52. 矛盾
庭へ一歩踏み出して雲一つない空を見上げれば、太陽がかなり高い位置に来ているのがわかった。ぽかぽかと少し暑いぐらいの日差しは、春の陽気と言っても差し支えないだろう。過保護なケイト達に無理やり羽織らされたストールを半目で見ながら、エリィはそっとため息を吐いた。
「お嬢様、お疲れですね。やはりお部屋でお休みになった方が宜しいのでは?」
そんなエリィの溜息をスルーすることも無く拾い上げ、ケイトはニコニコと笑いながらそう言った。もちろん、そのため息の理由をわかっていながら、だ。
「今庭に出たばかりよ?これで戻ったら気分転換にもならないじゃない」
そうエリィが抗議をすれば、ケイトは少しだけ楽しそうに「そうですね」と答えて、手元のティーカップにお茶を注いだ。カップに注がれる軽快な音と共に、ふんわりと香ばしいお茶の香りがあたりに漂う。エリィは軽く目を閉じながらその音と香りを楽しみ、満足そうに少し微笑んだ。
「今日は良いお天気ね」
「はい。動いていると少し汗ばむぐらいで、洗濯物がよく乾くと洗濯場の者たちが喜んでおりましたよ」
「そう……少し汗ばむ、ぐらいね?」
エリィが確認するようにそう繰り返してチラリとケイトを見やる。それでもケイトはまるで堪えた様子もなく、ニコリと笑いながら「そうですね」と再び答えた。その様子に結局折れたのはエリィで、肩を一つすくめて諦めた様に持ち上げたカップへと唇を寄せた。
「やっぱり、退屈ね」
「ヨシュア坊ちゃんも学園へ行ってしまわれましたしねぇ」
「……そうね」
ヨシュアの名前を聞いた途端、今朝の事を思いだしてエリィは何とも言えない気分で少し表情を曇らせた。
「ケンカ、してしまいましたか」
そんなエリィの表情も見落とすことなく、ケイトは淡々とそう言った。しかしその声にはどこか手のかかる子供に掛けるような、優しい色が滲んでいる。
「早くお謝りになった方が宜しいですよ」
「別にケンカしてないわよ。私は悪いことなんてしてないもの」
「はいはい。坊ちゃんには私からもおとりなしさせて頂きますから。ちゃんと、お謝りになってくださいね」
エリィの言葉をまるで意にも介さず、ケイトはそう続ける。それはまるで不貞腐れている妹を宥めるしっかりした姉といった様相だ。そんなケイトを不服そうにエリィは僅かに口を尖らせた。
「私、悪くないもの」
「意地を張ってると後悔なさいますよ?私の経験上、坊ちゃんとお嬢様が喧嘩なされた時、そのほぼ9割がお嬢様が原因だったと記憶しておりますが」
「そんなに多くないわよ。それに、喧嘩じゃないって言ってるじゃないの。……喧嘩にすらなって無いし」
そう言って拗ねた様に憮然とした面持ちで言うと、エリィは再びお茶を一口飲む。その様子にケイトは仕方が無いなと言った面持ちで苦笑を返した。
小さなため息と共にカップをテーブルに戻した時、斜め後ろの方からガサリと少し乱暴に枝をかき分ける音がした。その音と共に人の近づいてくる気配がして、エリィはゆっくりと視線を投げる。
「出迎えか。ご苦労」
いる筈のない人物が庭の奥から出て来たというのに、エリィは驚きもせず眉を一つしかめただけで視線をカップへと戻す。そして相変わらず振り回されているイオル達を不憫に思いながら、また一口お茶を飲む。そんなエリィの横を当たり前のように通り過ぎて、ヴィスタは向かいの席へ腰を掛けた。
「ああ、ケイト。私にも一杯頼むよ」
勝手知ったると言った調子で片手を上げて言うヴィスタの言葉を、ケイトはニコニコと笑いながらギュッと拳を握りしめたのをエリィは見落とさなかった。ケイトの額にうっすらと青筋が立っているような気がするし、その目は全く笑っていないのは気のせいではないだろう。
「殿下、出禁でしたわよね?」
エリィはそう尋ねる。すると、ヴィスタは少し考え込む様にして首を傾げながら口を開いた。
「それは……ヨハンやセシル達がいる間だけ、だな」
