5
軽率だったろうか。帰ることは、簡単だった。だが、こうして今、第一王子であるアウセムと接点ができているのは、偶然が重なっていただけだ。
あそこで帰れば、アウセムに会う機会はもう、ない。
それは――せめて、彼の未来を見届けたいと。
どうにかしたいと思った自分の心に背を向けることになる。
だからエーファは、四つ角を真っ直ぐ進むことにした。気のせいだろうか。女性は残念そうに見えたけれど。
まるで誰かに、エーファを重ねていたかのように。
占宮に入ると、またがらりと様相が変化した。壁の模様一つとっても、華麗な装飾や至る所に見られる。女性が、ある大きな両扉を前に、立ち止まった。
黄金色の、扉。
「中で、ガルシャス殿下にいらっしゃいます」
促され、両扉に手をつく。重くはない。
開けると、強い香の匂いが鼻を刺激した。
「振り返らずに」
背後からかかった声に、頷くことで、了承を伝える。
――この先は、エーファ一人で進むようだ。
外から室内に差し込む陽光に、微かに色がついている。天井近くの硝子装飾のせいだった。天井自体には黄金色の文様と石で空――天体図が描かれている。
部屋自体は広くはないが、天井が高い。
階段とも呼べない細かな段差の先に、祭壇が厳かに置かれ、目の覚めるような赤い衣を纏った男性が一人、立っている。
エーファが部屋に入ったときから、強い視線を男性は向けてきていた。
父と同じくらい……それよりも若いだろうか? 穏やかな貫禄がある。
一歩一歩、進む。立ちこめる香の匂いが強くなる。
男性から数歩分下がった場所には、アウセムがいた。
王族とひと目でわかる装いだった。黒色だが光沢を放つ絹の布地に、腕と胸元に金と緋色の装飾が施されている衣服を着用している。こんなことを思うのは王子らしくない一面をこそ、エーファが見てきたせいだろう。
アウセムが、身体の向きを変え、朽ち色の瞳がエーファを捉えた。
見ることに慣れ始めた、黒を帯びた赤い瞳。
柔らかな香りが、鼻孔をくすぐる。
部屋に入った瞬間から、漂い続けている香り。
一歩。また一歩、と進む。香りも、強くなる。
何なのだろう。香りに慣れるほどに、強制的に開かされてゆく心地がした。
――開かされる。普段は閉じているもの。閉じ続けてきたもの。『視る』力。
身体に微かな震えが走る。それでいて、頭の奥が、しんと冷えていた。
――来る。
『視え』る。
これで、『視る』のは、三度目の。
アウセムの、死に関連するもの。
より、生々しく、強く。
血だまりの中に倒れた体躯。見開かれたままの、朽ち色。決定的な、場面。
第一王子の、死の像。
部屋の内装は、ついさっき、エーファが出てきたばかりの場所。犬だけが温かさを感じさせていた、殺風景な、あの部屋。
吐き気が、込み上げて来る。胸元に手をやった。視界から、振り払おうとする。錯覚だろうか。香りの中に、血のそれが漂ってくる気がした。
なのに、像は消えない。もう、見ていたくはない。
でも……どこか、違和感がありはしないか?
冷えた思考が、問いかけてくる。どこに?
わたしは、何に違和感を覚えたのか。きちんと、像を読み解けているのか。
だが、そこまでだった。
アウセムの死の像は失せ、かわりに、場面の断片が、最初は、ゆっくりと、やがて洪水のように、押し寄せる。
判別できたのは、断片の出現がゆっくりだった、最初の二つほどでしかない。
祭壇の前にいる男性が、誰かと話している像。でも、あまりにも、違う。表情が、雰囲気が。彼を突き動かしているのは、激しい憎悪だ。
これは、本当に?
涙を零しているシャンティール。これは、いつの?
像は巡る。次々に現れる。紅、刃、戦場、死体、水、雨、戴冠、民衆――。不吉なもの、喜ばしいもの。時系列も何もかも、混沌としている。
やめて、やめて、やめて――! とまれ!
声にならない悲鳴をエーファはあげていた。
像が、巡る。逆に、回り出す。
人の顔が、街が――若返る。
水に濡れた少女がいた。やせっぽちの、小柄な身体。染めた黒髪。
――わたし?
あの雨の日の、自分。
『……エーファ』
呼ばれた。
透き通った身体が、幼い自分を抱きしめた。
――首無し?
