1
自室の椅子に座ると、アウセムは億劫そうに胸の飾り釦を外した。息を吐く。一年前に仕立てた正装服はきつい上に、雨の日に出歩いたせいか、背中の古傷が痛んだ。まったくもって忌々しい。
足元の忠実な友人が心配するようにクウンと鳴いたので、手を伸ばして頭を撫でてやる。
「女ではなく、犬を侍らせる……。なんか寂しい人って感じですよねえ、それ」
「ラーバス。襲え」
主に撫でられ、気持ち良さそうに寝そべっていた大型犬は勢いよく跳び起きると鋭い犬歯に剥き出しに、眼鏡をかけた青年に突進した。
「ちょっと、冗談よしてくださいよ! うわああ!」
灰色の肢体を持つ大型犬に跳びかかられた青年は背中から絨毯の敷かれた床に倒れ、必死に犬の口を両手で閉じ、押し戻そうとしている。
「ちょっとこの子本気じゃないですか!」
「当たり前だ。ラーバスは俺の命令に逆らったことがない」
「殿下!」
「……ラーバス、やめてやれ」
牽制するようなうなり声を上げ、青年を振り返り振り返り、ラーバスはアウセムの側に戻った。起き上がった青年は、はあ、と息を吐き、外れかかった眼鏡をかけ直した。
「ラーバスくんは殿下以外の人間が大嫌いだということが身に染みてわかりました」
「ラーバスは雌だ」
「あ……そうでしたか。いえ、そうではなくてですね、殿下に代わり数々の到着式典をこなし、今夜の騒動に関しても身代わりで占宮から叱責を受け、謹慎処分を受けた私に対してこの仕打ちはひどいのではないかと思うのですが」
「謹慎処分を受けたのは俺だがな。……占宮も、よくお前のような奴を探して来たものだ」
赤の他人なのにもかかわらず、青年はアウセムの双子のように似通っている。生粋のバスハ人だ。背格好、容姿、髪の色――。ただし、瞳の色だけが違う。よってアウセムの身代わりとして公式の場に出る時、青年は目に細く切り削り、着色した丸い硝子を眼球に付着させている。国王命令によって作られた、細工職人の発明品だ。
「いつか失明するぞ」
青年は苦笑した。眼鏡の下から、己の目に触れる。着用時間は限られているとはいえ、硝子のせいで常に充血していると言っていい。
「確かに、あの硝子は拷問のように辛いです。視界がどうにも……。練習の時に派手にすっころんで貴族の方に笑われましたし。殿下の目から見て、私はしっかりと王子をやれているでしょうか」
「衆人環視の前に滅多に顔を出さず、長年王都から離れ、引きこもっていた変人が多少おかしかったところで特に落ちるような評判もないんだ。せいぜい笑わせてやればいい」
「はあ……」
アウセムの言葉は事実だった。しかし、当の本人からそう返されるとは考えていなかったのか、弱ったように青年は頭を掻いた。気を取り直すかのように、咳払いをした。
「あ……と、それでですね、実は、占宮から伝令を仰せつかっていまして……いつもの話なのですが……」
「ドウル」
青年――ドウルは、突然自分の名前を呼ばれ、飛び上がった。
「はい!」
「お前は、占宮の人間だな?」
途端、情けなくドウルの眉尻が下がった。
「そうですが……」
「もちろん、占宮が俺に下した死刑宣告は知っているな?」
ドウルが顔を上げた。ラーバスの頭を撫でながら、自分を眺めている仮の主を見返す。何故こんな言い方をしたのか、主の真意はまったく読めない。
「占宮は、王子殿下におかれます、不吉な占いの結果を内々に発表しましたが……そのために私がこうして、殿下の影武者を務めております」
今回の旅行列は、二つの意味を持つ。
病に苦しむ国王のための快癒祈願。そして王都から両王子――とりわけ、アウセム第一王子――を遠ざけることで、身の安全を確保すること。
――しかし、そのために、よりにもよってこのシェーンハンを訪れることになろうとは。
生真面目な顔つきで答えたドウルに、アウセムは妙な笑いを一瞬口元に浮かべた。
「お前はバスハ人の割に、占いを信用しているようだが」