何とも都合のいい言葉に、エリィは呆れた様に肩をすくめて笑った。
「そこに是非、私の名前も加えて頂けると嬉しいですわね」
「は?何を言っている。そんなことしたらリズと会えないだろうが」
「そもそも、そのための出禁では?」
「それは初耳だな」
エリィが言い募ったことろで、ヴィスタはどこ吹く風だ。そもそもエリィ自身もヴィスタの訪れを別に頑なに拒否して居る訳でもないので、ヴィスタにとってこのやり取りはただの言葉遊びの様な物なのだろう。
「学園はどうなさったんですか」
「イオルを代わりに置いてきた」
悪びれもせずにそう言いながら、ヴィスタはカップを持ち上げ優雅にお茶を飲む。今頃イオル達は必死にヴィスタを探しているかもしれないと思うとエリィは彼らが不憫でならなかった。もちろん、ご学友の立場であるフィリオ―ルとヨシュアも迷惑をこうむっているのは間違いない。そこまで考えた時、やはりヨシュアの事、今朝の事へと思考が回帰してしまい、エリィは表情を曇らせた。するとヴィスタは何を思ったのか、ケイトと黙って側に控えていたシャロムに下がる様に命じた。
戸惑うようにエリィを窺うケイトとシャロムに、短く『大丈夫よ』と答えれば二人は話が聞こえない程度の所まで下がり、それを確認するとヴィスタは口を開いた。
「シケた顔をしているな」
「人の顔に文句を付けないでいただけますか」
「珍しく随分とへこんでいるじゃないか」
「……珍しいとは失礼ですわね。私にだって人並みに落ち込むことぐらいありますわ」
イラついた様にエリィがそう言えば、ヴィスタは小馬鹿にしたように唇の片側だけ上げて笑った。そしてのんびりと足を組み替えると、椅子の背もたれに体を預け、ふんぞり返る様にして腕を組んだ。
「人並み、の定義が根幹から揺らぐ発言だな。そもそもそんな繊細な神経など持ち合わせていないだろう?」
「喧嘩を売っているおつもりですか?」
「何かあってもすぐに何事もなかったように、まるで鳥の様に記憶を飛ばすのは上手ではないか」
「喧嘩を買えとおっしゃっているので?」
「特にここ1週間程のリズはおかしい。そうだろう?」
サラリと告げられた言葉に、エリィは思わず息を飲んだ。そしてその言葉の裏を探る様に、ヴィスタの顔を見る。ヴィスタはと言えば、相変わらずふんぞり返ったままで、いつもの馬鹿の仮面もかぶっておらず、その鋭い視線をエリィへと投げた。
「……おかしいという主観で語られましても、私はいつも通りとしか答えようがないですわ」
エリィはその視線に促されるように、何とか返事をひねり出す。そんなエリィの言葉を、ヴィススタは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「主観、ね。そう言う事にして流してやってもいい」
吐き捨てるように言って視線を逸らしたヴィスタに、エリィは違和感を感じて少し首を傾げた。いくら馬鹿の仮面をかぶっていないとはいえ、いささか様子がおかしいような気がしたのだ。
「……リズは」
眉間に皺を寄せ、考え込むように目を閉じたままヴィスタはそうひと言発したまま押し黙った。そのらしくない様子ともの言いに戸惑い、エリィは不安そうにヴィスタの顔を窺った。
「どう……したのですか?」
遠慮がちにそう問えば、ヴィスタはチロリとエリィを見た後すぐに視線を外し、大きく息を吐いた。まるで自分を落ち着かせるかのように静かに息を吐き、口を引き結ぶ。そうして一瞬だけ唇強く噛んだ後、何事もなかったかのように表情を和らげて座りなおした。
「モノの事なんだが」
勤めて明るい口調で言うヴィスタに尚更違和感を覚えて、エリィは眉をひそめた。
「モノになにかあったんですか?」
「……なんだ、覚えているのか」
「はい?」
ヴィスタのその言葉の意図が理解できずにエリィは首を傾げた。
「だが、昨日のリズはモノを覚えていなかった。違うか?」
