3. まだ見ぬ親友の為に
「起きたのかい?」
優しく髪を撫でる感覚と、柔らかな朝の光に誘われて、薄く目を開ける。カーテン越しに朝の光を取り入れた部屋は少しだけ薄暗く、物寂しい雰囲気だった。けれど、髪を撫でる優しい手と、身近に感じる暖かい体に妙な安心感を覚え、エリィはふにゃりと微笑んだ。
「兄さま、おはようございます」
ゆっくりと両手を伸ばし、セシルの背中に腕を回すと、エリィは頬を胸に摺り寄せるようにして抱きつく。頭の上からはセシルの少し呆れたような溜息と笑い声が漏れて、エリィはつられるようにクスクスと笑い、セシルの顔を見上げる。
「兄さま今心の中で、私を子ども扱いしたでしょ?」
悪戯っぽくエリィが問いかけると、セシルはプッと吹出すようにして笑う。
「もうっ、兄さまったら!」
「おや、私はまだ何も言っていないよ」
取り繕うように澄ました顔をして見せるセシルの脇を小さくつねるとエリィは少しほほを膨らませて唇を尖らせた。すると、セシルは降参だというように小さくごめんごめんと謝り、笑いながらエリィの頭をなでる。その心地よい感覚にエリィは目を細めて笑った。こういう時はいつも、エリィはまるで自分が猫になってしまったかのような感覚になる。
「さぁ、いったん部屋にお戻り。朝食まではきちんと身支度を整えるんだよ」
まるで父親のようなセシルの言葉にエリィは渋々といった感じで「はぁ~い」と返事をして体を起こした。そしてベッドの脇に腰を掛け軽く手櫛で髪を整える。その後ろからセシルは己の上着をエリィの肩に掛けた。
「朝はまだ寒いからね。着てお行き」
「もぉ~……すぐそこなんだから、大丈夫なのよ?」
そんな甘ったるいやり取りをしながら部屋の外へのドアを開けると、そこには不機嫌さを満面に押し出した美青年が壁にもたれ掛かるようにして待っていた。
「あら、殿下。おはようございます」
左程驚いた様子もなくその殿下と呼ばれた青年の前をエリィが通り過ぎようとすると、更に不機嫌さを増した美しい顔がエリィの進行方向をふさいだ。
「”殿下”じゃない。ヴィスタと呼べと言っているだろう」
「そうでしたわね。ヴィスタ様」
「……リズ、君は私の婚約者だと言う自覚はあるのかい?」
「ない」
間髪入れずに即答すると、青年は一瞬押し黙って眉間に深くしわを刻んだ。
エイリーズの事をリズと呼ぶ、黙ってさえいれば見目麗しい青年は、この国の第一王子ヴィスタ・ティルノ・エルクール。一応対外的にはエイリーズの婚約者となっている。あくまで対外的には、だ。
大事なことだから2回言いました。
この国の王位第一継承者である彼は10に満たないころから釣書攻めだった。次期王妃を決めるためにそれはもう凄い数の見合いが舞い込んだらしい。だが彼は、元来神経質とも呼べるぐらい警戒心が強く、少女たちの親はともかく、悪意や欲のない少女たちですらも警戒して口すら聞こうとしなかった。そんな中、エリィが呼ばれたのは本当に最終手段と言っても良かった。何故なら、エリィの兄であるセシルはその時すでに第一王女と婚約していたからだ。一つの家から王家とのつながりを2つも持つのは権力の平均バランスからしてもあり得ないと言ってもいいぐらいだった。所がめぼしい令嬢との見合いを全て蹴った彼は最後にこう言ったのだ「ディレスタ侯爵の所にも令嬢が一人いたでしょう?私は彼女以外とは婚約しませんよ」と。
全くはた迷惑にもほどがある。
全くはた迷惑にもほどがあるったら!
