5
刑場の表門前には、客人用だという馬車が停まっていた。
セルジークの付き添いらしい兵士――ノアにより、エーファは馬車に乗せられた。
ただし、馬車に乗る前、そうして欲しい、と請われたので先日染めたばかりの染料を髪から落とし、普段着ている黄色が含まれている白地の服から、持っていた藍色の服に着替えた。
そして、染料を落とすよう命じたのに、露にしているのは不都合なのか、絹の薄布を渡された。エーファの立場同様、頭にだけ上等の布を被せているのは、なんだかひどく不格好だった。
セルジークもノアもそれぞれ別の馬に騎乗しているが、馬車内はエーファだけではない。
首無しは、いる。たぶん外だ。ついてきてくれている。あの場でも姿は現さなかったものの、気配は感じるので近くにいるのは、わかる。呼べば話し相手になってくれたろうが、それはできなかった。
霊ではなく――もう一人、馬車の中にいるのだ。
エーファの向かい側に座っている。
格好は、地下遺跡で会った、貴族の少年と同質のものだった。
全身を外套で覆い隠すという、お忍びという出で立ちながら、出で立ちと高級さで上流階級だとわかる、という類の。
ならば、あの貴族の少年が直々にやってきたのか、というと、それも違う。
同じ馬車内、同乗者の手首や、隠れた身体の線は、少年というには繊細で、細すぎた。
たぶん、少女だ。年齢は、自分と同じくらいなのではないだろうか。
少女は、ただ一点を凝視していた。
絹の薄布で覆い隠された、エーファの髪、だ。
ガタン、と大きく馬車が揺れた。裏街の道は舗装されていない箇所もある。エーファと少女の身体も傾いだ。
お互い、頭に被っていたものが、外れた。
エーファは、薄布が。少女は、外套が。
まだ乾ききっていない、濡れそぼり、数本が固まりあっている塊のようなエーファの髪に対し、少女のそれは、エーファがいつも、現物を触ってみたいと思っていたジルレアの髪に似ていた。
色は白金色。櫛を通したら、一度も引っかかることなくさっと梳けるだろうことが想像できた。なんて綺麗なのか――。羨望のため息が、エーファの口から漏れた。
そして顔。美しい少女だった。職人が端正こめて作り上げたような造形だ。睫が長く、唇はふっくらと赤く色づいている。ただ、残念ながら今は深く噛み締められていた。瞳は濃い群青色だ。一度、絵で見たことのある、冬の海のようだった。
比較するのもおこがましいが、自分が惨めに思えてきて、エーファは薄布を頭にかけ直した。
「――その髪の色は、本物?」
少女の形の良い唇が、耳に心地よい声を紡いだ。だが、響きは刺すかの如く、鋭い。
「答えなさい。本物?」
エーファは首を縦に振った。
「は、は、い」
長い睫が震え、睫に彩られた瞳がエーファを直視した。
「そう――。覚えておいて。わたし、あなたには負けないわ」
一方的な宣言だった。
エーファは瞬きした。彼女の言っていることの意味が、まったくわからない。
負けない、と言うからには、勝負だろうか? しかし、エーファと少女の間に、何らかの勝負が成り立つとはとてもではないが、思えない。
はじめから少女のほうが勝っている。
だが、自分から声を掛けることは躊躇われ、一旦自分の膝を何秒間か見つめた後、エーファは外に目を向けた。少女がどんな顔をしたのかは、わからない。不愉快に思っただろうか。しかし、それ以上は、少女は何も言わなかった。
馬車の飾り窓からは、川が見えた。
新街と裏街を繋ぐ橋に、差し掛かっていた。とめられることもなく、馬車は橋を進む。
橋の反対側から遠目に見るのとは違う新街の街並みが、窓の向こうに広がった。段違いに、人が多い。清涼な空気と、整えられた街路。明らかに、裏街とは違う。
あんな、橋を越えただけなのに。
一番違うのは、人々かもしれない。新街の人間は、顔を伏せずに歩いている。
違和感もあった。
そんな制限はないはずだが、裏街に比べ、バスハ人をまったく見掛けない。
馬車が停まった。中央に噴水のある広場だ。人が多い。こうして輪から外れて眺めているだけでも伝わってくる喧噪。仰々しい紋章入りの馬車や何十もの騎馬隊までいた。新街とは、いつもこうなのだろうか。
控えめに、扉が叩かれる。
「シャンティール様、エーファ様」
呼びかけと共に、扉が開かれた。馬を降りたノアだった。
「第二王子殿下は済ませていたのですが、本日、遅れて第一王子殿下の入場式が行われています。道が混雑していまして……セルジーク様が調整中です。人の波が落ち着いたらまた進みますので。お待ちください」
「……入場式?」
何だろう。
「えーっと。あー、そっかー。知らないかー」
唸りだしたノアにかわり、少女が口を開いた。
