始まり
訪れたこともない広間、空間。折りたためる長机に三つの木製の椅子がセットとして置かれ、その全てが広間の前方に姿勢が向かうよう設置されている。LEDの白色蛍光灯、黒板、教卓(だろうか?)、だけれどもここは私の知らない場所だ、五感では受け取れない違和感。そして私はどのようにこの広間に侵入したのか、そのことを全く覚えていない。
窓もなく両端を囲む白い壁、前方左手に見えるのは白い壁を四角く切り抜いたもの、それがこの室内から外へ繋がる出口だとすれば、振り返れば同じような切り抜きが見えるはずだと思い、
振り返れば夜の海が広がっていた。
やがて這いずる波の音が聞こえてきた。
そして満月がでかでかと輝いていた。
すると、背後から強い風に吹かれ、潮の匂いがした。
後は、先ほどまでいたはずの教室は消失していた。
だけれども、私は何一つ混乱することなく、全てを受け入れて水平線と満月に見惚れていた。黒板にでかでかと赤いチョークで「REDRUM」と書かれていた、気がするが、そんなものがあったかも覚えていない。先ほどまで私は先生の板書をノートに書き写すことで他に何も考えられなかったはずなのだが、逆から読めば「MURDER」、殺人者という意味の英単語をそんなに使うだろうか。
いいや、私は今は社会人のはずだった。学生時代は十数年も前に終えたはずなのではなかっただろうか。だけれども、見れば見るほど、私は学生服を着ており、違和感がまるでない。
あるとすれば、私は海が、特に夜の海が大嫌いなのに、だから学生時代に私は海に一度も来たことがないにも関わらず、私は見覚えのない海にいることだ。
そうして学生服のまま夜の海にいることに不快感を感じた私は、記憶の最後が自室の寝室で寝間着を着て布団に横になったことを思い出して、ようやくこの世界が夢であると分かった。
夢、と分かればなんてことのない。
幻想的な夢の始まりは、常に奇怪な情景の断片から始まる。私はそのことを夢の世界で学習していた。
どうすればいいのか、と反射的に思うそしてすぐに、私は幾度ない経験から、この夢からいち早く覚めるための手順を知っている。
方法は幾つもある。もっとも簡単なことは、現実との矛盾を探せばいい。決してありえないことに気づけばいい。そうしてこの夢の世界を否定すればいい。そうしてそれはこの夢の世界の一部となっている私が、この世界から解き放たれる小さな瞬間となる。
たった一回の小さな瞬間では、私は受け流してしまうだろう。夢の世界はどこからでも私を納得させるだけのパンチを食らわせる。脳を揺さぶるパンチで私は記憶を失うが、それでも私は言い聞かせなければいけない。間違いを探せ。
間違いを見つけろ。そして自分の脳にダメージを与えろ。この世界を作った脳みそに軽いジャブを食らわせろ。やがて間違いが重くなり世界が支えきれなくなったとき、最期の一撃を食らわせてやるのだ。
そして、私は夢から覚められるのだ。
早く始めよう。さもなくばこの世界はどんどん悪くなるだろう。間違いだらけの世界に飲み込まれると、私は全く気付けなくなるのだから。夜の海から生まれるものなど、想像もつかない。私は現実にて夜の海に来たこともないのだから、それゆえ、怪物も生まれる。より間違いに見当たらない、リアルな怪物が。
悪夢が始まる。追いかけてくるお決まりのあいつが出てくる前に、そうなったら本当の悪夢だ。
悪夢に引きずられて、朝の目覚めを悪くし一日中引きずられるのも、もうたくさんだ。
ちくしょう、もう学生服が寝間着に変わっていやがる。
あいつを想像している時点で、もうあいつは近くにいるにきまっていやがるんだ。ちくしょう、寝間着の袖口に赤い斑点状のシミがついている。