3
「さあ。霊とご対面だ」
室内へと入ってから、青年が片手を伸ばし、エーファを誘う。
入り慣れた場所――しかし、ほんの少しだけ、エーファは躊躇った。少女の霊が見せた光景と、たぶん、自分がおかしなことを考えてしまったせいだ。
たとえば――見慣れない光景が、そこに広がっていたら?
躊躇いを押し殺し、中へと足を踏み入れる。もちろん、青年にとって、そこに誰もいないのは当然だろう。
エーファにとっては――。
青年が、室内の燭台に火を灯した。
内部の様子が、浮かび上がる。
エーファは、安堵の息を、ついた。
燭台の炎が照らし出す室内の様子に、変わりはない。
七日前、迷子のような、途方に暮れたゾフィーネの幽霊と出会ってから立ち寄るようになった彼女の部屋。調度品や、ヒビの入った鏡もそのまま。鍵がかかっていたことが暗示していたように、部屋の主であったゾフィーネの幽霊は不在だった。
「随分と金をかけてあるな」
客との談笑用に設けてある椅子と机。樺材を使用した一品だ。確かに、ゾフィーネの部屋には、他にはない、エーファの目で見ても高価とわかるような品が置いてある。
「彼女の私物が大半だと思います」
ゾフィーネは駒鳥屋への借金を返し終わっていた。どこへでも、自由に出ていけたのに、彼女は店に留まっていたのだ。だからこそ、私財を有し、個人としての持ち物を買えた。
「ゾフィーネに最近ついた客を知っているか?」
「…………? いいえ」
「ならいい」
椅子に、青年が腰を下ろした。エーファを、見据える。
「本題に入ろう。始めようか?」
彼は、挑戦的な笑みを見せた。
どこか、見透かしているともとれる、笑みだった。
「――占いをな」
生憎、エーファが持っているのは、言葉だけだった。
「あなたに、命の危険が迫っている……と思います」
エーファは『視た』ものを思い返し、言った。
が、最後のほうは、自信なげになってしまった。
実際、自信もないのだ。本当は、青年と向かい合い、自分も椅子に座るべきなのだが、エーファは月の見える窓辺に移動し、離れた場所に立った。
青年自体には大分慣れたが、二人きりというのは、やはり怖い。
自分が告げる言葉が言葉なので、なおさらだ。
「それは、占いではないな」
「昨日の……昨日の、占いの結果なんです。新しく占いをするというのは、口実です。謝ります。あの時は、恐ろしくて逃げ出してしまいました。ごめんなさい」
今もだ。自分から言い出したことなのに、逃げ出したくてたまらない。どうして自分はこんなことをしているのだろう。
「昨日の占いで、俺が死ぬと出ていたわけだ」
いや、出会った時から、知っていた。
一番はじめに目が合った時、『視え』たから。
だが、それは言えない。前は包み隠さず話して、失敗した。
――友達、エイルに。
エーファは、彼には、何も隠さなかった。エイルのことが『視え』た時だって。
彼は笑って、「大丈夫だよ」と答えた。
大好きだった太陽の笑顔で。ふわふわの金髪が羨ましくて仕方がなかった。
彼はエーファにとって、お日様のようだった。
父が困った顔をするから我慢していたこと。
泣くことも、エイルの前ではできた。
――大丈夫。ぼくは死んだりしないよ、エーファ。
――うん、そうだよね、エイル。ぜったい、わたしが助けるもの。
絶対、助けるから。
絶対、助ける?
なんて、甘くて、希望に満ちて、それでいて、空疎な響きだろう。
エーファは目を伏せた。
「このままだと、あなたは、誰かに殺されます」
『視た』ものを解釈すると、そうとしか思えなかった。
誰しも、己の死を告げられて、気持ちの良い人間はいない。しかも、殺される、だなんて。たとえ占いなど信じていなくても。
信じているなら、なおさら。
占師の言葉は重みを持ちすぎる。相手の人生を左右する。
ジルレアはだからこそ、占いは覚悟が必要だ、とエーファに教えた。
告げる覚悟。そして、自分の言葉が、相手に影響を与えるだろう責任。
また占いを求めるほうも、心を強くもたなければならない。盲信してはならない。占師は占いに責任を持つが、責任を占師に完全に委ねてしまってはならない。
それは、自分の人生を放棄してしまっているのと同様だ、と。
でも、おかしな話だとも、感じたものだ。
――ほうき? だって、すべてはきまっているんでしょう、ジルレア。
――いいこと、エーファ。インチキ占師も世の中にはいるのよ。
――そうなの? じゃあ、当たっている占師の言葉にしたがえば、その人はほうきしていいの?