「はい……。占師に命を救われたことがありますので」
「成程」
アウセムが深く頷いた。
「では、お前は異端の者の中に、本物の占師が存在すると思うか?」
「異端の者? まさか……殿下は、シェーンハンの裏街で、御自分の占師を見つけるおつもりですか? それこそ、冗談はおやめください!」
ドウルが声を荒げる。主への叛意ととったのか、ラーバスが低い唸り声をあげた。一人、涼しい顔をしているのはアウセムだ。
「俺への死刑宣告は、占宮が総力をあげた結果だろう? ただし内容が内容だけに、ごく一部の人間しか知らない。外部に漏れていることなど、あってはならない」
では、とアウセムは続けた。
「では、たとえ裏街出身の人間だとしても、俺を占い、同一の結果を俺にもたらしたなら、その人間は、本物と言えないか?」
「それは……」
ドウルは必死で言葉を探した。
「偶然、ではありませんか? そもそも裏街に占師は存在しません」
「確かに、裏街に占師はいない。異端として排除され押し込められている人間たちに、占師になる資格は与えられていない。しかしキトリス人は占いを好む。性のようなものだ。だから必然的に、裏街には占師もどきが存在するようになる。有名なのも何人かいたはずだ。新しいのでは、三年前ほどか? 娼婦だ。よく当たる、と評判だった」
「――占宮は認めていません」
「そうだな。あの娼婦は占師を騙った罪で処刑されたはずだ。しかし、せっかく当たる占師だろう? 占宮に入れてやればよかったものを」
「処刑された娼婦に、同情は致します。ですが、乱してはならないものもあるのではないでしょうか。それに、もし裏街で占師を騙っている者がいるならば、それこそ、そっとしておくべきと私は考えます。表に出て来ない限りは、叩かれることもありません」
「もう遅い」
「は……? 遅い、ですか?」
「最初はともかく、俺を呼びとめたのは向こうのほうだ」
アウセムは、先日出会った少女の顔を思い浮かべた。
――裏街の人間。
わざとぶつかって様子を見た。銀色の髪を持っていたからに他ならない。手入れが満足に行き届いていないのだろう、艶を失ってはいたが、色は確かに銀だった。布きれで頭を被い、隠して歩いてはいたものの、数本が布の外にこぼれ落ちていた。
染めているのではない。銀髪の染料は存在しない。国として禁止されている。不可侵の色だからだ。
銀色の髪――即ち、占宮に属する人間。
この国では占師が重宝される。特に、王族の専用占師を輩出した一族は家格が与えられ、占宮の派閥となる。そして、これまで名を残した占師に共通し、今以て信じられているのが、占師の髪の色だ。銀髪の子は力を持つ、と。貴族階級で銀髪の子が生まれれば、その家は安泰と言っていい。占宮内に一門を作れる。貴族以外では、子を占宮に差し出すことになるが、かわりに大金を手に入れることができるだろう。
髪の色など、アウセム自身は重視していない。しかし、キトリスで銀髪信仰めいたものが横行しているのは事実だ。そこにのみ価値はある。
異端でも、だ。
公には隠されているが、過去の歴史の中で、異端出身の銀髪の子供を、占宮が買い上げた事例は存在する。無論、彼らの素性も新しく作られている。占師になれるのは平民以上、とはよく言ったものだ。処刑された娼婦も、銀髪でさえあれば理由をつけ、占宮が救っていたろう。
だからこそ、奇妙だった。
占宮はそれだけ銀髪の占師を欲していると言える。特に、代々の国王の御代に数人はいた銀髪の占師が父の代では一人しかいない。
――正しくは、三人いたが、一人だけになった。
喉から手が出るほど欲しいはずだ。占宮に入ることは名誉だ、と通常のキトリス人は考える。しかも、占宮の事情も相まって、銀髪の人間を連れてきた人間には、破格の報償が約束されている。
差し出さないはずがない。
最初――アウセムが少女に接触したのは、彼女が占宮の人間だと思ったからだ。
