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「それで、石が割れたから、謝って逃げてきたって? 弁償させるべきだろ? あたしがその場にいたら、そいつ、ぶん殴ってやったのに!」
「でも、占具が壊れるのは、わたしが未熟な証でしょう? 現にわたしはジルレアほどの腕じゃないし……」
それに、自分は正規の占師ではないのだ。
「いいや! 絶対客が怪しい! それに、それとこれとは話が別だよ!」
化粧台の前に座ったゾフィーネが怒りで頬を紅潮させた。彼女の波打つような黄金の髪を梳かしていたエーファは微笑んだ。言葉は物騒だが、その気持ちが嬉しかった。
叫んで少し気がすんだのか、ゾフィーネは、今度は責める調子で続ける。
「そういう時こそあいつだろうに。あいつ、どこほっつき歩いてたんだい? いつもエーファにくっついてるじゃないか。あいつをその客にとり付かせて呪ってやればよかったのに」
「あの馬鹿って……首無しのこと?」
問いかけながら、エーファは丁寧な仕草でゾフィーネの髪を梳いた。木櫛が黄金に埋もれ、突き抜けないよう、優しく。
「そうそう、そいつ! あの怖い奴!」
「……首無しは別に怖くない、と思う」
嘆かわしい、という風にゾフィーネは額に手を置いた。
「あのねえ、あんた、エーファ。首が無いってこと自体、怖いだろ?」
「でも……首が無いから首無しだし」
「んー。あたしがまだ新参者だからかねえ、あいつってさあ、なんか……まあ、ジル嬢ちゃんよりはとっつきやすいし、顔があったら、たぶんイイ男だとは思うんだけど。ああ違う。話が逸れた。腹の立つ客のことだった。だいたいね、バスハ人なんて奴は――」
乱暴に、扉が開かれた。ゾフィーネの言葉が途切れる。
戸口で、着飾った少女たちが、拍子抜けしたように顔を見合わせた。その内の一人、褪せた金髪の少女が遠慮なく室内に入ってくる。少女が施している濃い化粧の匂いが香る。気後れして、一歩、エーファは後ろに下がった。
「またあんた? 女将さんや姐さんに注意されたんでしょ? ……懲りないわねえ」
入り口近くで待っていた残りの二人の少女を彼女は振り返った。
「あんたたちも、何ビクついてんのよ。居るのはこの子だけよ」
「でも……この部屋。十日前に死んだ人の専用部屋だったって。嫌よ、入るの」
「死んだ人間が何をするっていうの。誰もいなくなった部屋で、しょっちゅう一人で話してるこの子のほうがよっぽど不気味だわ」
ふん、と鼻を鳴らし、金髪の少女はエーファの脇を通り過ぎ、化粧台に腰掛けた。
「あ……」
そこには。
エーファが声をあげると、胡乱な目つきで、少女が振り返った。
「何よ」
言われ、かぶりを振る。
「いくら店一番の美人で売れっ子だったからって、こんな風に、部屋を使わないで残しておくなんて、宝の持ち腐れじゃない。それも、嫌われてた人のためになんて。美人だったけど、我が儘で高慢ちきで、鼻持ちならない人だったって。ゾフィーネ姐さん、だっけ? あなた、その人に辛く当たられていたとも聞いたわよ?」
少女は、ゆっくりとその言葉を発した。
「――穢れが移る、って」
エーファの、身が竦んだ。
穢れ。
こうして、誰かに面と向かって言われたのは、久しぶりだった。
「もしかして、あんた、この部屋でいつも、ゾフィーネ姐さんを呪いでもしてる? ありそうよね。生きてる間は反撃できなかったからって……。――! 何よ、これ!」
少女が胸に腕を寄せ、慌てて立ち上がる。化粧台の鏡に、不自然な亀裂が入っていた。入り口近くの少女二人が、か細い悲鳴を上げた。二人がその場から駆け去る足音が響く。
だが、金髪の少女だけは、態度が異なっていた。悲鳴をあげたまでは同じだったが、顔に浮かんでいるのは恐怖だけではない。亀裂の入った鏡から、寝台へと視線を移し、唇を噛んだ。
