竜のゆくところ ~届かない手紙~
朝の山あいには、まだ薄い霧が残っていた。西部の山間にある小さな配送所では、いつものように一日が始まっていた。
開所して間もなく、近所の老婆が小さな包みを抱えてやってきた。
「言ってくれれば、集荷に行ったのに」
「いえいえ。散歩がてらね」
受付の女性が笑いながら荷を受け取る。
次にやってきた男は、両腕で抱えるほどの箱を台の上に置いた。
送り先を確認した主任が荷札を書く。
配達も受け持つ、竜種の男だった。
「鉱山都市エルツブルク、と」
男が心配そうに尋ねた。
「ちょっと遠いんだけど、届きますかね」
主任は荷札から視線を上げた。
「はい。受取人さえいれば」
竜のゆくところ
~届かない手紙~
その日の昼を少し回った頃、配送所の扉が開いた。
「あ、親方。いらっしゃい」
受付の女性が顔を上げた。
奥で荷を整理していた主任も手を止める。その向こうでは、所長が帳簿から顔を上げた。
この辺りでは知らない者のいない大工だった。家を建て、納屋を直し、荷車の車輪まで面倒を見る。腕のいい職人で、配送所の者たちとも昔からの顔なじみだった。
その日は、手に五通の封筒を持っていた。
「ラメールへ行くことになってな」
受付の女性が目を丸くした。
「ラメール? ずいぶん遠いじゃない」
「ああ。向こうのでかい造船所から声がかかった」
男は嬉しそうだった。
世界一の船を造る。そのために各地から腕のいい職人を集めているのだという。
「俺は船大工じゃないんだがな。木を扱えるなら来てくれってさ」
「すごいじゃない」
「報酬もすごいんだ」
男は照れたように鼻をこすった。
「あいつらにも、少しは楽をさせてやれる」
妻と、八歳になる娘のターシャ。
それから、男は思い出したように付け加えた。
「せっかくだ。あの坊主も連れていく」
弟子入りしてまだ日の浅い若者のことだった。
「でかい仕事を見せてやりたい。俺より腕のいい大工になるかもしれんしな」
受付の女性は、五通の封筒へ目を落とした。
「それで、これは?」
「ターシャ宛てだ」
九歳から十三歳まで。
一通ずつ、誕生日に届けてほしいという。
「五年もあれば帰ってるだろ」
男は笑った。
「帰ったら、残ってる分は取り消してくれ」
主任は、五通を受け取った。
数日後、男は弟子とともに西部を発った。
ラメールまでは遠い。
山を下り、幹線へ出て、いくつもの集約基地を経由する。
男がいなくなってからも、家族とラメールの間では手紙が行き来した。男から妻へ届く手紙に、送金証。ときどき、小さな包み。妻もまた、返事や荷物を送るために配送所を訪れた。
九歳の誕生日。
主任は一通の封筒を鞄へ入れ、小型ワイバーンでターシャの家へ向かった。
父親から預かった五通のうち、最初の一通だった。
家の前でワイバーンを降り、扉を叩く。
少しして、中から足音が聞こえた。
扉を開けたのはターシャだった。
主任の顔を見るなり、その視線が配達鞄へ落ちる。
「もしかして、パパから?」
「ああ」
主任は鞄から封筒を取り出した。
「誕生日、おめでとう」
差し出された封筒を見て、ターシャの顔がぱっと明るくなった。
「ほんとに来た!」
両手で受け取ると、まず宛名を見て、それから裏返して差出人を確かめる。
そこに父親の名前を見つけて、もう一度笑った。
「返事、送ってもいい?」
「もちろん」
「今日書く」
そう言って、ターシャは封筒を胸に抱えた。
その日のうちに、ターシャは返事を書いた。
小さな封筒は母親と一緒に配送所へ持ち込まれ、次の西部幹線便を待つ荷棚へ置かれた。
十歳の誕生日にも、手紙は届いた。
十一歳の誕生日にも。
ターシャは毎年返事を書いた。
その頃、配送所には西部集約基地から中型竜が定期的にやってきていた。
黒い鱗の中型竜が、ある日いつもの平場へ降りた。
西部便を担当するブラックだった。
「今日は遅かったじゃない」
荷役の準備に出てきた竜舎係の女性が声をかける。
「西部基地で捕まってな」
「また喋ってたんでしょ」
「俺じゃない。向こうが喋ったんだ」
そう言いながら、ブラックは北の天気や街道の様子、どこそこの集約基地で起きた小さな騒ぎを次々と話し始めた。担当は西部までだったが、集約基地で仕入れてくる北の噂は多かった。
噂は、荷物より早く届くこともあった。
ある日、そのブラックが追加の荷を運んできた。
北部配送集約基地から西部集約基地を経て届いた、小さな束。
差出人の名前を見て、主任はすぐに分かった。
ターシャの父親だった。
