海と満月
海から振り返れば堤防があり、その先に林が見え、私が先ほどいた教室の景色はすっかり無くなっていた。左右を見渡せば林は海岸に沿って弓なりに林立して見える。この林を抜けた先にあるであろう町。その防風林としてあるものではないかと思ったが、全く確証はない。ただ理解したことは、私が初めてこの世界に来た時の入口は、もうないということ。たとえもう一度現れたところで、私は全く違う空間として感じるに違いない。と、思いたい。
砂浜の色が妙だな、と思った。黒い、月明かりを全て飲み込む黒さの中に、しかし時たま、吐き出すように点として光を放つところがあった。あちらこちら光っては消え、同じ場所は二度と光っていないようにも見えた。が、すぐさま波が届くか届かないかの波打ち際で一定に瞬く光が見え、そこへ私は近づいて行った。
砂地は固い、ゴム製のサンダルから冷たさも伝わってきた。笛を鳴らして風が海から吹き、冷たさをさらに強くした。冷たい風だが、この世界の湿り気のある生温い暑さに私は顔が少し汗ばんでいた。砂が汗に交じり、顔に引っ付き、手で払おうと触れると消え、始めから砂なんてものはなかったように思えた。やがて汗そのものが無くなっていた。未だに有り続けるのは、海と砂浜と満月と私だけのように思え、足を止めて振り返れば先ほどの防風林は無くなり、堤防が見えその先にぼつぼつと街灯の灯りが見えるだけだった。
浜辺に足跡は見えず、光る場所も見当たらない。
前を向けば目指していた場所は見える。だが、先ほどより近づいているようには思えなかった。
思い出すと、光り続ける場所への距離は短かったはずだ。十数歩で着くはずだった。いや、手を伸ばせば取れるほどの距離だったかもしれない。
それよりも、海はいつの間にか引き潮になっており、満月はどこにも見当たらなくなっていた。
私はこんなことでは狼狽えない。狼狽えれば、悪夢はさらに襲い掛かる。何もかも疑い持ち、何一つ確証が得られぬ心境になってしまえば、矛盾も見つからなくなる。
こうした経験は何度もあったのだ。つまり、この世界での時間が驚くほど早く過ぎたにすぎない。
いったい、どれくらいの時間が過ぎたことになったのだろうか。
不思議ではないし、矛盾でもなんでもないことだ。夢の世界でよくあることだから。夜から昼という分かりやすい変化であっても、昼になれば私は昼の私に順応している。そして、そこに私は全く違和感を覚えない。だって、昼なのだから。
もしかして私は先ほどまで昼の世界にいたのかも知れない。けれども、それはない。未だ、私の記憶は途切れていない。私は確かに夜の海で浜辺の一つの光に近づこうとしていたのだ。それは紛れもない真実、自分の行動事実を肯定できぬようになってはいけない。
だから、こんなことで私はうろたえたりしない。間違い探しは現在の絵と現在の絵を見比べなければゲームにならず、過去と現在の間違い探しなど、間違いにはならない。これは私が夢の世界で手に入れた二つ目のルールだった。
簡単に脳に言い聞かせる。構うな、今だけを見ろ、と。
今すぐ起きるありえない矛盾、それがあれば良いのだが、悪夢も私の脳みそに住み着いている。学習している。
では、どうすれば規則性もなく変化する夢の環境で現実へ抜け出せるほどの間違いを探すことができるか。このことを強く私は確認しなければならないのだが、まだこの夢の世界について私はほとんど何もわかっていない。次にとるべき有益な方法はいくつもあるのだが、とりあえずただ身を任せ、しかし狼狽えずに行動し、見極めなければならない。
黒い空を見上げると、満月がありありとあった。だが、初めて見た時よりも小さく見えた。むしろ、初めてこの世界で見た満月の大きさがでかすぎたのではないかと感じる。
―満月には気を付けて……―
穏やかな海から風が吹き、灯油の臭いがした。
満月はやがてさらにさらに小さくなっていき、ピンポン玉ほどの大きさからゴマ粒ほどの大きさになった。そしてあざ笑うかのように点滅し始めたかと思うと、背後から誰かが固い地面を駆ける足音がはっきりと聞こえた。
歩幅がやけに短いと、すぐに分かった。
何度も聞いたこの足音は、私は知っていた。最悪だ。
今すぐにとっ捕まえてやりたい。
ちくしょう。
そして満月だ。空を見上げれば近づいてくるように少しずつ大きくなっている気がする。
いや、近づいている。浜辺に向かって落ちてくるのではないかと思うように、最悪すぎる。
思い出したくもない、夢の終着点はもうすでに見えているではないか。灯油の臭い、ではなく、ガソリンの風。
衝突による摩擦熱。海も燃えるものがあれば燃える。夢でもなんでもない、現実だ。
だが、それよりも恐ろしいものは、まだ見えない。
想像してはダメだ。こればかりは、何度も経験した。すぐに揃ってしまう、悪夢の部隊が。
何を悲観的になっているんだ。私らしくもない。戸惑わされてはいけない。だけれども、だけれども。
早く逃げなければ。さもなくば、最悪の目覚めになってしまう。
初めて手に入れたルールは、このままエンディングを迎えれば最悪の目覚めになってしまうということ。
ちくしょう。風が冷たいのに空気は生ぬるい。
この風は、私の最悪の最期に感じるときの風に似ている。
「人間の最期は発火することをご存じ?」
あいつがそう言った気がして、私は思わず振り返った。
が、いない。