自己完結
嫌な死に方、というのは誰にでもあるのだろう。
私の場合は、転落死だ。落ちてからすぐにくる心臓が縮こまる圧迫感、鼓動の音を掻き消す耳を切るほどの風の音、急激に近づく地面、地面すれすれの光景(冷たいコンクリートにぶつかることが多くて失笑する)、衝突してから脳内に響くプツンという音。
そして休む暇なく私は現実の世界へ引き戻される。死んだ記憶をしっかりと刻み込まれて。乱れる呼吸、ドラムを叩くような心臓の音、季節限らず汗は止まらず、脇の汗が流れて脇腹を伝る。金縛りにあっているわけでもない、しかし私は動けない。乱れた呼吸を落ち着かせるために、下唇を噛む。血が出るほど痛く噛む。そうして私はやっと、この痛みでここが現実だと理解できるのだ。
だから私の唇の内側はボロボロだ。口内炎止めが欠かせない。友人に噛み合わせが悪いのではと心配されたこともあるが、本当の原因が悪夢である。この歳になっては恥ずかしくて言えたものではない。子どもの頃は高いところが好きだったのだが、今ではすっかり高所恐怖症だ。駅のホームも怖くてたまらない。私はいつもホームの真ん中で電車を待つ。吸い込まれるような気がしてならない。
それでも私はそれと似たような場所に居合わせなければならないこともある。小学校の先生なのだから、生徒はどうしたってどっかに行くのだ。そして、例えば木登りでもして降りてこられなくなった生徒が泣き喚いて助けを求めたとき、私はどうしても助けに行かなければならないこともある。
その時私はどうするか、唇を噛むのだ。
これが夢なのか現実なのかを確かめる意味でも、だ。
痛みとともに血の味を噛みしめて、ようやく私は落ち着ける。
失敗したら、最期だと確認できる。
ある時の夢の世界で、誰かにナイフで刺されても死ななかった。痛みも感じずに鈍い衝撃があっただけ、やがて生温いものを感じ、ようやく私は背中から何かが流れ出ていることに気づいた。そして背中から流れる液体に手で触れ、眼前にしてようやくそれが赤い血液だとわかると、思わず舐めて味がせず、そして私は雄たけびをあげた。明らかな矛盾を見つけた。脳みそに強烈な一撃を食らわせることができた。
そして、初めて気持ちよく悪夢から目覚めることができたのだ。
が、そんな経験は一度しか与えてくれなかった。
しかし、私は決定打となる最大のルールを手に入れたのだった。
痛みが伴わなければ現実ではない。
夢の世界では痛みを伴わない。
そして、転落死でなければ、私はこんなにも晴れ晴れとして私は夢から覚めることができるのだ。
だが、今までその下唇を噛むという方法を夢の世界で試したことはない。夢の世界にいる私がその方法に気付けない、ということもあるが、気付いたとしたら、私は試せるだろうか。
それはまた次の機会に持ち越されるのだが、悪夢など見なければいいと思う。
朝食のロールパンを齧りながら考えた。
転落死と満月には何一つ関連性がない。
もちろん、夢の中で私に嫌な思いをさせるあの少女を助ける義理など一つもない。
それでも夢の中の私は助けている。考える暇もなく身体は動いている。それは、満月の下で少女が今にも死ぬ瞬間に、私はその瞬間に出会ったときすでに、少女の変わりに死んでいる。
現実で本当に出会ってしまったら私はどうなっているのだろうか。
そんなどうでもいいことを何度も考えさせる。現実の世界で満月を見ると、そんな考えが浮かんでくるのだ。
だから、私は満月が嫌いだ。
まだ少女の姿が脳裏に焼き付いている。顔ははっきりと覚えていない。しかし、表情は覚えている。性格も初めて現れたときから大して変わっていない。遠回しな言い方ばかりをして、私を苛立たせる性格など、ちっとも変わっていない。
だが、どうしてだろうか。何かが違った気がする、今回は。だが、うまく思い出せない。
―消えていった水の音はどこへ消えていった?―
そんなもの、すべて私の全てへだ。
自己完結で終わる夢の世界の水の音など、すべて私の血潮に還るに決まっているではないか。
昔、夢の中で少女と海に落ちたこともあった。私は抱きしめた少女を助けたいために私は岸まで泳ごうとした。だが少女は海からで空へ飛び上がり、私を見下ろしながら一人で岸まで向かっていた。
私はそこで諦めた。ああ、夢なのだ、と。
安堵感もあったが、結局は海の底へ沈んでいっただけだ。
転落死。水の中であるだけ、ゆっくりと落ちていった。
今回は、覚えていない。海に落ちたあと、どうなったのかを。
頭が重い。今日の目覚めは、最高に悪い。
だが、見捨てたいとは思わないのだ。なぜか。
やはり、夢だからだろうか。あの世界が。
そして、私は今日も夢の世界のでの安楽死を考える。
私にとっての安楽死とは、やはり誰かのために死ねる、ということに尽きるのだった。
だけれども、少女に出会いたくない。