中には、これから先の誕生日に届けるための手紙が何通か入っていた。
帰れる時期が、思っていたより読めなくなったのだろう。
配送所は、それらを指定された日まで預かることになった。
十二歳の誕生日にも、ターシャは父親の手紙を受け取った。
その年の冬は、北から届く便に遅れが出る日が増えた。
海が荒れれば船は遅れ、雪が降れば陸路も止まる。それでも、便そのものがなくなったわけではなかった。
父親からの手紙も、送金証も、間隔は空きながら届いていた。
ある日、遅れて届いた手紙の中に、こんなことが書かれていた。
次の春には、一度帰れそうだ。
大きな仕事も、ようやく一区切りつきそうだという。
翌日、妻は送金証を換えるために配送所へ来た。
「春には一度帰れそうなんですって」
そう話す顔は明るかった。
「ターシャなんて、もう何日あるのか数えてるんですよ」
春を待つ理由が、ひとつ増えた。
その冬。
仕事の用でラメールから別の港へ向かっていた船が、海で事故に遭った。
知らせは、何日もかけて西部まで届いた。
行方不明者の中に、ターシャの父親の名前があった。
男は見つからなかった。捜索は続いた。
春になっても、男は帰ってこなかった。
それでもしばらくは、事故の前に出された手紙や荷物が遅れて届くことがあった。
ただ、その事故の日より後の日付で書かれた手紙が届くことはなかった。
十三歳の誕生日。
主任は、いつものようにターシャの家を訪ねた。
封筒を差し出すと、ターシャはなかなか手を伸ばさなかった。
やがて、受け取った。
その年、返事は配送所へ来なかった。
季節が巡った。
捜索の知らせも、次第に届かなくなった。
十四歳の誕生日。
主任は再びターシャの家へ向かった。
差し出した封筒を前に、ターシャは黙っていた。
やがて、首を横に振った。
「……受け取りません」
主任は待った。
「受取拒否、でいいか?」
「はい」
封筒は、そのまま配送所へ戻った。
翌年の誕生日を待つ手紙のそばに、未配達の一通が残った。
十五歳の誕生日にも、主任はターシャの家を訪ねた。
そして、その年も手紙を持ち帰った。
それからしばらく経った、ある日の午後だった。
配送所の扉が開いた。
「ご無沙汰してます」
主任は、すぐには誰だか分からなかった。
ラメールへ出た頃には、まだ皆から坊主と呼ばれていた。
「……帰ってきたのか」
「はい。昨日」
受付の女性も驚いたように立ち上がった。
「ずいぶん大きくなったわねえ」
「何年経ったと思ってるんですか」
若い男が苦笑する。
「向こうの仕事は?」
「一区切りつきました。こっちで、また大工をやります」
「そうか」
それから、ラメールのことや船のことを話した。
若い男は以前よりずっと落ち着いた口調で答えていた。
やがて所長が尋ねた。
「親方の家には?」
若い男の表情が止まった。
「……これから行きます」
若い男の手が、わずかに震えていた。
所長はそれを見て、間を置いた。
「向こうの話、してやれ」
若い男は俯き、それから頷いた。
「……はい」
やがて立ち上がり、配送所を出ていった。
誰も、その背中を呼び止めなかった。
十六歳の誕生日も、手紙は戻ってきた。
「受け取りません」
ターシャはそれだけ言って、扉を閉めた。
主任は封筒を鞄へ戻し、配送所へ戻った。
棚には三通目の手紙が並んだ。
それから数日後、ターシャの母親が配送所を訪れた。
小さな荷物をひとつ、送りたいという。
受付の女性が手続きをしながら、ためらいがちに尋ねた。
「ターシャちゃん、今年も……」
「ええ。すみません」
母親は困ったように笑った。
しばらくして、棚の方を見る。
「私が代わりに受け取ることは、できないんですよね」
「本人渡しの指定ですから」
「そうですよね」
母親は息を吐いた。
「あの人、そういうところ妙にきっちりしてたから」
受付の女性も笑った。
「今は、読めないみたいで」
「……そうですか」
「でも」
母親は棚の手紙を見た。
「捨てないでいてもらえますか」
「もちろんです」
母親は頭を下げ、荷物を預けて帰っていった。
その日の仕事が一段落した頃だった。
若い職員が、荷札を整理しながらふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、俺たちって何で運送やってるんですかね?」
所長が顔を上げた。
「お前、子供の頃に親から教わらなかったのか」
「もう何百年前の話ですか。教わったかもしれないけど忘れちゃいましたよ」
「これだから若いもんは……」