大事なことだから2回言いました。
別に彼はエリィに一目ぼれしたとか、そんなロマンティックな話では決してない。王子に会う前まではエリィもそんな風に夢を見ていた時期もありました。”淡い初恋とか素敵……ポッ”何て具合に。ところが王宮のガーデンテラスにて個人的なお茶会と言う名目で見合いに駆り出され、大人たちが居なくなった時に王子はとんでもないことをいいやがったのだ。
「お前、大人になる前に死ぬらしいな」
流石のエリィもその台詞に目が点となって呆然とした。いくら死ぬことが分かっているとはいえ、赤の他人に確認されるようなことではない。
「はぁ……まぁ、そうですわね」
そう間抜けな感じで答えるのが精一杯だった。人のデリケートな話題にズカズカ踏み込んできた小僧を怒鳴り飛ばさなかった自分を褒めてやりたい、と後々エリィはヨシュアに愚痴をこぼしたのは言うまでもない。そんなエリィに追い打ちをかけるように王子は言ったのだ。
「どうせ死ぬなら、私が気に入る令嬢を見つけてから死んでくれないか。それまでは次期王妃として贅沢させてやる。だから私の虫よけになってくれ」
清々しいまでの傍若無人っぷりを発揮して、王子はにっこりと笑った。この王子の腹黒な部分はゲーム内でももちろん健在で……あ、そうそう。この王子も攻略対象者なのだ。前世でのエリィはこの王子が大嫌いだった。そもそも、腹黒ってただの隠れ人格破綻者でしょ?っていうのがエリィの見解な訳である。
「つまり偽の婚約者になれと言っているのだが。もちろん、他言無用でね。返事はもらえないのかな。エイリーズ嬢」
エリィの立場で断れるはずもないのに爽やかな笑顔で言ってくる小僧を呆れたように見つめ、エリィは冷めた紅茶を一口飲んで立ち上がった。その手には紅茶のカップを持ったままだ。
「確かにわたくしは殿下が生涯添い遂げる方を見つけられる頃、17歳ぐらいでしょうか。その頃に死にますわね」
「……?」
まるで予言のようなエリィの微妙な言い回しに気付いたのか、王子は訝し気に眉をひそめて見せた。カップを手にしたまま立ち上がり小さなテーブルを大きく避けるようにして歩み寄るエリィ。その表情は無表情で、ただでさえ儚げで綺麗な顔はまるで生き物ではないかのような冷たさを感じさせ、王子は微かに顔をこわばらせた。
「わたくしはノエルを悲しませたくないのでその役目、お引き受けしましょう。親友ですもの、当然です。ですが、その性格は直していただかないと困りますわね?ノエルを泣かせたくはないですから」
エリィは半ば義務感のようにそう言った。王子は初めて聞くその名に戸惑いの表情を浮かべている。もちろん、今現在のエリィには親友どころか、友達すらいない。だが、17歳になれば転入してくる主人公のノエルはエリィの生涯ただ一人の親友になるのだ。ゲーム内のエリィと同じく内気で大人しい彼女は、エリィとはすぐに打ち解け、大切な親友になる。だからこそ、エリィの周りに居る男性がそのまま主人公の攻略対象となっているのだ。
主人公のノエルは本当に健気な子だった。優しく、誰にも媚びることなく、男女関係なく真摯な対応をして、意地悪されようとも誰にも文句を言わずに一人で乗り越える芯の強さも持っていた。それこそ王子ルートでエリィが存命中はエリィの為に仄かな恋心を捨てるのだ。エリィが死んだ後も決して王子に媚びず、むしろ気付いたら囲い込まれてたってパターンが王子ルートだったりする。エリィの穴を主人公で埋めようとした王子を拒絶して、エリィの為に医師を目指す主人公の凛とした美しさに王子は惚れる予定だったりする。だから、王子の性格矯正は早ければ早いほどいい。ルート的には問題なさそうに見えるが、囲い込むまでの段階で王子は主人公を何度も泣かせるのだ。やり方がえげつないのはひとえに人格の表れである。エリィも前世では主人公になりきって良く泣いたものだ。あの辛さを未来の親友に体験させるなどもっての外だ。
「もう少し人の心と言う物をお考え遊ばされませ?立場の弱い者なら虐げても、バレなければ良いと言う今回の言動にはいささかガッカリ致しました」
スッとエリィは片腕を伸ばすと、カップに残っている紅茶を座っている王子の頭の上からぶちまけた。一瞬王子は呆けたようにキョトンとしていたが、直ぐに顔を真っ赤にさせると立ち上がり、エリィの無礼を非難しようと口を開きかけた。その王子の口にエリィは素早く人差し指を当てる。
