新暦一三三三年五月九日。
その日は、フランツ・ラデにとって初仕事の日だった。継がざるをえなかった職だ。ラデ家の兄弟は三人。しかし長男だったがため、フランツは家業――死刑執行人の職に就くことになった。この家業を嫌い、下の弟二人は家を出た。
――その罪人が、いかなる罪を犯したかは、執行人の関与するところではない。
何も思うべからず。考えるべからず。
ただ、与えられた職務をまっとうせよ。
罪人に礼を逸してはならぬ。
ただし、情を抱いてはならぬ。
それが、父の教えだった。
時には、泣き叫ぶ者を断じなければならないこともある。こちらが仕事をしやすいよう、最後まで高潔な者を断じることもある。両者に差異はない。
どちらも、ただ仕事と思え。心を動かされるな。
父の教えは骨の髄まで染みこんでいるはずだった。ひとたび巷で『城』と揶揄されるシェーンハン刑場に入ったからには、罪人が王族であろうと、貴族であろうと、美しい者であろうと、フランツは彼らをただ罪人、とひとくくりに考えるようにしていた。
フランツの初仕事は急に決まった。父が命令で罪人の護送のため、王都に赴いた、まさにその期間中に、事件は起こった。
王の占師。国王の専属占師の乱心――。
シェーンハンのルーレ離宮で過ごしていた第一王子に襲いかかり、重傷を負わせた。
王子は一命を取り留めたが、回復には時間がかかるという。まだ幼い王子の身体には、傷跡が残るだろうとも。……許されぬ大罪だ。
折しも、第二王子が誕生したばかりの時期だった。
第一王子は長子ながら、その生まれ持った容姿と出自のせいで、王宮内での評判が芳しくないという。都の役人が父にこぼしていたのを、フランツは聞いたことがある。国王はそれを憂い、王都から離れたシェーンハンで養育させていた。
正妃の子、しかも容姿も生粋のキトリス人の男子が生まれたからには、第一王子の価値も下がる。人の口を完全に閉ざすことなどできない。第一王子が殺されかけたという話はあっという間に街に広がっていた。
第二王子を可愛がる国王の差し金――正妃が暗殺者を送り込んだ――口さがない噂も。だが、死刑執行人であるフランツにとって、それらはどうでもいいことだった。噂は噂だ。自分の仕事は別にある。
占師――いや、罪人の女は、捕らえられ、裁判を受けることもなく、異例の速さで刑場に送られてきた。
ほっそりとした女だった。すでに元とはいえ、王の占師だった女だ。煌びやかで、さぞ美しい女なのだろうとフランツは思っていた。
しかし、実物の女は、透けるような銀髪こそ目を引くものの、取り立てて器量がよいとも言えなかった。その銀髪も、今は頭巾で――処刑の際、髪は邪魔なのだ――隠されている。むしろ、罪人用として着せられる、色褪せた黄色の全身着姿のほうが、悪目立ちしていた。
女への印象が変わったのは、ほんのついさっきのことだ。
形の執行のため、女は付き添いを拒否し、一人でフランツの待つ場所――死への道を歩いてきた。
まるで息を吹き込まれたかのように、女が輝きだしていた。この女は黙って立っていて輝く女なのではない。人形のように飾り、愛でられていては、色褪せる。彼女は動いていてこそ、輝く。その芯の強さが、青い目に、振る舞いに、雰囲気に、現れ出る。
――何故この女は、王子殺害未遂などという暴挙に出たのか。
疑問が、浮かんだ。
罪人がいかなる罪を犯したか、執行人はもちろん、知らされる。
しかし、そこに何故、などと疑問を挟んではならぬ。
おれは罪人に、心を動かされたのか。
そう思った。
ならばせめて、苦しまぬよう、一断ちで。
女が、フランツを見た。澄んだ瞳だった。
そして、深く一礼した。美しい所作だった。この世への別れだったのか。執行人への挨拶か。それとも、もっと別の何かだったのか。フランツには、わからない。
女はただ、待っている。
フランツは、初仕事をこなした。感触で、成功したことを知った。
