第十三幕 李学生という男
前話のサブタイトル変更しました。本当はこちらの回でつけようと思ったサブタイトルでしたが、話の展開上アンマッチになってしまったので。
義国の春官に李学生という官がいることを知っている者は少ない。
が、彼を知る者は皆口を揃えて言う。
「李学生は変人だ」と。
李学生のその風貌は、ぼさぼさ髪の丸眼鏡をかけた、痩せている冴えない書生といった形容がぴったりとくる。
彼はいつも書を小脇に抱え、ぶつぶつと独り言を呟いている。
服は何日も同じものを着続け、皺皺よれよれである。
廊下で彼と出くわした者は、思わず横に避けてしまうような、一種異様な空気も放っている。
仕事は史料を編纂することだが、仕事が終わってもなかなか家に帰らず、史料庫隅に蹲って書や書簡に埋もれている。
その様子は誰が見ても、至福に包まれているという。
李学生はいわば、史料庫の主と言っても差し支えないであろう。
彼をよく知る者は皆口を揃えて言う。
「李学生は紛れもない奇人だ」と。
李学生は今はまだ、近い将来自らに訪れる未来を知ることもなく、ただ一人室の片隅で書に囲まれるという己の幸福に浸っていた。
「何だ、こりゃ」
呆れたように、炎雷はうつ伏せで気を失っている、頑頼と名乗った男を見下ろした。
「すまんの、うちの馬鹿息子が……」
傍らでは頑堅がこれ以上ないほど苦い薬を呑まされたような渋面をして肩を落としていた。
「あ? 息子?」
「頑頼は頑堅殿の御子息です。それも、たった一人の」
横から李鳳が補足をする。
「息子? ……似てねえな、おい」
炎雷の眉が寄る。
「わしはもうこんな馬鹿息子は知らんわ」
「まあまあ頑堅殿。いつものことでしょう」
「いつも馬鹿ってことか?」
「いっそ永眠でもすれば静かになるものを」
「で、でも頑頼が跡取りなんですよね? たった一人の子だってことは」
「葉容様……、こやつが跡を継げば家が潰れます」
「道理ですね」
「へー、そこまでの馬鹿か。面白そうな奴だな」
「いやあの……、だ、大丈夫ですか、頑頼」
「う…うう……」
葉容が声をかけ軽く揺さぶると、頑頼は目を覚まし頭を抱えながらよろよろと起き上がった。
そして炎頼を見据えると、稽古場中に響き渡るかのような、どでかい大声で言った。
「やはりさすがだな! この俺をこんなあっさり破るとは!」
「……真性の阿呆だろう、お前」
心から呆れた様子の炎雷の横で、頑堅は頭を抱え呻いた。
実際の所、勝負にもなっていない。
己に向かっていきなり突進してきた頑頼に、炎雷はふと何かの既視感に襲われた。
そう、この感じは。
真っ直ぐに突っ込んでくる男から、炎雷はすっとわずかに身体を横に反らし、足を軽く突き出した。
その結果、頑頼は盛大にすっ転んだ。
炎雷の出した足に引っかかって。
それはあたかも、突進してきた猪をピンと張った縄で転ばせて捕らえるかのようであった。
「あんな勢いで突進してきて、そのくせこんなに隙だらけじゃお前、戦場で真っ先に骸となってその辺転がることになるぞ」
「おお! 勝者の助言か! ああ、わかった! ありがたく受け取ろう!」
「ちっともわかってねえだろう、お前……」
「相変わらずのようだな、頑頼」
苦笑がちにそう声をかけた李鳳に、頑頼が今気がついたとばかりに礼をとった。
「おお、これは冢宰もおられたか! これは失礼を。冢宰も相変わらずのようで何よりです! 実は、父上のお眼鏡に適った剛の者がいると聞いて、これはぜひ一度お手合わせ願わねばと矢も盾もたまらず馳せ参じた訳なのですよ。でもいやさすがさすが! はっはっはっ!」
「さすがではないわ! そうやって脊髄反射のように考えなしに行動してわしにまで恥をかかせるような真似はいい加減にやめんか!」
「ん? おお、父上までもいらっしゃったか! 気づきませんでしたよ、ははは。む? 何だか機嫌がよろしくないようですが、いかがされましたか」
「お前のせいだわい!」
頑堅は頭から湯気を噴き出すような勢いでそう怒鳴ると、心痛の面持ちで大きなため息を零した。
「まったく、この色々と考えねばならん時に己は……」