「私は王子の無礼を告発できません。そんな立場にないですから。でも私も王子のように自分の切札と外面を利用して上手く取り繕うことは得意なんですよ?上には上がいるって教えて差し上げますわ」
そう言ってニヤリとエリィは笑い、テーブルをひっくり返した。ガーデンテラス用の小ぶりなテーブルはさほど力が無いエリィでも簡単に押し倒せる。テーブルの上にあった茶器が派手な音を立ててバルコニーの床に叩きつけられ、割れて四散した。そのままエリィは床にコロンと寝そべって見せる。その奇怪な行動に王子は怒るのも忘れてただ口を半開きのまま呆然とエリィを見た。
茶器の割れる音、テーブルがひっくり返った音、それは人払いをしていても従者たちを呼び寄せるには十分な音だった。従者どころかエリィの父親である宰相や、王や王妃、そして王子の姉である第一王女までもが何事かと慌ててやってきたのだ。そうした彼らが見たのは、ひっくり返ったテーブルと割れた茶器、お茶まみれになっている王子と、倒れている小さな少女。
金縛りにあった様に皆一様に動きを止めた。が、すぐに我に返って駆け寄ったのは宰相であり、エリィの義父であるヨハネだった。
「エリィ!」
いつもの柔和な笑みの消えた彼の表情は誰が見ても青ざめていた。その声と同時に王も王妃も慌てて駆け寄る。
「お父様……」
ヨハネに抱き起されたエリィは軽く胸を押さえ堪えるようにして小さく息を吐く。その儚げな様から、今にも消えてしまいそうな危うさを湛えていた。
「エリィ、発作がでたのだな?」
「ごめんなさい、お父様……。私を婚約者にすると突然殿下が立たれたのに驚いてしまって……。茶器も割ってしまったわ」
瞳を伏せるようにしてエリィが小さく謝ると、ヨハネはエリィをぎゅっと抱きしめながらも王に向かって頭を下げた。
「陛下、申し訳ございません。娘が失礼をいたしました。ですが、やはり娘は王子との婚約など無理なのです。ご容赦くださいませんか」
元々気乗りで無かったヨハンが今すぐにでも退出しそうな勢いで頭を下げると、逆に王が焦ったようにあたふたとしだした。
「ま、まて、ヨハン。エイリーズ嬢の病を知りながら配慮に欠けたわしらが悪かったのじゃ。王子にもっと慎重に行動するように言い聞かせるべきであった。これ、ヴィスタ!エイリーズ嬢に謝らぬか!」
「えっ?何で私が……」
「ヴィスタ!なんてことしてくれたのよ!セシルの可愛い妹を驚かせるなんて!これでセシルに嫌われたら絶対に絶対に許さないんだから!さっさと謝りなさいよ!!」
セシルにベタ惚れな王女は弟王子に凄い剣幕で怒鳴りつける。普段の楚々とした姫様っぷりが裸足で逃げ出す勢いだ。
「し、失礼なのはエイリーズ嬢の方でしょう?」
それでもくじけずに半ば怒る様にして王子が声を上げると、ヨハンが急いで王子に向かって頭を下げる。
「もちろんでございます。ですから、これ以上失礼を致しませぬように、娘と共に下がらせていただきます。この罰は後ほどいかようにも」
「ヨハン、お待ちになって。ヴィスタも悪気はなかったのです。許してくださいね?……ヴィスタ、か弱い令嬢に何という態度。母はとても恥ずかしいです」
前半は努めて優し気に、後半はそれはもう恐ろしく低い声で発した王妃がギロリと王子を睨むと、王子は蛇に睨まれた蛙のように青ざめた表情でごくりとつばを飲み込んだ。
「ご、ごめんなさい……」
こうしてエリィとヴィスタの最初の出会いは、エリィの完全勝利と言う形で決着がついたのだ。
そもそも10にも満たない子供と、前世を合わせれば20を余裕で越えるエリィとでは最初から勝負になるはずは無かった。それからも何度かヴィスタはエリィに立場を笠に着た行動で屈服させようとチャレンジをしたものの、ことごとく敗れる結果となった。
そうして、いつの間にかヴィスタはエリィの予言よりも随分と前に恋をすることになる。儚げで、妖精のように美しいのに、中身は気が強く、王子の自分を罠にはめることも厭わず、一向に勝てない、兄の前だけ蕩ける様な甘い顔になる人間臭い少女に。
この時の事をヴィスタは後悔してもし足りないぐらいだった。この出会いの仕方さえなければ、もう少しエリィが己に対して好意を持ってくれたのではないかと思ってしまうからだ。
