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シャンティールは、幸せそうに、あどけない微笑みを浮かべ眠っている。
けれど――。
エーファの顔が曇った。気になるのは、彼女の身体に残る痣だった。倒れたのも、そのせいだろうと、思う。一瞬見えて、気になった、彼女の肌に残る腫れ。
それは、見慣れた、とは言えない。言えないけれども、エーファが娼館で何度か目にしたことがあるもの。
――暴力の痕跡。
最初に「駒鳥屋」を訪れた時、エーファは単純に嬉しかった。そこがどういう場所なのかなど、もちろん理解していなかった。ただ、とても良い匂いのする場所だ、と思った。
化粧の匂い、香水の匂い。女たちは綺麗に着飾り、ふわりと裾の広がる色違いの服を着ている。
お母さんは、こんな匂いなんだろうか?
刑場にはない、華やかさ。
それでいて、どこかほの暗い。
『ひどい客もいるからね。商品なんだよね、あたしたちは』
教えてくれたのは、すぐにいなくなってしまった、娼婦の霊だった。頬の腫れたその霊は、客から受けた暴力がもとで、死んだのだという。その客は、金払いはよかったが、限度をよく読み間違えた。何人もそうして娼婦を殺したのだと。
『でも、お咎めなんか受けない。ああいう奴にとって、あたしらは人間じゃないんだ。壊れても替えのきく玩具。予想はしていたよ? いつまでたったって、なーんにも変わらない。こんなところ、大嫌いさ。――じゃあね。あたしは行くよ』
あまりにひどい客に関しては、「駒鳥屋」のほうも、手を打つようにしている。父のもとへ話がいくのだ。しかし、軽いものなら、彼女たちは巧みに隠してしまう。下手に騒ぎ立てるよりも、我慢したほうがいいからだ。お金だって稼ぐことができる。
エーファは視線を落とした。寝台では、シャンティールがすこやかな寝息を立てていた。目尻には涙の跡がある。それから、両手はしっかりとエーファの右手を掴まえていた。
閉め切った室内を燭台の明かりが照らしている。シャンティールの部屋は、たくさんの書棚があり、本で埋め尽くされていた。
毎夜、夜遅くまで勉強でもしているのだろうか。
武骨な机と椅子の一式が部屋の中で存在を主張している。本は、歴史や、言語、それから、占いに関するものだ。
扉の外には、付き人の女性が何人かと衛兵がいたが、中には、エーファとシャンティールしかいない。シャンティールが倒れてから、エーファもまた医師の治療を受け、一日を終えた。首には、薬草をすり込んだ塗り薬がまんべんなく塗られ、清潔な布が巻かれている。ともすれば、慎重すぎると思えるほどの処置だった。だが、それが、銀髪の占師、そしてアウセムの専用占師という、自分の立場なのだろう。
シャンティールの見舞いに訪れることができたのも、夜になってのことだ。
エーファがお見舞いに訪れた時、シャンティールは身体を縮め、寝台の中で震え、泣いていた。泣きながら、眠っていた。
――わからない。
もし、シャンティールに暴力を振るっている人間がいるのなら、何故放置されているのか。彼女は娼婦ではない。商品でもない。ここは占宮だ。シャンティールも、カールの専用占師だ。
それに、付き人だって、何人もいる。一人ぐらい、主の異変に気づくはずなのに。
今まで、エーファは、単純にこう思っていた。
王族や貴族、彼らに仕える占師は、何不自由ない生活を送っているのだと。裏街とはまったく違う生活。高級な、好きな色の服を着て、好きなものを食べて、したいことをする。虐げられるようなことはない。彼らが虐げる側だから。
(……違うのかな)
そうでなければ、少なくとも、シャンティールが一人で泣いているはずがない。
(……泣いて?)
占命式で、『視え』た光景の中に、泣いているシャンティールの姿があったような気がする。不鮮明で、はっきりとは思い出せないが、自分はこれを『視た』のだろうか。それとも、いつか、未来で、また一人、彼女は泣くのだろうか。
シャンティールの手から伝わってくるぬくもりは、とてもあたたかい。眠気が、忍び寄ってくる。本当は手を外して帰るべきなのに、瞼が重い。
(眠いから、かな)
なんだか、変だった。だから、こんな気持ちになるのかもしれない。生者には、一定の距離を置くようにしているのに。
その上に死を視たアウセムが例外なだけで、エーファ自身の姿勢は変わっていない。自分の手はあまりにも小さい。できることは限られている。相手に共感し、助けたいと思ってしまうような感情は、邪魔なだけだった。
だから、鈍くする。鈍感になる。外にも、内にも。投げつけられる言葉に鋭い棘が混じっていても、その威力はひどく弱まる。自衛にもなる。
父以外に、無防備に心を開けるのは、首無しとジルだけ。
ならば――シャンティールに感じるこの気持ちは何だろう?