女は、苦しまなかったはずだ。
だが、まだ、下は、見ない。
――見れない。見たくはない。
女の遺体は見ずに、周りを見た。処刑は、『城』の北棟、黒の間で行われた。秘匿扱いだったが、たった一人、外部の見物人がいた。女と同年齢だろう、占師の男だ。
黒の間には、生きた人間は、フランツと、その男だけだった。
見物は、フランツが許した。男が、好奇心ではなく、死にゆく女を悼んでいる者だったからだ。占宮は女の占師資格を剥奪したとのことだった。それでもなお、あの占師の男は、こうしてやってきた。
男の視界には、フランツなど入っていなかった。死した女だけを、凝視している。
そこに宿っているのは、怒りか、悲しみか、後悔か、憎悪か――。
深い虚脱感がフランツを襲う。
外で待っている官吏たちに、刑が執行されたことを伝えにいかねばならない。
ようやく、下を見た。まず見えたのは、銀と深紅だ。頭巾がとれ、女の銀の髪が床石に波打っている。そして、赤。鮮血が散っている。女の遺体を、見た。
「…………?」
微かな、声が聞こえた。まさか、女が生き返ったのではあるまい――。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
それは、赤ん坊の声だった。腹などほとんど膨れていなかったというのに、女は孕んでいたのだ。まさか、死の衝撃で、腹から出てきたのか。
双子の、未熟児だった。母が死んだのにもかかわらず、母が恋しいと泣いている。どちらも、頭髪は赤色に塗れているが、片方は母譲りの銀色、片方は白に近い金色だ。
「どけ」
見物人だった男が、その赤子の片方、銀髪の子を取り上げた。懐から取り出した細身の短剣でへその緒を切り、己の長衣で赤子をくるむ。
「あんた、何をする」
「彼女は優秀な占師だった。残せるのなら、その血統を絶やすわけにはいかぬ。これは占宮の意思だ」
男は血に濡れるのを厭いもせず、もう決して目を開くことのない女の頬を撫でた。それが、おそらく、男にとっての、女との別れだった。男が、振り切るように立ち上がる。
「執行人、片方はいらぬ。殺すがいい」
必要とされたほうの赤子を抱き、男はフランツに背を向け、出口へと歩き出した。
足音が遠ざかる。
フランツは途方にくれた。置いていかれた白金色の髪を持つ赤子が、弱々しく泣いている。
「…………」
結局は、斧を振り上げた。それが自分の仕事だ。善悪の問題ではない。自分の気持ちすら、無関係だ。正確に振り下ろされるはずだった。しかし、フランツは目標を誤った。斧はただ床に叩きつけられた。
斧から手を離し、眉をひそめる。
何者かに、邪魔をされたような気がした。後ろを振り返る。
誰もいない。
それなのに、殺すな、と咎められたような。
赤子が、火がついたように泣きだした。
「泣くな、泣くな」
へその緒がついたままの赤子を恐る恐る抱きあげる。赤子はとても温かく、鼓動がひどく弱々しかった。壊れてしまいそうに、儚い。成長しきれずに、母の胎内から出、泣くことで体力を使っているからだろう。
「泣くな、泣くな。死んでしまうぞ」
赤子が泣きやんだ。閉じられていたままの瞼が震え、瞳が露になる。淡い灰青の目だ。
フランツの顔を見て、赤子はとても可愛らしく笑った。
「……泣くんじゃない」
――罪人に、情を抱いてはならぬ。
心を殺せ。
憐れみはいらぬ。
父に受けた教えが、こだまする。
だいたい、お前に、命を生かすことなどできるのか。
この奪うばかりの手が。
赤子を抱く資格などあるものか。
フランツの自問をよそに、赤子はただ無防備に笑っている。
斧を見た。今ならまだ引き返せる。さあ、掴め、と自分に訴えかけているかのようだった。
だが。
「……殺すものか」
低くフランツは呟いた。赤子はじっとフランツを見ている。
「殺すものか」
赤子を高く掲げた。
「おまえはおれの子だ」