「あんたは……」
それから、顔を上げ、何か言いかけたが、続きを口にすることはなく、商売着の裾をたくし上げて走り去ってしまった。
残されたのは、彼女たちが訪れる前と同様の、エーファと――ずっと、化粧台に座り続けていた、ゾフィーネだ。木櫛を持ち、彼女に近寄ろうとしたエーファを、当のゾフィーネがとめた。
『せっかく、二人で楽しく話してたのにさ』
……ゾフィーネの身体は、半透明だ。薄く白い指先が、亀裂の入った化粧台の鏡に触れ――突き抜ける。その声も、エーファ以外には聞こえない。
彼女は、生者ではないからだ。
『あーあ。お気に入りの鏡だったんだよ。まあ、生前はどうだったか知らないけど、今のあたしの、ね。まさか自分で割っちまうなんてね』
「……ごめんなさい、ゾフィーネ」
苦笑を滲ませ、音もなく、ゾフィーネがエーファの前に現れた。エーファは先ほどとは違い、下がることはせず、無防備に背の高いゾフィーネを見上げている。ゾフィーネの苦笑が深くなった。
『あんたが謝ることなんてひとつもないだろ? それより、生きてた頃のあたしってさ……』
「ゾフィーネ?」
『いや、何でもないよ。――あんたはあたしが見える。あたしが話しかけるもんだから、あんたはそれに付き合ってやってる。そのせいで、あの小娘たちに嫌味を言われた。単純明快だろ? 腹を立てたあたしが悪いんだよ』
ゾフィーネの口から、ため息が漏れる。
『あたしのほうこそ謝らなきゃだ。あんたがこの娼館におつかいに来ると、自分が死人だってことを忘れて、つい話しかけちまう』
「わたしは、嬉しいよ」
呆れたように、ゾフィーネが笑った。
『あたしに話しかけられてかい?』
「うん」
『……ありがとう。でもね、あたしにばっかり構ってないで――』
エーファがはっとして窓の外を見たのに気づき、ゾフィーネが言葉を半ばで切った。ややあってから、呟く。
『このところ、鐘の鳴る日が多いね』
鐘の音が、閉じられた窓の向こうから重い余韻を漂わせ、街中に鳴り響いている。この鐘の音は、刑場から届けられるものだ。
エーファの父が鳴らしている、鎮魂の音だ。多い時は月に数度、音を奏でる。
ゾフィーネが小さく息を吐いた。
『エーファ、そろそろ帰りな。親父さんに言われて、地代の回収に来たんだろ?』
「……うん」
窓の外に視線を残したまま、エーファは頷いた。
『短い付き合いのあたしにも、あんたの不満は想像つくけどさ、親父さんは、あんたのためを思ってるんだよ、きっと』
「それは……」
反論しかけ、結局、エーファは何も言わなかった。ゾフィーネに言うべきことではないのだ。
言う相手が違う。
――キトリスでは、ほとんどの職業が身分で厳密に固定されている。階級以上の職業に就くことはできない。幾つかの例外があるだけだ。大抵、子は親の職業を受け継ぐ。物心ついた時から、手取り足取り仕込まれるのが普通だ。
エーファの父、フランツの子は、女子である自分一人だけだ。それなのに、フランツはエーファに受け継ぐべき仕事について、何も教えてくれない。生まれたての幼子などではない。エーファはもう、知っている。父がどんな仕事をしているのか。なのに、どうして隠そうとするのだろう。触れさせまいとするのだろう。
『――これはあたしの個人的な意見だけどね。あんたは親父さんの職業を受け継ぐより、占師になるのが向いてるよ。いい師匠もいるじゃないか』
エーファは首を振った。横に。
「……占師は、わたしの身分では」
なれない。どうあがいても無理なことだ。
所詮、エーファは占師の真似事をしているだけだ。
昨日、朽ち色の青年は、エーファが無認可の占師だとは知らなかった。いや、バスハ人の血を引いているからこそか、特に追求しては来なかったが。
けれど、ならば、何故占いなど求めたのだろう?
