度現代の状況を正確に指しているように思える。こうした事に関して、自分の考えを述べていこうと思う。


 ここ最近、流行った映画に「シン・ゴジラ」と「君の名は」の二つがある。この二つは久々の映画のヒット作という事で随分宣伝され、もてはやされた。僕個人はこれらの作品の質は本質的なレベルでは低いと見ている。もちろん、表面的なレベルにおいては、非常に高い。


 僕が不思議なのは、どうしてこの程度の作品で人が満足するのか、という事だった。これくらいの作品でどうして多くの人はああも満足できてしまうのだろうか。また、それと関連する事だが、自分の関係する「文学」の領域では毎年、似たような作品が輩出される。多くの新人作家、作家志望、プロの作家、と呼ばれる人が、どうしても似たような基盤で書いているように見えて仕方なかった。


 そこで、考えを変えてみると、そもそも、現代社会、デモクラシーと消費資本主義が基礎となった社会には、芸術作品を規定するものが「大衆の意向」にしかない、という事がわかる。「売れれば勝ち」「どうやったら作家になれるか」「どうやったらランキングに乗るか」「どうやったら稼げるか」という事が問われ、芸術とはそもそも何かという事はあまり話題にならないのは、芸術が社会から独立して存在しているものではなく、芸術が社会に従属しているものと考えればわかりやすい。そこで、この社会において最も強大な権力を握っているのは、消費者という事になるだろう。


 素人もプロも含めて、クリエイターと呼ばれる人達は、無意識的にも意識的にも、消費者の意向に沿うような作品を生み出す。ジャーナリズムも同様で、消費者が望む情報を提供するようになる。クリエイターは消費者から喝采を受け取り、金銭をもらい、自分の生活を良いものにする事を望む。一方、消費者は自分達を楽しませるもの、面白いもの、わかりやすいもの、あるいは自分達を肯定してくれるもの、を好む。そこでは、一種の互恵関係が築かれる事になる。


 さて、この関係は今の所全く問題ない、よい関係のようにも見える。しかし、もう少し考えてみよう。


 アダム・スミスは、社会ー経済的な人間を二つに分割した。一つは「弱い人」であり、もう一つは「賢い人」である。「弱い人」は「世間一般の評判を重視する、うぬぼれや野心を持った人間」であり、「賢い人」は「自分の中にいる『偏りのない観察者』にしたがって、公正で醒めた判断と行動ができる人間」だ。この場合、現在に満ちているのは「弱い人」であり、「賢い人」ではないという事になるだろう。(アダム・スミスは「弱い人」にもある役割を認めているのだが)

 

 芸術という領域において面倒な事の一つは、『評価』というものが難しいという事にある。死後に評価された芸術家というのはザラにいるし、随分長い間歴史に埋もれていた芸術家もいる。彼らの作品は同時代に正当に評価されなかったが、後になって人はその価値に気づいた。そう考えると、歴史に本当に埋もれてしまった芸術家も沢山いるだろう。


 芸術という分野では、『売れているから良い』という事には直ちにはならない。『価値』というのは発見するのが難しい。それは、発見する側にも、ある力量を要求するからだ。しかし、現在の消費者意識は、自分が価値を発見する側だとは考えない。彼らは主体的に価値を発見しようと努力は(ほとんど)しない。彼らは常に消費者であり、受動的に、自分の人生において娯楽となってくれる享楽物をただ待ち望んでいる。


 そしてこの事は社会体制とぴったり一致したスタイルである。多くの人に受け入れられる作品がもっと大きな経済的利得を得る事ができる。当然、芸術家、クリエイター、アーティストと呼ばれる人はそうした領域に殺到していく。こうして多数の、プロ、アマチュアのアーティストが生まれるが、それはそもそも消費者の限界に合わされたものであるから、それ以上の高い質は望めないし、仮にそんな質があるとしても、それはこの社会ではそもそも求められていないものだという事がわかる。


