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翌日から、シェーンハン占宮での生活が始まった。
エーファに与えられた部屋は、物語の姫君のそれなのかと思うほど広く、心地よい空間に仕上がっていた。
占宮という場所は、陽光がふんだんに入るよう設計されているらしい。日中は太陽の光がさんさんと降り注ぎ――しかしすぐ向こうには専用占師のためだけの中庭が設置され、水が引いてあり、涼しい。窓を開ければ花の香りをのせた風が緩やかに髪を揺らす。
夜は夜で、月明かりが室内を柔らかく照らし出す。それを眩しいと思えば窓を閉じ、上げ下げできるようになっている豪奢な毛織物の布を下ろせばいいし、暗いと思えば、日が沈むと部屋に届けられている銀器の燭台や、洋燈をつければよかった。
寝台は天蓋付きで、手で押せばすぐ押し返してくるほど柔らかく、掛布もすべすべしている。初日、エーファはどうしても慣れなくて、こっそり床で寝たほどだ。
内装も素晴らしい。大理石を使用した柱。壁の低い部分は美しい薄紅色で装飾が施されている。天井には石をはめ込んで作った夜空が描かれている。
衣装箱には、エーファのために用意されたという服が、普段着だけでも何十着と用意してある。装身具なども同様だ。しかも、足りないものがあれば用立てるという。
専用占師には、最低二人から、占宮が指名した付き人が仕えることになる。
エーファについたのは、二十代前半ほどの女性と、同年代の少女だった。ただ、二人というのは極端に少なく、これもアウセムが急に専用占師を決めた弊害らしかった。
アウセムたちの旅行列は、国王の快癒祈願を願ってのことだ。祈願の儀式はシェーンハンで行われるらしいのだが、同行してきた占師たちの数は限られている。これが王都であったら、三十人以上の占師がエーファにも仕えていたはずだという。二人でも多すぎると思っているエーファには、とんでもない数だった。
人を使うという立場は――とても、難しい。
占宮での九日目となった今、それをエーファは実感していた。
ふう、と息を吐いて、水に肩まで浸かった。両手で水をすくってみる。微かに、手は震えていた。
水は、怖い。だが、自分が浸かっているこの水は、流れていない。足がつかないほど、深くもない。
言い聞かせる。
震えが、とまった。水の中に、手を落とす。
――と、何かに激突しているようにしか思えない音が、沐浴場に響いた。
『憎々しいわ。この壁!』
半透明の少女――頭を抑えたジルレアが、腰の辺りまで出した身体をひねって、沐浴場の壁を睨みつけている。
『ジル様、下手。死ヌ死ヌ?』
ジルレアとは違い、するりと壁をすり抜けた黒い塊が、楽しげに収縮する。その様を見たジルレアはむっと唇を尖らせた。
『霊だから、どこでも通り抜けできるっていうのは偏見よ。壁抜けは、才能がいるのよ』
『ジル様、才能、ナイ?』
『……ちょっと、こっちに来なさい』
しかし、塊はジルレアから逃げた。沐浴場の水につかると、泳いでいるつもりなのか、水面を移動し始める。三回に二回ぐらい、ジルレアは捕まえるまでこの黒い塊の雑霊を追いかけ回すのだが、今日は壁から抜け出し、腰に両手を当てただけだった。
大きく息を吐いて、エーファのいる左上近辺の宙にふわふわと浮かぶ。
『年増のほうは、今日もシャンティールにご報告ね。ちっちゃいほうは、外でエーファを待ってるわよ。でも年増とちっちゃいのだったら年増のほうがわたしは好きかしら。あ、厨房も覗いてきたんだけど、今日は花びらで色づけした小麦の香ばしそうな麺麭と肉汁と香辛料で味付けした玉葱と空豆の煮込み、砂糖をたっぷりまぶした焼き菓子、果物色とりどり……まだ他にもありそうだったわ』
「そんなに」
それだけでお腹一杯になった気がして、エーファは水の中から胃をおさえた。食事は、日に二回だ。日が最も高く昇る直前と、沈む頃。付き人である二人、給仕、毒味役も加わって、エーファ一人のためだけに毎回、食事が並べられる。
どれも美味しいし、他国から輸入するしか手に入れる手段がない香辛料を贅沢に使った料理も惜しげもなく出てくる。だが、毎回変わる毒味役の人物は、ほんの少ししか食べないし、どんなに頑張っても、エーファ一人で完食できる量ではない。
『あら。専用占師なんだもの。せっかくだから満喫すればいいのよ』
ジルレアは気楽に言う。
『贅沢は、権力とかお金とか、それなりの身分がなければできないのよ? いい機会じゃない。それにね、事情は聞いたけど、仮にも第一王子の専用占師なら――』
宙で、ジルレアが何かの仕草をとった。左手だけを腰にあて、どうやら、右手には扇のようなものを持っている真似らしい。黒い塊に指示し、床に移動させた。そして、何と、踏みつけてしまった。
『私を一体誰だと思っているの? 銀髪の占師さまよ。ひれ伏しなさい!』
『ジル様、モット、踏ム。楽シイ』
ジルレアは傲岸不遜に言い放ったが、踏まれたほうは、気に入ったようだ。というか、たぶん遊びだと思っている。いいのだろうか。
『――ぐらいはしないと箔がつかないわよ?』
「……そうなのかな」
エーファは息を吐き出した。ジルレアの言いたいことは、わかるのだ。
『まあ、ここまでしろとは言わないけど、専用占師なのに卑屈すぎる態度をとっているのは問題ね。謙虚だととられているうちはいいけど、過ぎると舐められるようになるわよ。少しは我が儘を言ったり、偉そうにしなさい。わたしや首無しには、我が儘、言ったりできるでしょ?』
