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「占い?」
振り返った青年の瞳が探るように細められた。日中と比べ、夜のほうが、青年の持つ朽ち色は目立った。より、赤い。
「はい。占い、です」
あの夜、娼館の通りで、青年はエーファの誘いに応じた。だが、彼自身もまたエーファを試していたように思える。エーファが戯れにそんな提案をしたのかどうか。
「占いをするのはいいが、どこでする?」
そう問われ、はた、と気づかされた。口実として占いに口にしただけで、エーファはそこまでは考えていなかった。
初対面で、青年から占いをこわれた時は、昼間だった。
昼間なら、開いている場所はどこにでもある。
裏街ならではだ。裏街では、共有の意識が強い。
設置されている天幕や、崩壊しかかった小屋――。夕方から夜になると、どこからとも人が集まってきて、商いが行われたりする。これらは、個人の所有ではなく、誰でも使える空間だ。だが、夜は競争率が激しい。どこも埋まっているだろう。
返事に窮しているエーファに、青年が嘲るかのように、言った。
「その娼館に部屋をとるのはどうだ?」
「…………!」
かっと頬が熱くなった。未婚の娘が男と娼館へ入ることの、一般的な意味は、身体を売ることだ。……だが、怒りは持続しなかった。数秒も経たないうちにしぼむ。もともとエーファは生きた人間相手には、感情表現が苦手だ。
それに加え、こう思えた。
応じたくせに、青年は、こう言うことで、エーファに、占いの誘いを撤回させたいのではないか、と。
ならば、答えは一つしかない。
「――わかりました」
案の定、青年の顔色が変わった。
「……本気か?」
「占いを、するだけですから。それに、いつもは、店の女の人を相手に占いをしているんです。逆に、落ち着きます」
虚勢を張った。自分へ勢いをつけるために、青年を置いて、さっさと駒鳥屋の入り口へと向かう。いつもとは異なり、表口へと。
「はい。いらっしゃいませ」
笑顔で、客を迎えたつもりだったろう女主人が、エーファを見て固まった。遅れて、縞柄の商売着で色とりどりに着飾った少女たちの視線がエーファに突き刺さる。
女主人が小走りに駆け寄ってきた。小声で囁く。
「ちょっと、お嬢ちゃん。困るよ。来るなら裏口から入っとくれ。――あら、いらっしゃいませ」
後半は、エーファの後に続いて、店に入った青年へかけられたものだった。チラリと肩越しに振り返ると、青年は少しエーファを睨むようにしている。
「お客さん――」
青年の顔――正確には、その瞳の色を見て、数秒、女主人は言葉を失った。厄介な客がきた。そんな表情を隠そうともしていない。しかし、通常の客より上等な生地を用いた青年の服を見て、気を取り直したようだ。如才なく商売文句を謳い上げた。
「お好みはどんな子でしょう? うちは大変いい子を揃えておりますよ、ええ」
青年の視線が右から左へ、娼館の一階を一巡した。
顔をさっと伏せる娘が多い中、笑顔を返す娘もいた。あまり意識したこともなかったが、青年は――どちらかといえば野性的だが――整った、精悍な顔立ちをしているし、やはり、匂いが違う。
裏街に住んでいれば、自然とわかるようになる、『外』の空気を持っている。
青年が大きく嘆息した。
「この娘を」
大股で近づき、エーファの腕を取った。その瞬間、空気が凍った。さきほど青年に笑顔を返していた娘でさえ、引き攣った表情へと早変わりしている。
「お客さん――その娘は、無理だよ」
「了承はとってある。部屋を借りたいだけだ。相場は?」
女主人がエーファの顔を見た。エーファは、浅く、顎を引いた。
「それなら、まあ……。十ペッラ」
相場はせいぜい五ペッラだ。国の通貨として、裏街でよく使用されるのは銅貨だ。一ペッラで銅貨一枚。五十枚になると銀貨一枚と同等の価値になる。女主人は二倍の額を要求している。『外』の人間に、正確なところなど知るよしもないだろうが――。
「十? 随分と強気だな」
「都の方々が来ていますからね。特別料金です」