彼女が何かを探して腕を彷徨わせていた時、どうして手を握ってしまったのだろう。立ち去らなかったのだろう。
何故わたしは今、懐かしいと感じているのだろう?
(懐かしい?)
変なの、と思った。シャンティールと出会ったのは、ごく最近のことなのに。
まともに思考が働いたのはそこまでだった。
いつしかエーファは寝台に頭を載せ、眠りに落ちていた。
でも、ほんの少しの間だけ。
そのはずだった。実際、熟睡できるはずなどなかったのだ。
占宮の、自分の部屋の寝台はふかふかなのに、エーファが朝までぐっすり眠れたことなどなかったからだ。必ず、小刻みに目が覚める。仕方なく、寝返りを打ったり、天井を眺めたりしながら瞼が落ちるのを待つ。眠る。でも、また目が覚める――。これを最低でも四、五回繰り返して、ようやく朝が来る。
(――起きなきゃ)
意識が浮上する。自分は起きたのだ、とエーファは認識した。
あまり長居していたら、付き人たちがさすがに様子を見に来ていたはずだから、時間はさほど過ぎていないのに違いない。目を開ける。もっと暗いはずの視界が、妙に明るい。頭を受けとめてくれていたシャンティールの寝台からそっと身を起こす。握られていた手は、今はただ上に重ねられているだけになっている。
そして、心臓がとまるかと思うほど、驚いた。
部屋の中に、見知らぬ女性が一人、立っていた。
霊ではない。ちゃんと、実体がある。無言で、たたずんでいる。どこから入り込んだのか。風の感触を感じた。窓を覆い、降ろされていた幕がふわりと捲れた。そこから朝日が差し込む。
――明るいはずだ。エーファは熟睡してしまっていたのだ。
彼女は、何歳なのだろう。若くも、年老いているようにも見えた。腰まで届く長い銀の髪を持つ、女性だった。いつからここにいたのか、焦点の定まらない目で、こちらをぼんやりと眺めている。衣装は、白と赤の二色づかいだった。
銀の髪。赤を含む服。
(専用、占師?)
「……王の、占師?」
直感的に思ったことを呟く。すると、女性が反応を見せた。
「あの子は、どこ?」
返されたのは、問い。問いを投げ――ずっと、こちらを眺めていたのは同じだが、何をも見ていなかった彼女は、ふいに、エーファを認識した。
「まあ!」
生気を欠いていた顔が、ぱっと輝いた。
「まあ、こんなところにいたのね。やっと見つけた! ひどいわ。毎日毎日、捜していたのよ」
エーファの背後で、シャンティールが頭を振り、寝台から身体を起こした。
「――お母様?」
胸の前で両手を合わせ、十代の少女のように顔を綻ばせていた女性の顔が、シャンティールの呼びかけに曇った。
「またいらしたの? ここに来ては――抜け出してはいけないと言ったでしょう? お父様に見つかったら……」
シャンティールは、自分の寝台の真横にいるエーファに気づき、大きく瞳を見開いた。戸惑ったように、瞬きした。
「あなた……」
だがすぐに、シャンティールの注意は女性に戻った。
「あの子はどこ? オルグが隠してしまったの」
女性の瞳が、再び焦点を失った。落ち着きなく、室内を歩き出す。シャンティールは優しく、その肩に触れ、幼子に言い聞かせるかのように、語りかけた。
「わたしはここよ。ほら。ね? お母様。帰りましょう?」
「……帰るの?」
「ええ。お父様やみんなに叱られるわ」
女性が、大人しくなった。シャンティールに手を引かれるまま歩いている。シャンティールは女性の頭に、衣装箱から薄布を取り出すと、手早く被せた。険しい顔でエーファを振り返る。
「あなた……エーファ。このことは誰にも……いいえ」
思い直したのか、唇を噛んで、シャンティールはこう続けた。
この人を見たのだから、もう手遅れね。あなたも手伝って。
そのかわり、わたしもあなたを助けてあげるわ。