我が儘。それが、中々難しい。しかし、エーファは頷いた。
「……努力、してみる」
それから、我が儘、とは違うかもしれないが、ある問いを口にしてみることにした。気になっていること。
「――ねえ、ジル」
『なあに?』
「首無しは、大丈夫なのかな?」
九日もの間、姿を見ていない。こんなにも長期間、会わないのは、これまでなかった。
『ああ。あの役立たず?』
笑顔でジルレアが言った。
『どこぞに雲隠れしやがった首の無い役立たずが、なあに? 気配はあるし、跡形もなくこの世から消滅したってわけでもないはずだから、そのうち現れると思うけど。あんなの、気にする必要ないわよ』
それに、とエーファと同じ銀色の髪を持つ少女の霊は続けた。
『エーファが呼べば、来るんじゃないのかしら。あいつは、そういう霊でしょ。エーファに嫌われたら、もう死んでるけど、地の底まで沈んでまた死にそう。……見てみたいわね』
――呼べば。
自分でも、考えたことだ。
少し考えた後、エーファはかぶりを振った。
「呼ぶんじゃなくて――自分で、捜してみる」
『そう? なら、そうすればいいと思うわ』
「うん。ありがとう、ジル。聞いてくれて。それから――来てくれて」
それは、ずっと言いそびれていたことたった。ジルレアは刑場に戻らないエーファを心配して、わざわざカルクレート城内にある、この占宮まで来てくれたのだ。黒い塊も一緒で、ジルレアのことを「ジル様」と呼ぶようになっているし、驚いたが。
以来、ことあるごとに、様子を見にきてくれる。
アウセムのことや、一月だけの専用占師となったこと。
……『視え』たことについてだけは言えていないが、心強い相談相手だった。
特に、占宮という場所においては。
気の置けないジルレアという存在は、助けになっていた。
黒い塊が、沐浴場の水に再び飛び込んだ。
『エーファ、泳ガナイ?』
問いかけられて、エーファは首を振った。
『これはねえ、神聖な儀式なのよ。……エーファはそろそろ慣れた?』
「……初日よりは」
占宮に所属する占師は、男女の区別無く、日の始まりに必ず身を清める。そのために占宮には沐浴場がある。占宮内には序列があり、普通の占師は沐浴も集団でだ。
ただし、王の占師を筆頭に、高い地位にいる占師には、専用の沐浴場が充てられる。
泳げそうなほど広い。
入る時は、そこにたった一人だ。
占いを円滑に行うために、身体を清める。そうすることで、より自然に同化し、自らを占具に近づけるのだ。専用占師という立場への配慮だった。最高の環境が与えられる。
だが、いかんせん、大量の水自体が、エーファの苦手なものだった。腹の底に、雨の日の恐怖の残滓が浮き上がってくる気がする。
毎日、毎日、沐浴場で水と向き合って――何かが、掴めそうなのに、掴めない。
「エーファ様ー! そろそろ、お時間です!」
占宮内では、常に側に人がいる。ジルレアと話せる時間帯や場所も限られていた。だから、つい本来の目的を忘れて、沐浴場に長居をしてしまう。自分でも信じられないことだった。恐怖の対象であった水を――川を、連想させる場所なのに。
「今、行きます!」
声を張り上げて返事をし、きらきらと光る水の中からエーファは立ち上がった。水は、地下から湧き出ている。無色透明な沐浴場の水は、下に敷かれている石で反射し、青い。
『わたしはその辺を偵察してくるわ。ほら、あんたも! ったく。毎日あんたも飽きないわねえ』
『水、好キ』
まだ泳いでいた黒い塊を捕まえ、腕に抱き、ジルレアが壁へ向かう。
と、また激突音が響いた。壁にぶつかったジルレアが、額を押さえている。黒い塊だけが、一足先に音もなく壁の向こうへ消えた。
『……すごく、納得いかないわ』
くすり、とエーファは笑い声を漏らした。ジルレアがじろりと振り返り、目の前にやって来たので、口元を手で押さえた。
怒った形相の顔がどんどん近づいてきて――コツンと、額と額が当たった。
そこだけ感触がある。
『壁抜け失敗は、こういう利点もあるのよ? わかったかしら。エーファが子供の頃、よくやったわね』
「……うん。そうだね」
懐かしい。どうしてジルたちには触れないの? と訊ねたエーファに、ある日、これならどう? 壁抜け失敗の応用よと、ジルレアが自信満々に試してきた方法だ。
『――あのね、エーファが呼べば、わたしも来てあげるわよ。覚えておいて』
だから、遠慮しないで呼びなさい。
優しい微笑みだった。年下の少女にしか見えないのに――まるで、母が我が子に向けるような。姉が、妹に向けるような。深い親愛のこもった微笑み。
『それに、あの役立たずじゃなくて、わたしのほうが呼ばれたら、すっごく気分が良いものね。わたしが一番。役立たずは二番以下。役立たずは臍をかんで悔しがるのよ』
咳払いして、意地の悪い笑みを浮かべる。だが――こういう時のジルレアは、照れている。首無しと喧嘩している時こそ、対抗するように抱きついてきたり、子供っぽい言動をしてくるけれど、本当の彼女は、真面目で、思慮深いのだとエーファは思う。
エイルの時のように、自分が『視た』ことだって、とっくにジルレアは気づいているのかもしれない。だからこそ、こんなところまできてくれるのかもしれない。
「エーファ様っ?」
焦りと不安を孕んだ声が、外からエーファを呼ぶ。
『じゃあ、今度こそ行くわ』
しかし数秒後、三度目の激突音が響いた。
「エーファ様っ? どうなさったのですかっ?」




