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 女将から皮袋に入れられた地代分の貨幣を受け取り、娼館「駒鳥屋」の裏口から外に出る。表口は客の為のものだ。


「ねえ、お嬢ちゃん」


 エーファの背中に、見送っていた女将から声が掛けられた。娼館を切り盛りする女主人は先月代替わりをしたばかりで、まだ三十代と若い。先代はエーファを名前で呼んでくれたが、今代は『お嬢ちゃん』と呼ぶ。彼女だけでなく、大抵の、『生きた人間』は、そうなのだ。皆、エーファの名前を知っているというのに。


 これは、おそらく、エーファが異端の中でも異端と排される父を持つことに端を発する、と気づいたのはいつ頃だったろう。父も、普段、ほとんど名前を呼ばれない。本当に幼い頃、エーファは父の名が『シッコウニン』だと信じていたほどだ。


「さっき、うちの子たちが……ゾフィーネの部屋のことなんだけど。ただでさえ、お嬢ちゃんのことを気味悪がってる子たちも多いんだから」

 女将の身体を、やせ細った女の霊が通り過ぎてゆく。自然、エーファの視線がそれを追う。その動きを見咎めた女将が微かに顔をしかめた。

「とにかく、そういうことだから」

 女将の表情で、失敗を悟る。こういうことが、よくある。つい、彼らに気を取られてしまう。少し肩を落としたエーファは皮袋を握りしめ、頭を下げた。


「はい。気をつけます。……失礼します」


 斜光の伸びる路地を走る。日は沈みかけていた。

 今ならわかるが――父の本来のそれである『仕事』のせいで、父はエーファに急な使いを頼んだのだろう。おそらく、今日の『仕事』は、領主か、それより上からの命令かで、急に決まったのだ。

 走りながら、いつもより身体が軽いことに気づく。占具を入れた皮袋を、家に置いてきたからだった。石が一つ欠けている状態では、占具として成り立たない。それに、昨日のようなことがあるのは、避けたかった。ただ、身に付けて持ち歩いているのが当然だったので、失った軽さが心許ない。

 赤い夕日が長い影を作る。エーファは充分に娼館から離れたところで石灰岩の外壁に手をつき、立ちどまった。


 呼吸を整える。

 顔を上げると、街の区切りがちょうど目に入った。


 一本の橋だ。エーファの住むシェーンハンという土地は国のちょうど中央、境にあり、地下に遺跡が眠っている。かつては繁栄していたが、遠い昔に大災害で滅びたという古都だ。大陸は、大災害以前と、以後で大きく姿を変えたという。エーファが占いの師から教わったことだ。


 現在のシェーンハンは立地の条件が良いことから、キトリス建国後に人々が移り住み、作られた街だ。その時に、遺跡も発見された。元々の古都は土石流に押し流され、泥の下に埋もれている。

 主にその上に作られ、形成されたのが新街のほう。埋もれていた古都を掘り起こし、再利用しているのが裏街のほうだ。だから裏街は新街に比べ低い位置にある。


 そして、新街と裏街を行き来するには、今エーファの視界にある橋を使うしかない。幅は大行列が行進できそうなほどあるが、長さはない。両端には衛兵が二人ずつ立つ。見晴らしがいいので衛兵たちの目をかいくぐることはできない。通ることができるのは許可を得た者だけだ。もちろんエーファは、橋を歩いたことすらない。

 新街も裏街もシェーンハンという冠は載せられているが、『外』の人間が、シェーンハンと口にする時、一般的に指し示しているのは新街のみだ。


 その橋を、珍しく人間が渡っていた。馬に乗った騎士や、帯剣した兵士らしき人物が数名、それから、馬車。いずれも裏街から、新街へと。


 父の『仕事』の関係だ、とすぐ思い至った。


 ポツリ、と冷たいものが頬に当たり、エーファは頭上にある空を見上げた。手のひらを上に向ける。そこにも、数滴、落ちた。丸く、赤い夕日は半分ほど地上に隠れている。晴れていたのに、空に残っていた夕日もいつの間にか現れた黒雲が覆い隠そうとしている。夕立だ。雨の勢いは瞬く間に増すだろう。