所長は胸を張った。
「我々の力は強大すぎる。故に我々は星の観測者となった。竜は何人にも干渉されず、何人にも干渉せず」
「あー……なんか思い出してきました」
「で、何で運送なんですか?」
「それは知らん」
若い職員が大きくのけぞった。
所長は何事もなかったように仕事へ戻る。
「長老にでも聞いてみるんだな」
「えー……あのじいさん、話長いんだよなぁ」
受付の女性が吹き出した。主任も作業の手を止めて笑う。
所長だけが、呆れたように首を振った。
そんな日々のあいだにも、季節は巡った。
十七歳の誕生日にも、手紙は戻ってきた。
十八歳も同じだった。
棚には、十四歳から十八歳までの五通が並んだ。
そして翌年もまた、主任は一通の手紙を届けに行く。
十九歳の誕生日が来た。
朝の仕分けで、主任は一通の封筒を手に取った。
十四歳から、これで六度目になる。五度持って行って、五度持って帰ってきた。
今年もそうなるだろうと思いながら、いつものように配達鞄へ入れた。
昼前、ターシャの家に着いた。
呼び鈴を鳴らしてしばらくすると、扉が開く。
出てきたターシャを見て、主任は一瞬だけ目を細めた。
背が伸びた、と思ったのはいつのことだったか。いつの間にか、もうそんなことを思うこともなくなっていた。
目の前にいるのは、すっかり若い娘だった。
主任は鞄から封筒を取り出した。
「今年も届いてるよ」
ターシャは黙って封筒を見た。
いつもなら、ここで答えが返ってくる。
――受け取りません。
主任は待った。
だが今年は、その言葉が出てこなかった。
ターシャの手が、封筒へ伸びかけて止まった。
主任は何も言わない。ターシャは俯いたまま、しばらくその場に立っていた。
「……私」
声が小さく途切れた。
もう一度、封筒を見る。
そこには昔と変わらない字で、彼女の名前が書かれていた。
「これを、受け取ってもいいんでしょうか」
主任はターシャを見た。
「君宛てだよ」
「でも……」
ターシャの指が、ぎゅっと握られる。
「ずっと、受け取らなかったのに」
主任は手にした封筒を見た。
「それでも、宛名は変わってない」
ターシャは何も言わなかった。
やがて彼女は、もう一度手を伸ばす。
今度は止まらなかった。
「……ください」
主任は封筒を渡した。
「はい」
ターシャは両手でそれを受け取った。
主任は、その手に収まった封筒を見てから言った。
「誕生日、おめでとう」
ターシャは封筒を胸元へ寄せた。
「……ありがとうございます」
主任は、それ以上何も言わなかった。
配送所へ戻ると、受付にいた若い職員が顔を上げた。
「どうでした?」
主任は鞄を下ろした。
「ああ」
それだけで、若い職員の目が大きくなる。
「受け取ったんですか?」
「ああ」
「ほんとに?」
奥で仕分けをしていた所長まで振り返った。
「ターシャか?」
「受け取ったって」
「おお」
竜舎係が小さく手を叩き、受付の女性はほっと息を吐いて笑った。
「よかった……」
「今日は一杯やるか」
「それ、ターシャちゃん関係なく飲みたいだけでしょう」
「理由がある方がうまいだろ」
笑い声が上がった。
主任は何も言わず、棚を見た。
そこには、五通の手紙が並んでいる。
十四歳から十八歳まで。
十九歳の手紙だけが、その日、ようやく棚へ戻らなかった。
それからしばらく経った頃、ターシャが配送所を訪ねてきた。
扉が開く音に、受付の女性が顔を上げる。
「あら、ターシャちゃん」
「こんにちは」
「聞いたわよ。婚約したんだって? おめでとう!」
祝い事の噂は、こういう町では早い。ターシャは照れたように笑った。
「ありがとうございます」
奥で荷札を整理していた主任も顔を上げた。
「それで、今日は?」
ターシャは受付の奥へ視線をやった。
「父の、手紙のことで……」
受付の女性が「ああ」と小さく声を漏らす。
主任は何も言わず立ち上がった。
何度も、その棚へ戻してきた手紙だった。
十四歳。
十五歳。
十六歳。
十七歳。
十八歳。
主任は五通をまとめて受付へ運んだ。
ターシャは、目の前に並べられた封筒へ一通ずつ、確かめるように指先で触れていった。
どれも同じ筆跡で、同じ名前が書かれている。
やがて五通を両手で抱えた。
「全部、受け取ります」
「はい」
手続きの間も、ターシャは手紙を離さなかった。
やがて、その視線が棚の一角で止まる。
そこには、もう一通の封筒が残っていた。
主任もその視線に気づいた。
「あれは、まだお届けできない」
ターシャが顔を上げる。