通常、キトリス人ならば、自分を占う相手が正規の占師かどうか、必ず確かめる。
何故なら、キトリスで占師として働くには、国が規定する試験を受けなければならない。他の職業に比べれば、門戸は広いと言える。親が占師でなくとも、能力があり、試験を通れば占師になれる。しかしそれでも――試験を受けるには一定以上の身分が必要だ。
一定以上――平民以上。その垣根はエーファや一部の人間にとっては、とても高い。
こうも言い換えられるだろう。
異端でないこと。
正直、異端というものが何なのか、エーファにはよくわからない。ただ、そうである、という枠組みの中で生きていて、漠然と感じているだけだ。単純には、裏街に住んでいるから、異端だ、と言えるのかもしれない。
エーファは占師としての知識は持つ。その真似事もできる。限られた狭い狭い異端の中でこそ、同種意識から、無認可の占師も、ここでは受け入れられる。
占師の需要は高いし、当たるならなおさらだ。エーファ程度でも重宝される。ある種のなれ合い意識だ。異端の中でも区別されがちなエーファの生まれも、占師の真似事ができるという点を踏まえ、あえて触れない者もいるほどだ。
とはいえ、一歩、『外』へ出て同じことをすればすぐに告発されてしまうだろう。
異端の中には、本来、占師は存在しない。正規の占師は、異端の者を占うことはない。
ここで占師としてのエーファが許容されるのは、高い需要と絶対的に足りない供給の結果なのだ。だから、普通の世界において、エーファが占師として生きることは、不可能だ。
でもエーファは、占いが好きだった。方法を学んで、石の並びから未来を読み解き、相手に伝える。そうしている時は――自分の力で、立っている気がする。
『そうか。あんたはまだ知らないんだね』
「…………?」
『今ね。占宮の託宣で、王子が二人、国王快癒の旅行列をさせられてるだろ? 決まるまで揉めに揉めたとかいう……。とにかく、両王子がここ、シェーンハンにも来るんだよ』
「……そうなの?」
一応、エーファも自国キトリスの現国王が長く病に伏していることと、息子が二人いることは知っている。だが、王子たちの名前までは知らないし、旅行列の話も初耳だった。
もっとも、それで特に不便はない。実際、彼らの名前など知る必要もないのだ。エーファと王族の人生が交錯することなどないだろうから。
ゾフィーネが腰に両手を当て、生前は黒き薔薇の如しと謳われた美貌を、この話題にもたいして興味のなさそうなエーファに近づけた。
『そうなんだよ! ウチの娼館だって、裏街とはいえ地方貴族が密かに使う店だ。ほら、死んでるおかげであたし、どこでも見放題だからね。まあ、それはともかく、もしかしたら王都からの客が来るかもしれないって皆張り切ってんのさ。さっき来たクソ生意気な三人組の小娘どももそう。上手くいけば身請け組だって出るかもしれない。……あのねえ、エーファ。死人のあたしより情報に疎いって、どういうことだい? この噂で裏街ももちきりじゃないか』
「ご、ごめんなさい」
とりあえずゾフィーネの勢いに押され、エーファは謝った。こういう時のゾフィーネには言い返さないほうがいい。彼女の霊と話すようになった、この七日の間に学んだことだ。
しかし、情報とは言っても、自分が普段からよく話すのはそもそも幽霊たちだし、生身の人間でよく接するのは父や、父の仕事仲間だが――こちらとは話しても話題がとても少ないので話がすぐに終わってしまう。
それに父とは、最近、折り合いが悪い。
他には、娼館の娼婦たちもいるが、せいぜい一部と挨拶や世間話を交わす程度だ。請われ、占師として接する時は、彼女たち自身の話題に集中するので他愛ない雑談など望むべくもない。
たじろぐエーファをじっと見つめ、はあ、とゾフィーネはため息をついた。
『良いよ、良い。よーく、わかった。あんたには教育が必要だってことが。あんたに話しかけるのはこれから自重しよう、なーんて、ちょっとばかり思ってたんだけどね、やめだやめ! まずあたしが人間同士の付き合いってもんをあんたに教え込むようにするよ。返事は!』
「は、はい?」
『なんで疑問系なんだい』
「はいっ」
エーファの返事を聞いたゾフィーネが満面の笑みを浮かべる。
『よろしい。まず、情報を提供しようじゃないか。王子の片方はね、まだ専用占師を持っていないらしい。その王子がね、専用占師を市井から登用するって言っているんだってさ。しかも、従来とは違い、身分を問わない。占宮を通さないで自分で選ぶってね。特例だよ。――身分は問わない。ここが重要だ。どうだい?』
――つまり、エーファ、あんたにだって望みはあるってことだよ。王子の占師になれる、さ。