先日、アウセムは声明を出している。
独自の方法で己の占師を選ぶと。
そこで占宮は、銀髪の娘を見つけ出し、裏街にあえて放り出しておいた――。
運命的な出会いを演出し、ことを思い通りに運ぼうと。
荒唐無稽な話だ。もし占宮が銀髪の娘を見つけたなら、もっと別の利用法で生かすはずだ。しかし……絶対にないとも言い切れない。
もっとも、接するうち、アウセムも考えを改めた。占宮の息はかかっていない。
まず、占いの方法。気を引くためであっても、十三の石を用いた、あんな古典の占術は占宮の人間は使わない。
次に石だ。これも違う。古典の占術を奇をてらって見せたのだとしても、少女が占宮の空気に浸った人間なら、そこいらに転がっていそうな自然石ではなく、宝石か――せめて入手の難しい高級石を使ったろう。
その後も、疑わしい点は見え隠れしたものの、アウセムが出した結論は、少女は白である、だった。
ただし――占宮の人間でないとすると、銀髪の娘が占宮に入るでもなく、それも裏街で暮らしていたということが解せない。しかも、本人はその色を隠そうとしていながら、銀髪であることの意味を理解していないようだった。そうなるよう、わざと教育した者がいるのか――環境のせいか。
もう一つ。
気にかかるのは、何故娘があんなことを言ったか? だ。
少女はアウセムにこう言った。
『あなたは、誰かに殺されます』
旅行列の前、占宮は、アウセムにこう宣告した。
『第一王子は、一月以内に命を落とす』
「あの娘のほうが、より正確だ」
黙り込んでしまったアウセムの反応をじっと待っていたドウルが、は? と声をあげる。
「どういう意味です?」
「俺の大嫌いな占いの話だ」
もし娘がこう言ったなら、もっと正確だったろう。
占宮が、キトリス国第一王子アウセム・バーゼルを殺す、と。
「殿下……。殿下に必要なのは、占宮に歩み寄って下さることなんです。今回のことだって、そりゃあ、内容は、良い気持ちはしなかったでしょう。ただ、それは占宮のせいじゃないんです。むしろ、占宮は殿下の命を救おうとしているんですよ? なのに、あんな声明を出してまで、専用占師を決めるのも延ばし延ばしに――」
「決める」
億劫そうに、アウセムは呟いた。
口をぽかんと開けて、ドウルが聞き返した。
「今、何と?」
「決める、と言ったんだ。近いうちに、専用占師を決める」
「そ、そうですか! 殿下もついに……! これで私も占宮に吉報を報告できます!」
「良かったな」
ひらひらとアウセムは手を振った。気持ちが籠もっているとは言い難い仕草だったが、ドウルは満面の笑みで頷く。
「はい! オルグ占師長もお喜びになるでしょう!」
だが、何かを思い出したのか、再びアウセムを見やる。
ただし、アウセムの目は見ない。ドウルしかり、王都の人間は大抵そうだ。キトリス人に染みついた嫌悪の意識がそうさせるのだろう。巧妙に、アウセムを直視することを避ける。
「そういえば……オルグ占師長から、殿下にお尋ねしておくようにと言われたのですが……殿下は、本日、どうして裏街などに? それでカール殿下やシャンティール占師も無事だったから良いようなものですが……」
「シェーンハンの刑場で、俺の命を狙った曲者が急遽処刑されると聞いた」
「それで見物を……ですか?」
少し非難の色が混じる問いかけに、顔色一つ変えず、アウセムは頷いた。
「そうだ」
言いながら、心配そうに自分を見上げている愛犬の頭を撫でる。言い終えた直後に、アウセムの口元に刻まれた自嘲の笑みは、ラーバスだけが目にした。
そう。見物だった。
見物しているしかできなかったのだ。濡れ衣を着せられた部下一人救えない、己の弱さを噛み締めるだけの。
ただそれだけの時間だった。
「実につまらない見世物だったとも」
ラーバスの頭から手を離したアウセムは、裏街のある位置へとその赤い瞳を向け、呟いた。