 貨幣の入った皮袋を胸に庇い、再び走り出す。


 ――雨は嫌いだ。


 すっかり失念していた。父の鐘が、シェーンハンというどちらの街にも平等に鳴り響いた後は、奇妙に天候が崩れる。エーファ自身は、それと天候との関連性はないと思うものの、そうは思わない人もいる。いや、思わない人間のほうが多いのか。

 おかげで、一応は若い娘の範疇に入るにも関わらず、遅くに一人で歩いていても、エーファの素性を知る大抵の裏街住民――たとえ気性の荒い人間が含まれていても――は、エーファに近づいて来ようとはしない。側を歩くこともしない。


 例外は――。


『死ーヌ! 死ヌシヌ! 知ーヌ! 死ヌ。死ヌ?』


 幽霊だ。


 エーファには、意図せずして『視える』ものがある。その一つめが、霊だ。

 自分を見て欲しい、見つけて欲しい、と思っている霊ならば、エーファには見える。霊自身が見られたくないと、姿を消している場合は別にして。

 そして、エーファの見る人の霊には、大きく分けて二種類あった。生前の姿を保っている人型と、それ以外だ。それ以外のほうになると、造形も不安定で、会話すらままならないものもある。裏街には前者のほうが多い。

 だからエーファは逆にこの塊のことを覚えていた。騒ぎが大好きな霊。口癖は物騒だが、無害だ。


「どうしたの?」


 立ちどまり、踊るようにして移動している黒い塊に、エーファは声を掛けた。雨が、塊を侵すことはない。

 塊が人なつっこく伸縮する。

『アー。エー、ファ、ダ』

「うん。こんにちは」

 小さく、エーファは微笑んだ。

「どこに行くの?」

 塊は今度はくるくると回った。そして、一方向に伸びる。


『アッチ』


 裏街の、まだ復興が中途半端なまま、放っておかれている場所だった。裏街では、自分たちが屑石で作った粗末な住まいより、整ったかつての都の建造物のほうが丈夫で好まれる。そのため採掘は今なお行われているが、崩落事故も多い。闇雲に侵入しては危険な場所だ。


『アッチ、血ノ臭イ』


 塊の示した方向を見ても、遠目では何かが起きているようには見えないが――。

 また、ポツリ、ポツリ、と雨がエーファの頬を濡らした。目を伏せる。

 ――雨は嫌いだった。父の仕事の後に降るのも、そう。だが一番の理由は、嫌なことを、思い出すからだ。


「……そこに、わたしを案内してくれる?」


 黒い半透明の塊は、不安定に上下に揺れた。

『エー、ファ。オ願イ?』

 エーファが頷くと、塊が更に振幅する。

『エー、ファ、来イ来イ』

「ありがとう」

 塊が、流れるように移動を再開する。エーファは、雨に濡れながら、その後を追った。未舗装の石畳に溜まり出した水たまりを踏み、たまに水が跳ね上がる。


 裏街、とは一口に言っても、地下方向は複雑に入り組み、穴が開けられたまま放置されている場所も珍しくない。塊に付いて進んだ先は、街のこの辺だろうと検討はつくものの、エーファも未踏の地だった。

 塊の行く道は狭い。地下に入ると、雨に濡れる心配はなくなったが、今度は石灰の白い粉が服に付着する。


 つい最近、堆積した泥が取り除かれ、姿を現した古都の東道路を進む。皮肉なことに、土石流の泥で沈んだ都は、同じ泥が壁となって浸食を免れ、そのままの姿で保存されていた。大災害以前に建てられたというのに、良質の石灰岩を利用した都は少し手入れをするだけで居住に足るものとなる。また、地下内だというのに、石灰石に何らかの技術をかつての人々は施していたのか、石の表面が輝き、明かりを持ち込まずとも視界はそう悪くない。


『居ル居ル。死ヌ死ヌ』


 微かに漂う血の臭いが、エーファの鼻を刺激した。

 狭い横道を抜け、大きな通路に出る。

 物音はせず、誰もいないように思えた。


「――――!」


 しかし、突き出た剣が、通路に降りたエーファの左頬を掠めた。パラリと、髪が落ちる。

 最初に見えたのは、血を吸った白刃。


 それから――。


 ……ああ。

 エーファは凍り付いた。


(どうして)




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