女主人が言い切ったと同時に、二階の部屋から娼婦の腰を抱いた兵士が出てきた。新街の兵とは異なる兵装。女将の口にした、都の方々だろう。王子一行がシェーンハン入りする、とゾフィーネは言っていた。地下遺跡で出会った貴族の少年のように、旅行列に伴い、様々な階級の――しかも『外』の人間が、裏街までやってきている。
「ねえ、また来てくれる?」
「いいとも。気に入った」
一階に漂う空気には気づかず、兵士が娼婦――エーファがゾフィーネの部屋で会った金髪の少女の腰を抱いたまま、階段を下りてくる。少女の媚びを受け、上機嫌の兵士はにやにやと笑いながらまくし立てていた。
「夕方さあ、本当は招集があったんだがな、無視してやった! 国の兵士になったって、雑用ばっかで手柄なんてたてる隙もねえよ。利点といえば、お偉いさんの顔を拝める機会があるぐらいだな。あの兄弟、ほんっとに似てなくてさあ……。ここだけの話、秘密なんだけどな……? 第一王子ってのはさ、ほら、お前ぐらいの年だと知らないかなあ。ガキの頃に狂った占師に殺されかけたのをはじめとして、占宮とすげえ仲が悪いんだよ。いや、でもそれも納得の面だぜ? いいか? 秘密だぞ? 第一王子は――」
「――第一王子は?」
やや、大きな声が響く。青年が発したものだった。だが、エーファは意外な気がした。青年が、わざわざ兵士の話の腰を折ったことが、だ。
兵士の話は、他愛ない戯れ言だ。娼館で気が大きくなった客が、話に尾ひれをつけて仰々しく物事を話す。どんな新米の娼婦だって、本気にはしない。話半分に聞いて、付き合っているだけだ。
青年が割り込んだのを機に、快調に喋り続けていた兵士が、ピタリと、途中で言葉をとめた。酒も入っていたのだろう赤ら顔が、急に醒めた。
「ねえ、どうしたの? 聞きたいわ。王子さまってどんな顔?」
兵士が少女を突き飛ばす。
「し、しししししし失礼をっ」
「ちょっと、何よっ!」
しかし少女に構うことなく、兵士はその場で敬礼した。向かう相手は、朽ち色の青年だ。
「私はキトリス軍近衛五隊所属、ノア・ランガーであります! 王都にて勤務にあたっておりました!」
「――いいから、黙れ」
青年は面倒臭そうに頭を掻いた。
知り合い、なのだろうか? 兵士たちの中では、青年は高い地位にいるのかもしれない、とエーファは思った。
「は、はいっ! 一生黙っております所存ですっ」
兵士が勢い込んで頷く。
「確かに、都の方々が来ているようだな。女主人」
皮肉げに呟いた青年は女主人の手に、銀貨を一枚、落とした。エーファを連れ、兵士の側を通り過ぎる。その時、低い声で青年が囁いた。
「ここで会ったことは誰にも言うなよ」
「――――!」
言われた兵士は蒼白になって何度も頷いている。突き飛ばされた後で兵士の腕に両手を絡ませた少女にも聞こえていたのか、青年を不審げに見る。だが、少女はエーファと目が合うと、ふいと逸らしてしまった。
階段を登る。中央がすり減った木の段は一歩進むごとに、悲鳴をあげた。
「あの兵士の方は、お知り合いですか?」
二階へ着き、一階に視線を投げると、兵士はまだ直立不動で動いていない。
「あっちが一方的に俺を知っているだけだ。――あそこの部屋は?」
青年が顎で示したのは、二階の一番奥だった。駒鳥屋で一番の売れっ子だった娼婦――ゾフィーネの部屋だ。彼女の部屋は閉鎖され、鍵がかかっている。
これはエーファにも原因があるのだが――ゾフィーネの死後、原因不明の出来事が部屋で起こりすぎるから、だ。喪に服すという意味もあって、客用には開放されていない。
「ゾフィーネという娼婦の部屋か?」
エーファは驚いて青年の横顔を見つめた。
『外』でもゾフィーネは評判だったのだろうか。それとも、噂だろうか。この十日、裏街は彼女の死で持ちきりだった。裏街では、ちょっとした出来事でも瞬く間に広がる。
「はい。でも、彼女は病気で命を……。部屋も今は閉まっています」
「病気、か」
青年が低く何か続きを呟いたが、エーファには聞き取れなかった。言語が異なるのだ。王都からシェーンハンまで、公用語はキトリス語だが、シェーンハン以南では、地方言語や、バスハ語もよく使われる。青年が使ったのはそのどれかだった。
