第十五幕 花園の姫君
本来は李鳳と李学生の問答の話の続きになる予定でしたが、あまりに進まないので、先に勇国の話を持ってきました。
勇の国の王の祖先は天帝の時代、世に知られた猛将だったという。
それゆえか、歴代の王は強くあれ、と武芸を推奨する。
強さこそが王の力、強さこそが王たる証。
そんな暗黙の了解が勇の国にはあるのである。
現在の勇国の王座に就いている王はまだ年若い。
義国の王位についた義国斉葉容が即位するまでは、六国の王の中で最年少であった。
若者らしい覇気に満ちた、容色に優れた誰よりも強い青年王は、勇国において絶大な人気を誇っていた。
しかし、その正妃である者の存在を知る者は意外に少ない。
正妃の名は媛樹という。
媛樹は王が住まう王宮ではなく、その離れにある離宮に住んでいる。
離宮は王宮のような華麗さや広大さとは無縁であるが、常に花が咲き乱れ、優美な空気に満ちている。
決して公の席には姿を現さない離宮の主である媛樹は、離宮の中の端に位置する白石で造られた東屋を特に好んでいた。
度々そこに行っては、そこから見える花々を眺める日々を送っている。
そこにはまるで、別天地のような、儚く美しい光景が広がっていた。
その絵画のような景色にすんなりと溶け込む媛樹もまた、物語の中のような人物であった。
好む衣装は柔らかく、淡い色合いで、風が吹くとふわりと裾が舞い上がった。
色素の薄いふわふわの髪は、日の光を浴びると輝くようにきらめいた。
白い肌は透けるようで、幼さを残す容貌は、美しいというよりは非常に可愛らしいものであった。
媛樹妃は別名、「花園の姫君」と呼ばれている。
「媛樹様」
侍女がそう呼びかけると、媛樹は外を眺めるのをやめ、ゆっくりとした動作で振り返った。
「なあに? 光華」
髪を二つに括った少女は名を光華といい、媛樹付の侍女であった。
「お茶の支度が整いましたけど、いかがなさいますか? こちらでお召し上がりになりますか?」
高位の女性に仕える侍女にしては恐ろしく表情のない、無愛想と言っても過言ではない鉄面皮の光華に、媛樹はふわりと微笑むと、東屋に置いてある石造りの椅子に腰を下ろした。
「そうね。お天気もいいことだし、こちらで頂こうかしら」
最初からそれを予測していたのか、光華はてきぱきとお茶の支度を整えていく。
「ねえ、光華? あなたも一緒に頂かない? お茶は一人で飲むよりも二人で頂く方が美味しいと思うの」
「いえ、そうはまいりません」
媛樹の甘えたような問いかけに、光華は淡々と否を返す。
「ふふ、いつまでたっても光華は生真面目なのね。そこがいいところでもあるのでしょうけれど」
「申し訳ございません」
「ふふ、いいのよ」
媛樹は微笑むと、光華の用意した茶を口に含んだ。
そんな様子まで彼女はとても可憐である。
光華は己があまり感情が顔に現れないのを自覚していたので、媛樹付になった当初、「気にされますか」と問いかけたことがある。
その問いに、媛樹は微笑みながら答えた。
「気になんてしないわ。だってあなたのその無表情は意識してのものではないのでしょう? だったら、怒っている顔でも、哀しんでいる顔でも、笑っている顔でも同じことよ? 感情が表情と一致してないのであれば、表情から真意を察する意味がないわ。その意味がないのであれば、そもそも表情そのものに意味なんてないのだから」
そう語った媛樹こそ、常にその表情に微笑みを絶やさない。
ならば、その微笑みにも意味はないのか。
光華はそう疑問を抱きつつも、さすがに本人にそれを問うことは出来なかった。
「そういえば、明日には王がこちらにお見えになるそうです」
「まあ、わざわざいらっしゃらなくてもよろしいのに」
「そういうわけにはいかないのでしょう。少なくとも、建前としては」
「そう、建前としては、ね。では仕方ないわね」
その真意はどこにあるのか、媛樹の微笑みは変わらない。
「そういえば、あの方は最近ますます軍事に力を入れておいでのようね。どうされるおつもりかしら。他国に侵攻するおつもりなのかしら」
「わたくしには、わかりかねますが……」
