56. 疑心暗鬼なフーダニット
ヴィスタに運んでもらい階下の玄関の方へと向かって行くと、慌ただし気な雰囲気にエリィは僅かに不安を覚えて眉をひそめた。玄関からほど近い応接室の方からパタパタと走って行くメイドや、水を張ったタライと白い布を持って小走りに応接室へと入って行くフットマン達の醸し出す雰囲気は、とてもではないがセシルやシャロムの穏やかな帰還、と言う訳ではなかったことが伺える。ただならぬ雰囲気の応接室へと近づけば、そこから籠を抱えたケイトが冴えない表情で出て来た。
「ケイト」
静かにエリィが声を掛ける。するとケイトは一瞬驚いた様にビクリとした後、階段に居るエリィに気付き、ホッとした様にぎこちない笑みを浮かべた。
「お嬢様、ここは冷えますから。お部屋へお戻りくださいませ」
ケイトはぎこちない笑顔を浮かべたままそう言った。その笑顔に更に不安を募らせてエリィは思わずヴィスタの胸元当たりの服を握ってしまえば、安心させるようにヴィスタが左肩に回していた手の先でポンポンと宥めるように静かに叩いた。
「お兄さまとシャロムが戻ったのよね?」
そう問えばケイトは困った様に笑いながら頷いた。
「何かあったの?」
「……少しお怪我されたのです。ええ、ご心配ありません。今ヨシュア坊ちゃんや執事長が手当てをしております」
早口でまくしたてるケイトにエリィは違和感を覚えて、再びケイト?と静かに声を掛ける。するとケイトは途端に眉尻を下げた。よくよく見て見れば、ケイトの持った籠の中には明らかにセシルの物と思われるシャツが血にぬれており、玄関の方に視線を投げてみれば所々血で汚れていた。
「殿下、応接室へお願いします」
握ったままのヴィスタの服を軽く引けば、ヴィスタは再び止めていた足を動かして階段を慎重に降りていく。ふと後方からついてくるノエルを見れば、酷く青い顔で足元に視線を落としていた。
思い返してみれば、ノエルは窓の外を見たあの時から一言も言葉を発していなかった。ヴィスタとあの優しいノエルが一言も発せなくなるほどの何かが窓の外にあったと言うのだろうか。そしてエリィはふと気が付いた。医者と話すためと出かけて行ったはずのセシル達が帰還して来た時、なぜ自分は気づかなかったのか、と。いつもなら窓の外を見ていなくても、ベッドの上に居てもそれを知ることが出来るのだ。
それを考えた途端、エリィは背筋に冷たい物が流れる感覚を覚えた。意識が無い状態のエリィならまだしも、あの時のエリィは普通に起きていて、和やかな会話を楽しんでした。その状態で気付かないわけが無いのだ。あの時、窓側に座っていたヴィスタでさえも、ノエルが声を上げなければ気が付いていなかった筈だ。それは極めて異常と言わざるを得なかった。
――馬車で出て行ったはずのセシルの帰還に気付かないわけが無いのだ。
馬車で帰ってくれば馬車の音が聞こえないわけが無い。都会の喧騒の中ですら気付くのではなかろうかと言うぐらい、馬車を静かに走らせることは難しい。車輪は自動車のタイヤと違ってゴムで包まれている訳でもないし、馬は蹄が無ければ走れない。木製の車輪が地面と接触する音と、馬の蹄が地面を蹴る音はそれなりに騒々しい物なのだ。その音が聞こえるからこそ、使用人たちが主人たちが家に戻る前に迎えに出れるとも言える。それ故に、馬車で出て行った貴族が、馬車に乗らずに帰ってくるなど誰がどう見ても異常なのである。
ヴィスタが階段を一段降りる度にえもいわれぬ不安が膨らみ、服を握る手に力がこもる。再びそっとノエルの様子を窺い見れば、それはノエルも同じだったようで強張った表情のまま緊張していて、そんな自分を宥めるかのように自分の服の胸元当たりの服を軽く握りこんでいた。
部屋の中に入ると、いつもは綺麗に整えられている応接室が雑然としているのに気が付いた。泥と血にまみれた靴が転がっており、汚れを拭うために使ったのか、これもまた泥と血にまみれた布がその側に放置されていた。鼻孔を微かに鉄の様な匂いが霞め、その匂いの元をたどればソファーの上に横たわるセシルの姿があった。