 そういうわけで、僕は、現在において、優れたクリエイターであろうとすれば、どうしても世界から孤立しなければならないと考える。


 これを文学の話に戻してみよう。自分は最近の文学というのは、そもそも古典との繋がりがないのではないかという気がしている。羽田圭介とか綿矢りさとか、そうした人達でもいいのだが、彼らが古典文学や、あるいはその他の文学以外の領域と繋がっているという感じが感じられない。これもトクヴィルが指摘している事だが、デモクラシーの社会においては人は「現在に閉じこもる」。文学という領域において、例えば、芥川賞や直木賞を取りたければ、別にドストエフスキーやゲーテやソポクレスやアリストテレスや小林秀雄を読む必要はない。そうした賞を取りたければ、それこそ綿矢りさや金原ひとみや、せいぜい遡っても村上春樹や村上龍で十分だという事になる。そしてそれで特に不足はない。何故ならそもそもの目標が、文学という大きな目標ではなく、単に自分の作家デビュー、賞の獲得、またはベストセラーという事になるから、古典を特に読む必要はない。また、文学以外の世界を学ぶ必要もない。効率性、合理性という事を念頭に置くのであれば、そうした面倒臭い事を読んだり考えたりする必要はない。また、仮にそれらを読むにしても、彼らはそれを「自分達の世界とは別のもの」という態度で読む。古典を古典というカテゴリーに入れ、それらを商売に使ったり、引用してみせたりもするかもしれないが、それらが本質的に何であるか、とは考えない。考える必要がないから考えない。


 これを消費者の立場で見ても、同じ事だ。彼らは自分を楽しませる作品を望む。自分が面白いと思える作品を望む。そして彼らは面白くなければ「作品が悪い」と考え、それらを拒否する。こうして世界はある閉じたループに陥っていく。この世界は多くの消費者とそれに資する者との間の互恵関係で閉じていく。こうした世界ではベストセラー作品は非常に高く評価される。僕は「君の名は」や「シン・ゴジラ」が高く評価されているという事実は、それらの作品の価値を語っているのではなく、消費者が自分の価値観こそが世界にとって正当なものであるという、権力の誇示だと理解している。消費者側の価値観が世界の価値観とぴったり一致するという事実を示すには、大ヒット作がメディア含めて称揚される必要がある。この称揚により、人々の価値観は勝利を得て、それに合わせたクリエイターが勝者となる。


 この話から、もっと大きな政治の問題なんかに伸ばしていくのも可能なのだが、それはこの文章の趣旨ではないのでやめておこう。この文の結論としては平凡だがーーいずれの時代においても、優れた芸術家、思想家は、世界と孤立した系を持たざるを得ないという事だ。僕は、未来とは孤立の中に存在すると考えている。孤立、引きこもり、異端者、反抗者、そうした存在がない社会は純粋に空間的な世界であり、全てが一つの論理の中に溶けていくような場所だ。この開けた場所では時間というものが存在する事ができない。時間というものはおそらく、異質なものを包括していく所にある。全てが自分達の価値観に準拠した作品では、同質的なものの連続となり、次第に我々は倦怠していくだろう。自分が幸福になりたい、と人が望む時、その幸福の基準については自問しない。伊藤計劃「ハーモニー」のラストにあるように、全ての人が同質の論理、感情、意識の中に溶けていく事はきっとさぞ快い事だろう。そこには時間は存在せず、あるのは全き空間性だけだ。その時、世界は終わるのであろう。時間とは異質なものと接続にある。そこで人は、自分の価値観の外部にあるものを不快な感情と共に認めなければならない。本当に優れた作品というのは、我々の感覚にとって心地よいだけではなく、不快な、醜いものを含んでいる。何故なら、それらは我々の欲望の具現化ではなく、我々の「存在」の具現化だからである。





 ※ この文章の趣旨とは矛盾するようですが、伊藤計劃に関する論はネット上のものは削除してアマゾンのパブリッシャーで有料で売ろうかと思っています。ネット上で無料で公開していてもあまり広がりも感じないので、そっちを試してみたいという感じです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 『それはそもそも消費者の限界に合わされたものであるから、それ以上の高い質は望めないし、仮にそんな質があるとしても、それはこの社会ではそもそも求められていないものだという事がわかる。』 非常…
[一言]  なんでこんなに感想欄が荒れてるのかわからない。  私は制作に悩んだ時に、時々ヤマダヒフミさんのエッセイを読んでます。  シンゴジラは普通に面白いと思ったし、その後このエッセイを読んで成る…
[一言] シンゴジラに満足はしてないだろ、ただマスコミが全力で広告しまくって下駄はかせまくった結果だろ 何万人が見た=満足じゃないだろ? 見る前に評価は出来んわけだしな まぁシンゴジラみたいなクソ…
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