一章 始まりを始めよう
ビルと人とで溢れかえった街、東京。
俺はこの東京で生まれ、様々なものを見て、感じた。
世界で何が起こっているのかとか、政治とか平和とか、そういうものはあまり理解していないけれど、たくさんの人の思いと思いとが交差する中心、そんな場所で今日も俺は自転車を走らせる。
東京のイメージである“都会”とは少し離れた、緑が見えるこの高校に、俺はこれから毎日通い続ける事になった。
まだ見慣れていない道に、等間隔に植えられた桜の木。
おろしたての制服が朝の日差しに照らされ、爽やかな風が髪をかきあげる。
……なんて、清涼飲料水のコマーシャルみたいなものは望んでいないが。
「はぁ……」
俺、木村光は新学期に似合わない溜息を吐いた。
別に学校が憂鬱だとか、嫌な事があるだとか、そういうものでは無いのだ。
ただ……
「おーっす光! ってなんだよ、溜息聞こえたけど」
「うお?! ……はぁーなんだ真紗斗かよ」
後ろから俺とは真逆の威勢のいい声が聞こえてきたと同時に、声の主は俺の横に並ぶ。
「なんだって何だよ……」
塚本真紗斗、小学校時代からの友人で、もうかなり長い付き合いになる。
ツンツンとした漆黒の髪にピアスと、見た目はチャラそうだが、中身はとても気が利く良い奴だ。
「んで? どうしたよ、早速忘れ物か?」
「なんでそう決めつけるんだよ」
確かによく忘れ物するけどさ……。俺は続ける。
「別に……なんでもねぇよ、入学式だるいなーって感じ」
そう、なんでもない。
なんでもないことなのだ。
「あーわかるわー、入学式とか長すぎていらねぇっつーの」
俺が適当に言ったことに真紗斗は相槌を打つ。よほど入学式に思い出が無いらしいのかベラベラと文句を並べていくが、今の俺の耳にはあまり届かなかった。
今度は真紗斗に聞こえないように、心の中で溜息を吐く。
桜の花びらがじゅうたんのように道に広がっている。
斜光で視界が遮られ、俺は思わず目を細めた。
朧気な背景に君が映る。
あの時の笑顔のままで……。
だから俺は別に入学式が嫌というわけではない。
ただ……
ただ少し、寂しいだけなのだ。
ふわりと風に揺れるその髪も。
スラリと伸びるしなやかな肢体も。
纏っている花の香りも。
全てがもう過去の物となってしまった。
あの時、消えてしまった。
俺の微かな記憶の中で微笑みかける彼女は、ここにはいない。
もう、どこにもいない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーはず、だった。
新しい教室、新しい先生。
ザ・体育会系な感じの女教師が一人ひとりの名前を呼んでいく。
当然俺も呼ばれ、同じクラスになった真紗斗も呼ばれる。
間に彼女の名は無い。それも、当然なのだ。
「全員出席してるなー」
当然、なのだ。教師はあぁと呟き、思い出したように言った。
「えーと木村、お前の隣の席、空席だけど、古くて放置してるだけだから、悪いが気にしないでくれ」
空席……?古くて放置してるだけ……?
俺はもう一度だけ、もう一度だけ首を左に動かす。
「う~ん……」
サイドから髪がたれ耳うさぎのようにぴょこっ、と揺れる。
「確かに古いなぁ、まっいっか〜仕方な〜い仕方ない」
先生、どうして女の子が座っているんですか。
どうしてその子が違う制服、正確に言うと俺の中学校の女子の夏服を着ているんですか。
どうして、どうして、どうして……。
記憶の中のあの彼女がここにいるんですか。
……透明な体で。