人形遊びをする女とは婚約できないそうなので、婚約破棄の現場をミニチュア劇場にして売り出します
婚約破棄の場面は、意外と小さく作れる。
男の顎は、少し上げる。
勝ち誇った女の扇は、胸の高さより半指ほど上。
捨てられる令嬢の手元には、落ちかけた婚約指輪の箱。
背景には深紅の幕。
周囲の客人は、驚き、好奇心、気まずさを三対四対三で混ぜる。
これはいい。
かなりいい。
「オフィーリア・ローゼンベルク。君との婚約を解消したい」
婚約者であるレオン・バルフォア様がそう告げた瞬間、私は悲しむより先に、構図を見ていた。
ここは王都工芸展示会の大展示室である。
主催は王都工芸組合。
会場提供と後援は、私の実家であるローゼンベルク侯爵家。
父は今、組合長と奥の控え室で出品目録を確認している。
母は婦人方を別室へ案内している。
私は出品者の一人として、自作のミニチュア劇場と人形服を展示していた。
本来、レオン様は今日、父へ婚約解消の申し入れをするために来る予定だった。
正式な婚約解消には、両家当主の書面が必要である。
だから、この場で彼にできるのは、あくまで申し入れまで。
なのに彼は、なぜか展示会場の中央で、私に向かって宣言した。
隣には、ヴィオラ・モントローズ伯爵令嬢がいる。
淡い菫色の外套。
白い羽根扇。
潤んだ瞳。
レオン様の腕に寄り添う角度。
よい。
たいへんよい。
ただし、扇の持ち方だけ少し惜しい。
十二分の一縮尺にすると、手首が太く見える角度だ。
「聞いているのか、オフィーリア」
レオン様が眉をひそめた。
私は顔を上げる。
「はい。婚約解消のお申し入れですね」
「ずいぶん落ち着いているな」
「いえ、少し震えています」
「そうか。ようやく自分の立場が分かったか」
「はい」
私は胸の前で手を組んだ。
「今の立ち位置、少しだけそのままでお願いいたします」
「何?」
「新作にします」
展示室が静まった。
レオン様の顔が、少しずつ赤くなる。
「新作?」
「はい」
「君は何を言っている」
「婚約破棄の現場です。深紅の幕と、ヴィオラ様の扇の角度がたいへんよくて」
「オフィーリア!」
「申し訳ございません。顎はもう少し上げたままでお願いします。尊大さが出ますので」
「誰が尊大だ!」
私は袖口から小さな手帳と炭筆を取り出した。
工芸展示会で構図が降ってきたときに、手帳を持っていないなどあり得ない。
令嬢の嗜みではないかもしれない。
でも、私の嗜みではある。
「お前は本当に、そういうところが嫌なのだ」
レオン様が低く言った。
「いつも人形、人形、人形。ドレスを見れば布の厚み。椅子を見れば脚の縮尺。指輪を見れば、十二分の一で再現できるかどうか」
「指輪は二十四分の一でも可愛いです」
「そういうところだ!」
「二十四分の一の指輪は、作業中に呼吸で飛びます」
「聞いていない!」
レオン様は、深く息を吐いた。
隣のヴィオラ様が、困ったように眉を下げる。
「オフィーリア様」
彼女は、たいへんやわらかな声で言った。
「わたくし、あなたを傷つけるつもりはありませんの。ただ、レオン様があまりにお可哀想で」
「お可哀想」
「ええ。婚約者が、いつまでも人形遊びに夢中だなんて」
「人形遊びではありません」
「では何ですの?」
「縮尺のある人生です」
「……そういうところですわ」
ヴィオラ様は、かすかに笑った。
「女なら、本物のドレスが似合うようでなくては」
「本物のドレスも好きです」
「あら、そうなの?」
「はい。ただ、人形服には人形服の都合があり、人間用のドレスには人間用の都合があります」
「都合?」
「腕が上がるかどうか、です」
ヴィオラ様の笑みが、わずかに固まった。
私はそこで、ようやく彼女の外套の下に目を向けた。
菫色の外套の隙間から、白い布が見える。
袖口に、小さな真珠が並んでいる。
胸元の切り替え。
腰のリボン。
裾の重なり。
見覚えがあった。
ありすぎた。
「ヴィオラ様」
「何かしら」
「その下に着ていらっしゃるものを、少し見せていただけますか」
「まあ」
ヴィオラ様が、誇らしげに微笑んだ。
「お気づきになりましたのね」
「はい」
「実は、レオン様がご用意くださったのです」
彼女は外套の前を開いた。
白百合の婚礼衣装。
胸元から腰へ流れる細い刺繍。
袖に並ぶ極小真珠。
十二枚に分かれた裾。
私の展示作『十二分の一の白百合花嫁』と、ほとんど同じ形だった。
ただし、実物大である。
そして、実物大としては、かなり苦しい。
「まあ」
私は思わず呟いた。
「殺されています」
「何を?」
「服が」
また展示室が静まった。
ヴィオラ様が、きょとんとする。
「このドレスが?」
「はい」
「失礼ですわ。レオン様が、あなたの人形服を参考にして仕立て屋へ作らせてくださったのに」
「参考ではありません。拡大です」
「同じことでしょう?」
「違います」
私は炭筆を置いた。
これは、かなり大事なところだった。
「十二分の一の袖は、人間の肩では動きません」
「動くわ」
「動かしてみてください」
「え?」
「右腕を、肩より上へ」