「おお、父上。何かありましたか!」
「何がありましたかではないわ! 当然だろうが、この馬鹿息子! 体制変更に伴う内政問題、部隊編成、文官の異動、対他国への対策……、数え上げれば切りがなかろう!」
「ほう、そうでしたか!」
実際の所、信に足る者、能力に見合うものの選定に思いの外時間がかかり、李鳳や頑堅は頭を悩ませているところなのである。
そんなことも露知らず、頑頼は能天気に質問した。
「しかし文は李鳳殿、武は父上がいらっしゃれば問題ないのでは?」
「二人で国がまわるか、このド阿呆!」
「さすがにわたし一人では内政、外政と手に余るな」
怒鳴る頑堅に苦笑する李鳳を見て、頑頼はふむ、と頷いた。
「ふうむ、何やら面倒なのですな。俺はそういうことはさっぱりですが、そういう小面倒臭いことに強そうな奴は知ってますぞ!」
「いいからお前は黙っとれ!」
「その者とは?」
頑頼の言葉に、頑堅と李鳳は真逆の返答を返したが、頑頼は聞きなれた父の怒声は綺麗に無視して答えた。
「春官の李学生という男です! 前に罰として父上にしばらく書の中にでも埋もれて頭を冷やしてこいと史料庫に放り込まれた時があったでしょう? その時にその場所にいた李学生と知り合いになったんです。何やら小難しいことをよく知ってますし、昔のこととか、法のこと、後はどこで調べてくるのか他国のことについてもかなり詳しいですよ。何やら色々聞かされましたが、基本俺は寝ていた上詳しいことは綺麗さっぱり忘れたので覚えていませんが!」
「ほう」
「あれはきっと冢宰のお役にたてるんじゃないでしょうか。たぶん、ですが。あと、取扱いが難しいと感じられるかもしれませんが、それは大丈夫! 奴の好物の餌をぶら下げれば一発です」
「餌?」
「あ、餌って言っても食い物じゃないですよ。何やら知識欲の塊のような奴ですから、書とか石碑とかそんな物に食いついてきます。食えない物の何が良いのか、俺にはさっぱりわかりませんが!」
「知識欲の塊のような人物……か。他にはどんな特徴がある?」
「他にですか。とにかく変わった奴ですよ。実際にお会いになってみた方がよくわかるやもしれませんな。本当に間違いなくかなりの奇人ですから。はっはっはっ!」
豪快に笑う頑頼に、炎頼は胡乱げに呟いた。
「こいつに変わり者って言われる奴って、どんな奴だよ……」
葉容は無言で頷き、その炎頼の言葉に同意を表した。
頑堅はしかめっ面をして頭を押さえている。
「李…学生か……」
そんな中李鳳だけが、何やら真剣な面持ちで考え込むようにその名を呟いた。
李学生は今日も幸せであった。
好きな書に囲まれて、好きなだけ自分の時間に浸れる。
斉衡の変があった時には、この穏やかな日常が崩されるのではないかと懸念もしたが、それも杞憂に終わりそうだった。
どういう経緯で事が片づけられたかは知らないが、まあよくある内紛なのだろう。
まったく気にならないわけではないが、この世にはもっと知るべき楽しいことが山ほどある。
李学生は自分に関わりがなければ、自国の王が斉衡だろうと斉葉容だろうと構いはしない。
国に仕える官としての誇りもその国に暮らす民としての愛国心も、李学生は欠片も持ち合わせてはいない。
もともと義の国に仕えることになったのも、国への忠誠や立身出世を夢見て、などの理由からは程遠い。
そもそも条件さえ整えば、別に義の国でなくとも構わない。
ただ、義の国が一番書に触れる事が出来そうな国だった。
ただ、それだけだった。
書を読み、歴史を知り、過去を想像し、未来を予想する。
そうすることで、己の中に知識が、また言葉では表せない何かが、地層のように少しずつ積み重なっていく、感覚。
李学生はそれが何よりの幸せだった。
己の平穏な日々、それが李学生にとって何よりの幸福であった。
突然の異変の訪れとは彼にとっては他人事で、自らには無縁のものを信じて疑わなかった。
李学生は、異変とは思いもかけず突然起こるからこそ異変と呼ぶことを、すっかりと忘れていたのだった。
炎雷VS頑頼はまた別の機会にて……。