既に拭った後なのか、綺麗ではあったが幾分青ざめた顔をしている。しかし、額の部分からは薄っすらと血が滲み、額からこめかみに掛けての髪が血でベッタリと汚れているのが遠目からもわかった。その側で屈み込む様にして執事のウォルターがセシルの体を白い布だったと思われる物で清めていた。側にあったタライの水は既に濁っていて、薄っすらと赤い。
そのさらに奥ではヨシュアと庭師のベンが同じように横たわったままピクリとも動かないシャロムの服を脱がせて血を拭っていた。
「ウォルター、何があったの?」
エリィが問いかければ、ウォルターは一瞬だけエリィの方を向いて頭を下げ、すぐにセシルに向き直って手を動かし始めながら口を開いた。
「馬車がバランスを崩し、川へと滑落したそうでございます。大きく曲がる所で車軸が壊れ、車輪が外れた、と」
「だいじょうぶなの?」
「……大丈夫です。坊ちゃまは馬車から投げ出された時に額を切ってしまわれたので酷くは見えますが、恐らく心配はないでしょう。足を骨折しているようではありますが、命に別状もなさそうです。今は身体を打ってしまったが為に意識を失っているだけと言ったところでしょうか。2,3日静養すれば回復されると思われます」
大丈夫だと言うウォルターの妙な言葉の間にエリィは引っ掛かりを覚えて眉間に皺を寄せた。確かにセシルは髪が血に濡れ、青ざめた顔をしてはいる物の呼吸に乱れは感じない。浅い呼吸でも途切れそうな呼吸でもない。だからウォルターの言うように大丈夫なのかもしれない。それならば何故なのか。エリィはセシルから目を離し、ヨシュアの背中の方へ視線を向ける。
「ウォルター、シャロムは?」
ヨシュアの体の向こう側に居るであろうシャロムの方へとチラリと視線を向けてそう言えば、ウォルターの顔が一瞬強張った。
「シャロムは無事なの?」
そうエリィが重ねて問えば、ウォルターは気まずそうに視線を反らした。
「……わかりません」
「なぜ?お兄様とシャロムは二人で帰ってきたのでしょう?お兄様が事故の時意識を失っているのなら、運んできたのはシャロム。そうでしょう?」
「仰る通りでございます。ただ……セシル坊ちゃんを守るためにかなり無理をしたようです。坊ちゃんがこの程度の怪我で済んだはシャロムが身を挺してお守りしたからだと思われます」
「怪我をしているのね?」
確認するように語尾を強めれば、ウォルターはゆっくりと頷いた。顔を上げてヴィスタと視線を合わせて軽く頷けば、ヴィスタは少しだけ考えるように視線を反らしたあと、諦めた様に溜息を一つ吐くとゆっくりとエリィをその場へ降ろす。そのままエリィがシャロムの方へと近寄ってみれば、シャロムの状態が嫌にでも目に入った。
セシルは多少青ざめてはいたものの比較的綺麗な様子だった。だが、シャロムは真逆と言っても良かった。顔色は青を通り越して白く、唇の色もとても健康的とは言えない紫がかった色になっている。男性としては嫌に綺麗だった顔もすり傷だらけで血が滲み、所々内出血の様な青あざがある。ヨシュアがベンと協力しながら彼の腹の手当てをしていたが、その腹以外の場所も顔と同じように傷だらけ、痣だらけだ。どれほど出血をしたのかと思うぐらい、寝かされていたソファーはシャロム自身の血で赤く染まっていた。セシルの側に居た時とは比べ物にならない位に血の匂いが濃い。それはまるで死の匂いと言ってもいい程だ。シャロムは側から見ていても息をしているのかわからないぐらいピクリとも動かない。まるで人形の様に力なく横たわっており、微かに胸が上下しているのに気付けなければ死んでいると勘違いしたかもしれない。