「リズ……自覚を持ってくれ。いくら兄とはいえ異性の部屋で一夜を明かすなどあってはならないだろ」
額に手を当てながら、感情を抑え気味にヴィスタが言うと、エリィはチロリとヴィスタを見上げて小さく舌打ちした。
「こら、エリィ。殿下に失礼があってはいけないよ」
セシルがやんわりと咎めると、エリィは途端に眉尻を下げ口を尖らせる。その仕草は子供っぽくてとても愛らしい。
「殿下、妹が申し訳ありません。ですが、体が冷えてしまうといけませんので部屋に戻しても?」
エリィの代わりにセシルがヴィスタに頭を下げて、尤もらしい理由をつけると、ヴィスタは渋々と言った面持ちでエリィの前から退き、道を開けた。が、すぐにセシルに見せつけるようにエリィの肩を抱く。
「私がリズを温めてやろうか?」
「大きなお世話ですわ」
左肩に回された手をペチペチと叩きながら、エリィはにべもなく却下する。それでもヴィスタは一向に堪えたそぶりも見せない。何故だかセシルの額に青筋らしきものが浮かんでいるのも見逃せないところだろう。
「殿下。なにか御用がおありになったのでは?ですから、使用人ですらもまだ休んでいる早朝のお越しだったのではないですか?父に話がおありになるのでしたらお供させていただきましょう」
口元をひくつかせながら笑顔を見せるセシルをヴィスタはフンと鼻を鳴らして一瞥した。セシルの言葉には言外に常識外な早朝の訪問への非難が込められていた。
「私の愛する婚約者殿の顔を見に来ただけだが?たまには早朝の寝起きの顔を見るのも良かろう?」
「……ハハッ」
セシルを牽制するつもりでヴィスタが放った言葉は、彼の腕の中に居る少女の小馬鹿にしたような嘲笑で叩き落された。その様子に今度はヴィスタが額に青筋を立てながら、腕の中の少女を見やる。
「何を笑っている」
「いえ、別に?朝から殿下の渾身のジョークに思わず声が出てしまっただけですわ」
「お前ホントに性格悪いな」
ツンと澄ましたエリィにヴィスタは呆れるようにして、セシルに聞こえない程度の声でボソリと呟いた。その言葉を聞いたエリィはヴィスタにニヤリと笑って見せる。もちろんセシルには見えない位置で、だ。ヴィスタはもちろん褒めて言ったわけではないのだが、エリィはいつもこういう時には勝ち誇ったように笑う。その度にヴィスタはエリィの”上には上がいるって教えて差し上げますわ”という言葉を思い出すのだ。
「殿下。体が冷えれば障りがあります。どうか、ご遠慮いただくことはできませんか」
声音に不安げな色を混ぜてセシルが言えば、ヴィスタは少しだけ逡巡した後、名残惜しそうにエリィの肩に回した腕を下ろした。表面上は元気に見えても体が冷えれば熱を出し、寝込んでしまうことも多々あるエリィに無理は厳禁であるとヴィスタも知って居るからだ。
「セシル、茶を出せ。今日は私がリズを学園に送っていく。それまで待たせてもらうぞ」
腕を組み、憮然とした面持ちでヴィスタが言うと、セシルはホッとした様に表情をやわらげ、エリィに”早く部屋に戻りなさい”と目で促した。それを横目で見ながら小さく頷き、ヴィスタに向かって少し腰を落として頭を下げた。
「それではヴィスタ様、失礼させていただきますわ」
にっこりと微笑んで淑女の礼を取るエリィをセシルは満足そうに眺めたが、ヴィスタの方は不満げに視線をそらした。逆に、エリィはヴィスタの表情を見て、愛し気に目を細めた。自分の思い通りにならないと、すぐに不満を顔に出してしまうが、その抜けきらない子供っぽさが微笑ましかったからだ。ゲーム内での彼は温和そうな顔を崩さずに裏では多少強引でも自分の思うように事柄を決める悪癖があった。それは彼が腹黒と呼ばれる所以となった部分だ。でも、エリィが教育と言う名の調教でヴィスタの腹黒はすっかりなりを潜め、今ではツンデレ王子の名を欲しいままにしている。ここまでくれば、主人公が王子ルートに入っても、酷い目には合わせないのではないかとエリィは感じていた。自分に向けてくれるようなむず痒い好意を、素直に主人公に向けることが出来るであろうと予想できたからだ。
主人公が王子ルートに入ると言うか、ここまでエリィに執着を持ってしまったヴィスタが主人公ルートに入ることなどもうあり得ないという事にも気付かないままに。