「前にここにいらした時にふとお漏らしになったことがあるの。第二の天帝になるのは不可能なことだと思うか、と」
第二の天帝。
それはまさに、六国を統一し、すべての民の王、帝王になることを指し示している。
それはかつて、伯楽天と呼ばれた者だけが成し遂げられたこと。
今まで、天帝以外は成せた者がいない偉業。
「……それで、媛樹様はどうお答えになられたのですか?」
「わたし? そうね、なんと答えたのかしら? ふふ、よく覚えていないわ」
媛樹は両手で小さな湯呑を覆うように持つと、可愛らしく小首を傾げてみせた。
「それにしても、天帝、伯楽天だなんて、本当に実在していたのかしら?」
「……どういうことですか? 天帝のことは、小さな子供だってよく知っていることではありませんか」
「そうね。みんな知っているわね。天帝と呼ばれている人のことは。でも、その人はどこで生まれたの? いつ亡くなったの? どうして亡くなったの? 姿かたちはどうだったのかしら? 性格は? ほらね? 本当はなあんにもわかってないの。みんなに知られているのに、みんな知らないの。不思議ね」
「ですが、やはり国が統一されたのは、史上の事実ではありませんか? だったら、天帝は間違いなくおられたということで、間違いないのではないでしょうか」
「そうね。国がかつて一つに統一されたのは事実ね。そして、天帝が最初の帝王だったというのも、確かにそうなのでしょう。だけれども……」
空になった茶碗を置くと、媛樹はすっと立ち上がった。
そしてまた、花々が咲き乱れる庭園へと目を向ける。
「ねえ、とても綺麗でしょう? この庭は、ここは、『媛樹妃の離宮』と呼ばれていることも知っているでしょう? だけどわたしは、ここにいるだけで何もしてはいないの。ここの花々を綺麗に咲かせ、それを保っているのはわたしも名も知らないたくさんの者達……」
すっと目を細めると、媛樹は微笑みながら光華を振り返って言った。
「ねえ? 天帝もそうだとは思わない? だって、本当にいると思う? 知略に富み、誰よりも強く、人々に慕われ、民を想い、国政を仕切り、国を一つにに纏め上げただなんて。しかもその姿を、炎が舞うよう、華が踊るよう、だなんて。炎と華ではまったくの真逆でしょう? そんな人間、いるはずないと思わない? わたしは思うの。きっとたくさんの人が成し遂げたことのその集大成を、天帝という一人の人の形に象徴として投影したのではないかしらって」
「……わたくしには難しいことはわかりませんが、それは天帝がいた、ということでいけないのでしょうか。王の為、臣下が仕えるのは当然のことです。みなが天帝の為に成し遂げたことであるなら、それは天帝の偉業と考えてもよろしいのではないでしょうか。……媛樹様は、天帝のことがお好きではないということなんでしょうか」
「あら? そう思った?」
「はい」
「あら、ふふふ。どうかしら? まあ実際に存じ上げない人物のことを好きも嫌いもないのだと思うけれど……」
媛樹はおかしそうに笑いながら、東屋から花に溢れる庭園へと足を踏み出した。
すべてを笑顔の裏に。
真意の窺い知れない女主を光華はじっと見つめた。
花に囲まれて微笑む彼女は、まるで無垢な妖精のようである。
しかし、その実は、もっと暗く深いものを心の内に潜ませているような、そんな底知れぬ何かを感じる。
それが何か、までは知り得ようがないが。
「ねえ光華」
「はい」
「あのね、わたしとあの方は似ていると思うの」
媛樹の髪や衣装の裾がふわりと風に煽られ、舞い降る花びらがそれを飾る。
それは、本当に絵画のような光景だった。
「あの方は妻をただ一人の人と定め、わたしは王をただ一人の人と誓う。ふふふ、よく似ているわね。だからかしら? わかるのよ。天帝が実在の人物であってもそうでなくても、有り得ないほど完璧な人間であったとしてもそうでなかったとしても、それがすべての官の、民の、人々の心を掴む、ということなら。それならばきっと」
媛樹の笑顔は変わらない。
それはいっそ、不自然なほどに。
「あの方は、きっと第二の天帝になどなれはしないわ」
次回はまた義国、李鳳と李学生の問答中心になる予定です。