「ざっと見たところ、まずあばらと左腕を折っています。右脇腹は壊れた馬車の破片が刺さったのか、かなり深い刺傷があり背中まで貫通したようです。全身に滑落時の物と思われるおびただしい擦過傷、打撲痕もあり、正直立っていられたのが不思議な程の傷です。特に腹の傷から出血をかなりしているようで、その状態で坊ちゃんを背負ってきたため、玄関につくやいなや倒れました。先程までは意識があったのですが……事故の状況を我々に伝えた後、意識を失いました」
努めて事務的に告げるウォルターは、それでも表情から苦々しさが消えない。そのまますっと立ち上がるとウォルターはエリィに向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。坊ちゃまの怪我も、シャロムの怪我も全て私の責任です。馬車の点検が甘かったのです。何とお詫びをすればよいのか……」
思いつめた様に目に涙を滲ませ、強くこぶしを握ったウォルターにエリィは静かに首を振って見せた。
ウォルターに点検の不備などあろうはずがない。それだけはないとエリィは断言できる。彼は自分の仕事に誇りと責任を持ち、いつでも慎重すぎるほど慎重だった。その彼が大丈夫だと判断したという事は、馬車を用意した時は本当に何も不備はなかったのだ。彼が馬車に何か瑕疵や不安に思う事があれば、必ず別の馬車を用意して居た筈だ。ヨハンに政敵が多い事をよく知るウォルターはその点に関しては最大限の注意を払っていた。
だとしたら。これは馬車の整備不良による事故ではない、という事になる。何らかの細工がなされた、と見ていいだろう。
それならば。それは、何時行われたのか。
馬車に細工を加えることが出来るのはシャロムが城へ馬車を出した後という事になる。城で馬車を止め、そこでセシルとノエルを拾い、ディレスタの屋敷でノエルを降ろして医者を拾って再び馬車を出す。この間しか考えられない。その細工がされたのが城であったとしたら、狙いはノエルかセシルのどちらかだ。だが、一度こちらへ戻って来た時と考えるのならば、セシルを狙ったものだと考えられる。そしてそれを可能に出来るのはディレスタ家に居た者と考えるのが普通だ。その場合、疑うべきは最近ディレスタの家に入ってきた使用人になる訳だが、ノエルの受け入れと共に増えた使用人はそれなりに多い。城に居る者、屋敷に居る者、彼らの一人一人を疑いだしたらきりがない。それはわかっているのに、ぐるぐると頭の中はそんな事ばかりを考え、セシルやシャロムをそんな目に合わせた者たちへの怒りで押しつぶされそうだった。
「先生や、ブラスは?」
怒りで震えそうになる声を何とか抑えながらゆっくりと尋ねる。セシルとシャロムと供いた筈の医師や御者のブラスの姿が見当たらないのも気になっていたからだ。
だが、ウォルターは更に顔を歪めると首を横に静かに振った。
「シャロムは、坊ちゃんを助けるので精一杯だったと」
「そう……」
エリィは胸の前で合せていた手をぎゅっと握りこむ。無事であってほしい。そう強く思いながらも、それはとても望みが薄い事もわかっていた。普段から鍛えているセシルやシャロムですらあの怪我だ。医者と御者であるあの2人が無事であるとは到底思えなかった。
「何人か人をやっております。出来るだけの手は尽くします」
「……お願いね」
「畏まりました」
ウォルターは再び深く一礼をすると、丁度部屋に戻ってきたケイトにセシルの看護を、控えていた従僕たちに静かにセシルを部屋へと運ぶように命じた。そのままウォルターが部屋を出ていくのを見送ってから、エリィは近くにあるきれいな水が貼ってあるタライへと近づく。用意されている綺麗な布を水に浸し絞ると、シャロムの側に近づき跪いた。
一瞬だけヨシュアの顔が怪訝そうにエリィへと向けられたが、エリィがそのまま血と泥に汚れたシャロムの腕を拭き始めると黙ってシャロムの手当てへと戻った。
「シャロムは……大丈夫よね?」
近寄ればさらにわかる生々しい傷跡と、力ない体。それを目の当たりにすれば胸が詰まる思いがして、自然止めに涙が滲む。シャロムを失うかも知れない不安。それで胸がいっぱいになった。そのまま手の甲にこびりついた血の跡を拭いながら震えた声でそう問えば、ヨシュアは小さく頷いた。