けれど、その霊には、顔がある。金色の髪に、青の瞳。雰囲気すら、エーファが慣れ親しむ霊とは異なっていた。雄々しく、堂々とした――なのに、その表情は哀しみで満ちている。首無しが口を開いた。何かを、自分に――。
『――すまない』
どうして謝るの? 首無し。
ぐい、と腕を掴まれ、エーファは現実に引き戻された。
その瞬間、繋がっていた何かが、途切れた。強制的に開かれていたものが、閉じる。
『視え』た時、その時間は、いつも長く感じる。だが、実際は、数秒か数十秒だ。
近距離に、朽ち色がある。
感じたのは、安堵だった。
彼は、生きている。『視え』たあれは、まだ起こっていない。
「よく来た」
小声でアウセムが囁く。
「安心しろ。すぐ済む」
何が、すぐ済むのか、わからないまま、エーファは頷く。『視る』ことからは解放されたが、酔っているような気分だった。香りが、強すぎる。
「こちらへ、おいでなさい」
穏やかで、聞く者を落ち着かせてくれる――そんな声が、かけられた。見ると、男性の、エーファに向けられる視線は、強かったが、包み込むように優しい。
案内してくれたあの女性が、向けてきたものと、どこか似ていた。だが、あれよりも明確だ。とても、懐かしいものを見る、眼差し。
その姿に、『視え』たものが重なって、心の中で、首を振った。果たして、この人が、暗い念に取り憑かれた悪鬼のような表情を、することなどあるのだろうか。
――わからない。
アウセムに手を引かれ、男性の前に立つ。見守る男性が目を細めた。
「美しい銀の御髪だ。殿下は、よくぞ見つけられた。まさに奇跡と申せましょう」
その視線が、エーファからアウセムへ移った。
声が、糾弾の響きを宿す。
「しかし、殿下。聞くに、彼女は執行人の娘とか」
エーファの心の奥に、ちくりと言葉が突き刺さる。
「それが? 彼女の身分がどうしたというのです?」
「殿下。あなた様は我がキトリス国の第一王子。下々の者との区切りは、必要だからこそ存在するのです」
「私は、それを廃して、己の占師を選ぶと宣言したはず」
「なれば、占宮内から選ぶのが筋」
アウセムが鼻で笑った。
「銀髪の娘が他の誰でもない、私の前に現れたのです。あまつさえ、娘は私の命を救った。銀髪の娘――比類なき、生まれながらの占師と証される存在が、です。証人も大勢いる。民こそが証言するでしょう。銀髪の占師が、王子に降りかからんとする危機を取り去った、と。これほど我が占師としてふさわしい人間もいない。身分が何の障害となりましょう? こと、占師に関しては――例外が許されてきたのが占宮ではありませんか」
銀色の、髪。
香りへの酔いが、覚めた。
思いがけず、自分の髪の色に関する疑問への答えが、エーファにあっさりと差し出されていた。
父は、エーファに、占師の色、とだけ言った。
ただの、占師の色ではなかったのだ。
髪を露にすることで集まる注目。
銀色の髪は、生まれながらの占師である証。
そう、だったのか。気が抜けた。
嬉しくなどない。次に湧き上がってきたのは、苦さだった。
(そんなことで)
死刑執行人の娘という立場により、エーファは周囲から忌避されていた。
だが、髪の色一つで、それも覆されてしまうのか。
ドウルという青年がそうだったように、敬意すら、抱く。
死刑執行人の娘である自分。銀髪を持つ娘である自分。
他者から、向けられる感情は違えども、どちらも性質は同じ。
……どちらも、エーファという人間ではなく、記号を見られているに過ぎない。
記号が、良い意味を持つか、悪い意味を持つか、それだけの違いだ。
生まれながらの占師などというぐらいだ。銀髪の占師というのは、優秀なものとして捉えてられているのだろう。それこそ、ネール戦争中に活躍した王の占師、アレーラのように。だが、そのアレーラはアウセムに刃を向けたという。
つと、彼女がどうなったのか、聞きそびれたことを思い出す。だが、聞くまでもないことにすぐ気づいた。王族への反逆は、死罪のはず。まさか、生きてはいないだろう。
アレーラの凶行は、国民には伏せられている。少なくとも、裏街では知られてはいなかった。もし、処刑されていたとしても、そのことも伏せられているに決まっている。
――銀髪だから、なんて。
たとえば、歴史の中で、銀髪の人間に、優秀な占師が多かったとして。