しばらく青年はゾフィーネの部屋の扉を見つめていたが、近くの空いている部屋に向かった。取っ手に何もかかっていない扉へと。
誰かがいる部屋の場合、扉の取っ手には、印がある。黄褐色の布が結んであるのだ。
なければ、誰もいない。
「…………?」
風がエーファの身体を通り抜けた。見ると、見習いの少女が、取っ手に布を結んでいる。黄の布を結ぶ。これは店に娼婦として出るまでの、見習いの仕事だ。客が入ったのを確認してから、布を結びに行く。少女の姿は、いやにぼんやりしている。
霊、だ。それも、見掛けたことのない霊だった。
少女は拘りでもあるのか、綺麗な蝶々結びになるよう、一生懸命に巻いたり、解いたりをしている。そのうち、少女がきょとんとした顔をした。取っ手を回す。首を傾げた。細く、扉が開いた。
少女は好奇心で部屋を覗いた。
黄の布が、落ちた。床で乱れた線を描いている。悲鳴をあげた少女の霊が消えた。にもかかわらず、存在しないはずの布は、まだ床にある。
拾え、と訴えかけているかのよう。小指一本分ほど開いたままの、扉も。
だが、エーファが、布の落ちた扉――ゾフィーネの部屋の前に立つと、光景の残滓も失せてしまった。
あるのは固く閉じられた扉だけ。
鍵をかけているはずなのに、いつの間にか開いてしまう――そんな噂のある扉。
開いている時は、ゾフィーネの霊がいる。
少女がそうしたように、エーファも取っ手を握った。
――回らない。
ゾフィーネも、いない。
「その部屋の娼婦とは親しかったのか?」
青年だ。エーファは首を振った。横に。
生前のゾフィーネはエーファを嫌っていた。
娼館での、エーファへの態度は三つ。エーファが死刑執行人の娘だということには、あえて目を瞑って接してくれる者。主に、エーファに占いを頼む人々の中に多い。
内容はどうあれ、話だけは、してくれる――会話が成り立つ者。女主人などがそうだ。
完全に、無視する者。見えていても、見えていないものとしてエーファに接する。ゾフィーネは、この三番目だった。
……ゾフィーネは、生前の記憶を忘れるのが早かった。エーファとの関係も忘れた彼女は、まるで友人に接するかのように、いまでは話してくれる。もちろん、何も覚えていない彼女の霊に、そんなことは言えないが。せっかく親しくなれたのだ。わざわざ、嫌われたくはなかった。
「噂を聞いた。霊が出るそうだな」
ゾフィーネの部屋を背に、そこから離れようとしていたエーファへと、青年のほうが近づいてきた。
「霊なんて――存在しません」
硬い声で、エーファは否定する。
「そうだ。霊など存在しない」
青年もまた、取っ手を回した。途中で鍵に阻まれる音がした。
「だから、霊が出るには、相応の理由がなければならない」
矛盾していた。存在しないと言っておきながら、理由があればいてもいい――。そんな口ぶりだ。でも、あるのかもしれない、ともエーファは思う。
エーファには見えないのに、そこに霊が出ると評判の場所が裏街にある。実際は、いないのだと思う。霊自身が、姿を隠しているのではなく――いない。
それなのに、人々は見た、と口にする。そこは、所謂曰く付きで、出てもおかしくないような――何かが起った、そんな場所だ。
そうして作り上げられた霊は、人々の間では、たぶん実際に存在しているのと同じだ。
エーファには見えなくても。
じゃあ、ゾフィーネは?
ふと、彼女の名前が脳裏に浮かんだ。彼女の霊は確かに存在している。
でも、エーファが彼女の霊と会ったのは、七日前。彼女が亡くなって三日後。
それまでは、彼女の部屋でも何も起きていなかった。なのに、彼女の霊が出るという噂は、既に出ていた。ゾフィーネは病死で、残酷なようであっても、娼婦の死因として珍しくない。それこそ、彼女には、人々の口にのぼるような霊として出る、特別な理由などないはずなのに。
そんなことをエーファが考えていると、青年が、どこから取り出したのか、手の中に握っていた細い針金を鍵穴に差し込んだ。慣れた手つきで数度回す。
小さな解錠音が響いた。
「――――!」
この間、数秒もかかっていない。裏街の人間をもってしても、難しい技だ。とめる暇すらなかった。あっけに取られているエーファを尻目に、青年が扉を一気に開けた。