「……まだ?」
「ああ。二十歳の誕生日に、本人へ渡す指定になってる」
ターシャはもう一度、棚の封筒を見た。
「二十歳……」
五通の手紙を抱え直した。
「お願いします」
「ああ。来年、届けるよ」
「はい」
扉を開ける前に、ターシャはもう一度だけ棚を振り返った。
「それじゃあ」
「ああ」
ターシャが出ていく。
扉が閉まってしばらくしてから、奥にいた若い職員がぽつりと言った。
「渡してやればいいのに……」
所長が黙って壁を指さした。
そこには額に入れられた一枚の紙が掛かっている。
――竜は荷札に従う。
若い職員がそれを見上げた。
「いや、知ってますけど」
受付の女性が吹き出した。
主任は棚へ戻り、残った一通を見た。
次にその封筒を持ち出す日は、もう決まっている。
時が経ち、ついにその日が来た。
朝の仕分けを終えると、主任は棚に残っていた一通の封筒を手に取った。
荷札の日付を確かめる。
二十歳の誕生日。
長いあいだそこにあった手紙を、配達鞄へ入れた。
昼前。いつもと同じ時間帯、いつもの家の前でワイバーンを降りた。
呼び鈴を鳴らす。
少しして、扉が開いた。
姿を見せたターシャを見て、主任は一瞬、言葉を失った。
彼女の腕の中には、小さな赤ん坊がいた。大きな目を開けて、こちらを見ている。
「こんにちは」
ターシャが笑った。
「ああ」
主任は赤ん坊とターシャを見比べた。
「驚いた」
「ふふ」
ターシャは腕の中の娘を抱き直した。
主任は鞄を開く。
「あの手紙、持ってきたよ」
一年前、配送所の棚に残った最後の一通だった。
主任は封筒を差し出した。
ターシャは赤ん坊を片腕で支え、空いた手を伸ばした。
今度は、止まらなかった。
「受け取ります」
封筒が、ターシャの手に渡った。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます」
ターシャは手の中の封筒を見つめた。
これが最後だった。
目から、ひと筋涙がこぼれた。
ターシャはそれを拭い、しばらく黙っていた。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
「ああ」
ターシャは封筒を見たまま尋ねた。
「父は……幸せだったと思いますか?」
主任はターシャを見た。
「ああ。間違いなく」
その言葉に、ターシャは封筒を胸元に抱き寄せ、声を上げて泣いた。
腕の中の赤ん坊まで、つられるようにぐずり始めた。
「あ……ごめんね」
ターシャは泣きながら赤ん坊をあやした。
「ごめん、ごめん。ママが泣いちゃだめだね」
やがて赤ん坊が落ち着くと、ターシャはその顔を見た。
それから、主任を見る。
「いつか、この子が大人になった時のために、私も手紙を書きたいと思います」
赤ん坊を抱く腕に、少し力を込めた。
「その時は、届けてくださいますか?」
主任は頷いた。
「もちろん」
「受取人さえいれば」
二十歳のターシャへ
ターシャ、誕生日おめでとう。
お前がこの手紙を読んでいるということは、パパは帰れなかったのだろう。
本当なら、この手紙がお前のところへ行く前に取り消して、自分で破り捨てるつもりだった。
これが最後の手紙だ。
二十歳か。
パパが最後に見たお前は、まだ八歳だった。
背は伸びただろうか。
まだ寝相は悪いだろうか。
ちゃんと朝は自分で起きられるようになったか。
もう、いい相手がいるのかもしれない。
それは、あまり考えたくない。
まあ、いるなら仲良くしろ。
向こうにも大事にしてもらえ。
母さんとは仲良くしているか。
たまには言うことを聞いてやれ。
最後の手紙に何を書けばいいのか、考えてみたが、よく分からない。
パパの中のお前は、八歳のままだからな。
本当は、こんな手紙を書くんじゃなくて、大きくなったお前を見て、
「ずいぶん変わったな」
くらい言ってやりたかった。
お前に、
「パパは何も変わってないね」
と言われたかった。
ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、元気にしていなさい。
……もう、父親の言うことを聞く歳でもないか。
お前の父で、パパは幸せだった。
二十歳の誕生日、おめでとう。
元気でな。
パパより
のちに、ターシャの家の壁には、一通の手紙が額に入れて飾られていた。
その隣には、小さな家族の肖像画がある。
幼い娘を抱いたターシャと、若い大工の夫。
その前に腰掛けたターシャの母親。
四人は、ひとつの絵の中で笑っていた。