――それでも、だめよ。自分で考えなきゃ。それは、とっても疲れることだけど。
――つかれるの?
――疲れるわよ。従ってたほうが楽だもの。
青年は何も言わない。表情からは、何も読み取れなかった。
少なくとも、エーファの言葉を鵜呑みにしているようには、見えない。
そしてエーファ自身も、それ以上は、何を言えばいいのか、見当もつかなかった。
不吉なことを言ったと謝るのか?
気をつけろ、と警告を? 正確な日時もわからないのに?
窓のほうを向くと、月が雲に隠れてしまっていた。厚い雲だ。
また――雨が降りそうだ。そう思った瞬間、硝子窓に映った自分の顔が、醜く歪んだ。はじめて知った。雨の日、自分は、いつもこんな顔をしていたのだ。
窓に、水滴が点々と跡を作り始めた。
エーファと同じように、窓へ顔を向けた青年が、口を開いた。
「……雨は嫌いか?」
息を吸う。手のひらで、窓に映る自分の顔を、エーファは隠した。
「――嫌いです」
もっと嫌いなのは、過去の、傲慢だった自分。
希望に満ちていた自分だ。
「奇遇だな。俺もだ。――雨の日は」
後半は、言う必要もないのに、出た言葉だったのか。
一旦、言葉を切ったが、青年は続けた。
「雨の日は、古傷が痛む。それで嫌いになった」
エーファは青年を見た。赤い瞳は、窓の向こうの雨を凝視していた。
視線の矛先がずれ、エーファを捉える。
それは、「お前の理由は?」と問いかけているようだった。
炎の明かりで、朽ち色の瞳がより赤く見えた。
赤い――美しい色。
他人の、それも生きた人間の目を見て、何かを話すのは久しぶりかもしれない。
エーファも、青年から視線を逸らすことはなかった。
「……わたしは、雨の日に、溺れかけたことがあるせいです。水も苦手で、泳げません」
同じ日に、エイルも死んだ。
以来、エーファは、泳ぎが得意だったのに、水に浸かると、恐怖で震えるようになってしまった。
雨の日だって、決して外に出掛けなかった。
平気になったのは、自分は何も『視え』ないと暗示をかけて、同時にエイルの記憶を奥へ奥へと追いやったからだ。
「――占師」
エーファが占師というには、怪しい代物だと、理解しているだろうに、何を思って青年がそう呼んだのかはわからないが、はい、とエーファは返事をしていた。
何故か、青年は薄く笑ったようだ。
「これをやる」
青年が机の上に、何かを置いた。指で弾く。ほとんど物音のしない室内で、それは軽い音を立てて、床に落ちる直前、端で静止した。
おそるおそる机に近づいてみる。
青年が弾いたのは、朱石と呼ばれる、高価な赤い石だった。占具に向いた性質を持つ。まだ加工されていないが、先日、割れてしまった石と大きさは同程度で、ひと目で、使える、とわかった。自分と、相性が良い石。自分で探して見つけたものならば、朱石でなかったならば、喜んで手に入れていたろう。
だが、生憎違う。
エーファにはもらう理由がない。
「……頂けません」
「では、こうしよう」
半ば、青年はエーファの返答を予期していたようだった。
「もし、また会うことがあったら、返してもらう。俺たちは今日、偶然に再会した。三度目がないとはいえない。その三度目がなければ、石はお前のものだ」
三度目など、あるはずがない。結局、もらうのと同じではないか。まるで三度目があるのが前提であるかのように、青年は話している。
「教えておこう。俺の名は、アウセム、だ」
アウセム。それが、青年の名? だが、今更、自己紹介など。
「お前は?」
「わたしの名前は――」
自分の名など、大層なものではない。王族や大貴族は二つ名を持つという。
真の名は、それこそ王族なら、家族や、専用占師ぐらいにしか明かさず、仮に知っていても、呼ぶことは許されないと。
エーファの場合は、名前は一つで、そんな出し惜しみするものではない。地下遺跡で会った少年の時のように、身分の差という恐れから、迷うのでもない。
仮に、青年の身分がエーファの予想より上でも、たぶんエーファに刑罰を与えたりもしないだろうとも、今は思う。
ただ、自分の名前を言えば、この青年と繋がりができてしまいそうな気がした。
「三度目があった時に、言います」
そんな時は、来ない。
青年が頷いた。
朱石より美しい、夜にいっそう赤くなる、朽ち色の瞳を細め。
「それでいい。三度目があった時に、だな」
そしてエーファは、朱石を手に取った。