「シャロムがこんな事で死ぬわけが無いよ」
何の根拠もない言葉だという事はエリィ自身も理解している。それでもその言葉に縋る様にエリィは涙をこらえながら頷いた。そうして黙々とシャロムの手を拭く。綺麗になった手を握りながら腕を拭き始めれば、僅かに手に生気を感じられて、本来ならば支えなければいけないのはエリィの方なのに、その手の感覚に支えられているような気分になった。そうして少しエリィが落ち着きを取り戻し始めた時、今まで傍観を決め込んでいたヴィスタがゆっくりと近づき、ヨシュアの側に立った。
「そんなに使用人が信用ならないか」
そうヴィスタが言えば、ヨシュアはチロリと一瞬だけヴィスタを見上げたあと、シャロムへと視線を戻してシャロムの腹に包帯を巻き始める。
「部屋に入れる使用人を制限しているな?」
続けて問われたヴィスタの言葉に、今の状況が極めて不自然である事にエリィは初めて気が付いた。使用人はたくさんいる筈なのに、この部屋に入れたのはケイトや執事長、おまけに庭師のベンと言う古参の使用人しかいないのだ。それ以外の従僕やメイドは廊下で掃除をしたり、用を言いつかるのを待っているだけだ。そもそも身分の高いヨシュアがベンと共に使用人であるシャロムの怪我の手当てをすること自体が不自然だ。
その事を指摘されてもヨシュアは眉一つ動かさず、当然と言った表情をしていた。
「使用人たちの中で身元のしっかりしていない者などおりませんよ」
何の感情も示さないような抑揚のない声でヨシュアは答える。その答えにヴィスタは面白そうに唇の片側を上げた。
「お前の考えは?」
そうヴィスタが重ねて問えば、ヨシュアは片眉をピクリと上げて挑むような不敵な笑みを浮かべた。
「城からここまでの道のりはほぼ平坦です。そんな場所で車軸が壊れようがせいぜい腰を打つ程度です。壊れずにそのまま屋敷へ着けば、その後の点検時にその細工は発見できたでしょう。そんな確率の低い、嫌がらせ程度の事、やりますかね?」
「それで?」
「確実に狙うなら平坦ではない道を通ると知っている時です。それを知るタイミングを考えれば明白です。兄さんは家に戻ってから、医者を送リがてら話をすると決めました。出る前に、医者の家が先日の雷の時に壊れた橋の近くだと言う話をしていましたし、それならば平坦な道ではない場所を通るとその話を聞いた者なら知っていたはずです。つまり、細工がされたのはこの屋敷に戻って来た後、この屋敷で、ですよ」
エリィが推理していたよりも先の所を、冷静に淡々と理詰めでヨシュアは語った。
「なるほど。お前が手ずから使用人であるシャロムの手当てをするのはその為か」
「事故の現場の方へも人をやっていますからね。残ってる中で信用が置けて使える男手は余り多くないもので」
「セシルは大丈夫なのか?」
「怪我もそれほど酷い訳ではないですし、ウォルターに任せて有ります。ウォルターとケイトが付いていれば人手が戻るまでの間凌げますね」
「面倒なことだ」
「本当に。身元がしっかりしている分、余計に信用が出来ない。笑い話にもなりませんが」
「……ヨシュア、何故私を見ながら言う」
「身元がしっかりしている分、余計に信用が出来ない。何故でしょうね?」
綺麗にニコリと微笑みながら言うヨシュアに、ヴィスタは渋面になって見せる。その普段通りのやり取りに、緊張のあまり詰めていた息を軽く吐き出して力を抜くと、ヨシュアはエリィの方を見てふわりと笑って見せた。
その笑顔にドキリとして、思わず顔を背けシャロムの方を見る。
「安心して。シャロムはきっと大丈夫」
励ます様にヨシュアがエリィの背中を優しく叩いた。今のヴィスタとのやり取りも、エリィの肩の力を抜くためだったと、初めてそこで気が付く。今朝あんなにもヨシュアを傷つけてしまったと言うのに、エリィを気遣ってただただ優しく笑えるヨシュアに後ろめたさを感じて、エリィは小さく頷いた。