だからといって、銀髪だから優秀などと、あるはずがない、とエーファは思った。
自分が生まれながらの占師なら、ジルレアの言うことをもっと理解できていたはずだ。この『視る』力とだって、もっとうまく付き合っていたかもしれない。
(エイルだって、生きていたかもしれない)
「この娘もまた、占宮にとっては例外のはず」
アウセムの言葉には明らかに揶揄が含まれていた。例外、の意味はエーファにはわからないが、はっきりしていることがある。
この人は、信じていないのだ。さも、信じているかのように語ってはいても、たぶん、アウセムという人間は、占いも占師も占宮も、何一つ信じてはいない。
エーファの髪の色だって、銀髪の意味は知っていたのだろうが、エーファのことを彼が『生まれながらの占師』などと思うはずがない。
「――わかりました。はじめましょう」
男性は答えずに、ただ、開始の宣言をした。
それから起こった出来事で、エーファが推測できたのは、これが儀式である、ということだった。
――まったく予測していなかったかというと、それは嘘になる。
もしかしたら、という思いはあった。
だが、まさか、と打ち消していた考え。
着せられた衣装。アウセムと男性のやり取り。
最後に加わった、銀髪の占師という記号。
男性が、占宮で高い――赤をふんだんに用いた衣を着ているのだ、もしかしたら最も、とつくかもしれない――身分なのは疑いようもない。
その彼すらも、エーファの持つ記号を容認している。エーファは占師となる試験すら受けていないのに。銀髪であるというだけで。
占命式。
アウセムが執務室で口にした時は、聞き流していた単語だ。
占師が、唯一の主を戴く儀式。主たる者が、己のためだけの占師を選ぶ儀式。
通常は、王族と専用占師の間で行われるものをさすが、双方の合意が成立すれば、市井でも式が成される。
「主たらんとする者は、占師の名を請うべし」
「――汝の名は?」
アウセムが、問いかける。
朽ち色の瞳は、今、ここでお前の名を聞く、と明瞭に伝えてきた。
――ここでしか、聞く気はない。
すう、と息を吸う。そして、エーファは、息と共に、吐き出した。
「エーファ・ラデ」
視界の隅で、男性が微かに不愉快さを滲ませて眉を顰めた。
平民や異端の中では家名は存在しない。役職名がそのまま、名前の後につくのが普通だ。たとえば、服飾職人の誰々、というように。語尾の変化で、職人本人や、その家族、妻、子供、と区別をつける。ラデは、ラデイの変化形。ラデイは、死刑執行人の意。ラデイを口にする人間はいない。口にするだけで、死が己に取り憑くと言われている。
だからこそ、人々は父を呼ぶ時、ただの『シッコウニン』と表現するのだ。執行の記録を残す時、執行者として名を記す時ぐらいにしか、ラデイは使われない。
ラデは、執行人の子、その女性形。
エーファ・ラデ。死刑執行人の娘である、エーファ。
それはちっぽけな存在にすぎないエーファの矜恃であり、精一杯の抵抗だった。
父に育てられたことも含めて――自分なのだと。
そう言いたかった。決して、銀髪の占師などではない。記号で判断されるなら、父と共にあった自分を選ぶ。ラデの名を、呼べるなら、呼べばいい。
「――エーファ・ラデ」
アウセムは愉快そうに唇の端を歪めた。はっきりと、もう一度繰り返す。
「エーファ・ラデ。良い名前だ」
低い、とおりの良い声が、響いた。
「占師の名は、エーファ。ここに了承する」
ラデの単語を抜き、男性が謳い上げる。
「占師は、朱石を主に」
「三度目があったら、返す約束だ」
動かないエーファに、アウセムが言う。
「……わかっています」
皮袋に手を伸ばす。薄布で包んでいたので、覗き込まずとも、掴むことができた。
広げられていた、節ばった手のひらに落とす。
朱石は、アウセムの手から、男性に渡った。
そして、今度は、男性の手から、細い銀の輪で作られた冠がアウセムへと渡される。冠の中央には、赤い――朱石が彩りを添えている。
「主は、証を占師に」
冠が、エーファの銀の髪の上に載せられた。ひどく、丁寧に。髪と同色の輪は、しかし異なる光沢できらきらと輝いた。
「ここに、占命式は成されました」
決して大きくはないが、室内にこだまする。
重く、エーファの肩にのしかかった。
「――お行きなさい。皆が、待ち詫びている。新たな専用占師を」
男性が告げた。