「王族は長く逗留する訪問先の街についたら、まず領主の歓待を受けるわ。シェーンハンの場合はカルクレートの城伯ね。その後に、国民のために、日を改めて街門から指定の場所まで行進して、顔を見せる入場式を行う。国民が王族の顔を見れる、数少ない機会よ」
「大人気ですよ。ほらこの人だかり」
ノアの言葉に、どうやらシャンティールという名前らしい少女は、鼻で笑った。
「別の意味でね」
「いや、エーファ様! 第一王子殿下もそんなに悪くない人なんじゃないかと、自分は思わないでもないですよ、はい。悪評ばっかり耳につきますが」
エーファは首を傾げた。
様づけで呼ばれるのは、城に呼ばれたという立場からだろうが、第一王子の話題で何故ノアはエーファに対し、取り繕うかのような物言いをするのか。不思議だった。
「――あ、行けそうですね。自分は失礼します」
御者へと指示を出し、扉を閉め、ノアが馬へと戻った。
掛け声がして、再び馬車が動き出す。
入場式。存在すらはじめて知った。
今まで興味などなかったが、王族の顔を見れると聞けば、見たいと思えてくる。何しろ、一生これから縁のないだろうものだ。入場式など、裏街では当然行われないのだから。
それらしきものでも視界に入らないか――。
外の景色に、今度は何も見逃さないようにして、再び視線を向けた。
息を呑む。
心臓を冷たい手で掴まれたような心地がする。
エーファは、大きく瞳を見開いた。
『視え』た。
朽ち色の青年を見掛けたわけでもないのに、彼に関するものが。
いや、『視え』たものが正しければ、彼もこの広場にいる。
おそらく、王族側の人間として。
――『視え』たもの自体は、今までとは異なっていた。
異なる光景。
それでいて、死に関するものだ。危険というだけで、結果は見えない。
アウセムに襲いかかろうとしている何者か――。
『――アウセム。危ない!』
誰かの叫び声。誰かの?
(この声は、わたし?)
場所は、まさに、この広場で。
人混みの様子も、馬車や騎馬隊が行列を作っているのも、まさに、今の時間帯のものに見えた。ごく近い、未来だ。
エーファが『視る』、もう一つのもの。
それは後に起こる、定められた流れの一部分だ。
ごく僅かな、切り取られた、未来の、場面。
最初はいつのものなのか、わからかった。そのうち、それが幅はあれど、現在より先の出来事だとわかった。
理解してからは、『視る』ことが楽しくなっていった。その思いに呼応するように、これが能力というのなら、エーファの『視る』能力は上達していった。
けれど、何が『視たい』か、エーファが選んでいたのではない。
一度『視た』ものに関することは、連鎖的に『視え』ることはある。
しかし、決して、選ぶことはできない。
それでも、昔、自分は神様みたいだと思っていた。自分は未来を言い当てることができる。
その未来の像は絶対だった。
間違えたときは、自分が読み違えていただけ。
判断の難しい一場面もある。たった数十秒の光景の、断片でも、順番通りに『視え』ているとも限らない。限られた情報から、どれだけのことを記憶し、正確に読み取れるか。
『視え』るとは、そういうことだった。
だから、思い込んではいけない。
息を吸って、吐く。
昔の幼い自分は愚かだったけれど、もっと冷静だった。
今、『視え』たもの。自問する。
本当に、狙われていたのはアウセムだったか?
――アウセムだった、と思う。
思う、というのは、『視え』た光景の中では、青年の瞳の色が違っていたからだ。朽ち色の瞳ではなかった。しかし容貌は、彼だった。叫び声も、アウセム、と。
アウセムは、騎乗していた。騎馬隊の列の中、後ろ姿しか見えなかったが、途中で振り返ったからアウセムだとわかった。何かあって――誰かの……エーファの警告で?――振り返った、風に見えた。
この像は、助かった場面?
場所は?
アウセムは制服のような衣装を着ていた。
他には――周囲は?
幾つかの場面があって、時間帯はおそらく重なっているのに、前後関係の判断がつかない。
たくさんの花。噴水。群衆。嘶いている馬。遠くに馬車。出入り用の扉が開け放たれた――馬車。身を乗り出している、美しい少女――シャンティール。
その馬車の中に、エーファの姿は、ない。
唇を引き結ぶ。
叫ぶのは、アウセムに警告を発するのは、自分?
わからない。わからないが。
急がないと。説明している暇は――。
「! とめなさい! 何をするの!」
走っている馬車の扉を、エーファは開け放っていた。併走していた、驚愕に硬直している馬上のノアと目が合った。
身体を丸めるようにして、転がり落ちる。どんっという衝撃が全身を襲った。服越しに腕が砂利で擦れた。
「御者! セルジーク! 今すぐ馬車をとめなさい! あの娘が!」
馬車から身を乗り出したシャンティールの姿と声が、遠ざかる。