「そんな訳ないでしょう?覚えてますわ」
食い気味にエリィが答えると、ヴィスタはニヤリと笑う。
「だとしたら、酷くらしくないな。自分が関わりあった好意を寄せている者に対して1週間以上もなにも尋ねないのは」
「たまたまですわ。ずっと聞こうと思っておりましたもの」
「昨日は望めば会う機会もあったのに?」
意地悪く笑いながらヴィスタが言う。
「それはっ……」
話が出ないのは当然だ。だって、あの日のエリィはまだモノに出会っていなかったのだから。だがそれをヴィスタにすんなり話すという訳にもいかず、エリィは動揺したように目を泳がせた。
「殿下が怒らせるから、うっかりしていただけですわ」
「モノの事だけじゃない。……昨日も言ったはずだ。遅かったな、と」
ヴィスタが何を言いたいのか真意が掴めず、エリィは考え込む。確かに遅かったとはヴィスタは言っていた。だが、それがそれほどまでに重要なことだとは思えず、エリィの思考はますます混乱した。
「そこまで遅かったとは思いませんが。翌日には伺った訳ですから」
「昨日のリズの考えたことはこうだろう?【何故、あらかじめ忠告してあったにも関わらず塔を指定したのか】そうだな?」
「ええ。そうですね」
「では、私の昨日の考えを言おう」
「はい?」
「何故それを一昨日の茶会の招待の時点で思わなかったのか、だ」
「それは……」
「一昨日の考えも言おうか。何故リズはあえて塔を指定した私を、何か考えがあるのではないかと考えなかったのか、だ」
淡々と告げられるヴィスタの思考にエリィは思わず苦虫をかみつぶしたような顔になってしまった。訝しがらなかった理由など簡単だ。何故ならあの時点のエリィは、ヴィスタが3月2日に塔から落ちて死ぬという事を知っているとは思っていなかったからだ。だから、さもいい考えのように発言したヴィスタの言葉をただ否定しただけなのだ。
「……あの場で下手に詮索するわけにもいかなかったでしょう」
「そうだな。そして塔を断られて、さも落ち込んだ様にして見せた私にリズは謝った。そうだな?」
「そう、でしたっけ?」
「ああ。らしくないな。非常に」
意味がわからずエリィは眉間に皺を寄せて考える。そこまでおかしい事を言ったのだろうか。話の流れ的には問題ないのではないかと、やはり首を捻るしかない。
「あの時のリズなら、私が落ち込んでいるフリをしている事に気付いた筈だ。その私に他の者に気を遣いながらたかが茶会の場所ごときでこっそり謝るなど、らしくない。そう思わないか?」
「思いません。無理に場所を変えて頂いたのですから謝罪は当然でしょう?」
「ああ、当然だな。その流れは、な」
ヴィスタがニヤリと笑って見せる。ヴィスタが何を言いたいのかわからずにエリィは更に混乱した。ヴィスタの言うエリィの行動にそこまでおかしい点は無い筈だ。実際ヴィスタ自身も当然だと言っている。だがエリィの頭の中で何かがおかしいと警鐘を鳴らしていた。
「当然なら、問題ないでしょう?下らない言葉遊びはお止めになってくださいな」
「もちろん、問題は大アリだ」
話を打ち切ろうとしたエリィの言葉を、ヴィスタはにべもなく跳ね除けた。そうして軽く右手を上げるとその人差し指をエリィに向けてスッと伸ばした。
「あの時リズがこっそり私に言うべき言葉は一つしか考えられない。それは、謝罪でもなんでもなく”何故塔なのか”それだけだ」
「謝罪するのは流れ的におかしくないと言ったばかりではないですか」
反論するようにエリィが言えば、ヴィスタは同意するように頷いた。そして大げさに肩をすくめて両手を広げた。
「ああ、おかしくない。だが、それがおかしくない条件は一つしかない。リズが私に先見の結果を伝えていない場合のみだ」
再び酷く真剣な表情になったヴィスタは軽く握った拳でテーブルを静かに打ち、エリィを真っ直ぐに見つめたのだった。