ヴィオラ様は不満そうに眉を寄せた。
そして、右腕を上げようとした。
上がらなかった。
肩のあたりで布が張り、真珠飾りが細く鳴る。
さらに無理をしようとした瞬間、袖口の飾り糸が一本ぷつりと切れた。
展示室の空気が、たいへん微妙なものになった。
私は胸を押さえた。
もったいない。
非常にもったいない。
「ほら」
「ほら、ではありませんわ!」
「人形は腕を固定できます。人間は動きます」
「当たり前でしょう!」
「当たり前のことを、なぜ仕立てに入れなかったのですか」
ヴィオラ様は口をつぐんだ。
レオン様が険しい顔で前へ出る。
「人形服くらい、実物にできると思うだろう」
「できません」
「できるようにするのが仕立て屋の仕事だ」
「仕立て屋の仕事は、縮尺の間違いを無から救うことではありません」
「大げさだな」
「大げさではありません」
私ははっきり言った。
「三センチの靴紐と三十六センチの靴紐は、ただ十二倍すれば同じになるものではありません」
「靴紐の話などしていない!」
「全部同じです」
レオン様は、額に手を当てた。
気持ちは分かる。
でもここは本当に大事なところだった。
人形服を馬鹿にされること自体は、少し悲しい。
婚約破棄も、もちろん悲しい。
けれど、人形服を馬鹿にしながら、その形だけ盗んで、縮尺も理解せず実物化するのは、もっと耐えがたい。
「レオン様」
私は静かに問うた。
「その婚礼衣装は、私の展示作をもとにしましたね」
「君がいつまでも人形に着せていた服だ。実物にしてやったのだから、むしろ感謝してほしいくらいだ」
「感謝」
「ああ」
「私の出品作です」
「人形の服だろう」
「王都工芸組合に意匠控えを出しています」
レオン様の表情が止まった。
ヴィオラ様も、ようやく少しだけ顔色を変えた。
「意匠控え?」
「はい」
「人形服に?」
「はい」
「そんなものまで」
「出します」
私は頷いた。
「工芸ですので」
そこへ、低い声が割って入った。
「その通りだ」
振り向くと、白髪交じりの男性が立っていた。
王都工芸組合の組合長、バルト老である。
父と一緒に控え室にいたはずだが、騒ぎを聞いて来たのだろう。
隣には父、ローゼンベルク侯爵もいる。
父はたいへん静かな顔をしていた。
静かすぎて怖い顔である。
「オフィーリア嬢の『十二分の一の白百合花嫁』は、展示前に意匠控えを提出済みだ」
バルト老は淡々と言った。
「展示番号、衣装構造、刺繍図案、豆真珠の配置まで記録してある」
「組合長」
レオン様が少し慌てた。
「これは婚礼衣装です。商売ではありません」
「仕立て屋へ注文して作らせたのだろう」
「それは」
「出典を偽って使えば、商売かどうか以前に、組合の信用問題だ」
「人形服ですよ」
「工芸品だ」
バルト老の声は低かった。
「小さいものを小さいから軽く見る者は、大きいものも扱えない」
私は少し感動した。
よい言葉である。
豆本にして飾りたい。
いや、今はそれどころではない。
「レオン殿」
父が口を開いた。
「本日、あなたは私と控え室で婚約解消の申し入れをする約束だったはずです」
「侯爵、それは」
「ですがあなたは、当家が後援する展示会の会場中央で、娘を公然と侮辱した」
「……」
「さらに、娘の出品作を無断で婚礼衣装へ流用した疑いがある」
「流用など」
「ヴィオラ嬢が今着ているものを見れば、言い逃れは難しいでしょう」
ヴィオラ様が、慌てて外套を閉じようとした。
しかし、袖が引っかかってうまく閉じない。
肩が上がらないからである。
やはり、あの袖は駄目だ。
「オフィーリア」
父が私を見た。
「お前はどうしたい」
「婚約解消の申し入れはお受けします」
「よいのか」
「はい」
「意匠の件は」
「組合規定に従ってください」
私は少し考えてから続けた。
「ただ、仕立て屋を責めないでください」
「なぜ」
「この元型を渡されて、十二倍にしろと言われたのなら、仕立て屋も相当困ったはずです」
「……そうか」
「はい。あの袖は、困った人の袖です」
父は、少しだけ目を閉じた。
たぶん、笑いそうになったのだと思う。
でも父は立派な人なので、咳払いで済ませた。
「承知した」
バルト老も頷く。
「仕立て屋への確認は、組合で行う。責任は発注者と意匠使用の経緯に置く」
「ありがとうございます」
私はほっとした。
仕立て屋に罪はない。
縮尺を知らない発注者は、ときどき職人を泣かせる。
それは許しがたい。
「オフィーリア様」
ヴィオラ様が震える声で言った。
「わたくし、本当に知らなかったのです。レオン様が、あなたの出品作をそのまま使ったなんて」
「そうですか」
「ええ。わたくしはただ、白百合の婚礼衣装が着たくて」
「白百合はよい意匠です」
「そうでしょう?」
「ただ、ヴィオラ様には菫のほうが似合います」
「え?」
「肩幅と首の長さから見て、白百合より菫です。あと、袖はもっと軽く」
「……今、その助言をなさるの?」
「服が気になったので」
「お前は本当に!」
レオン様が声を荒げかけた。
しかし、父が一歩前へ出ただけで黙った。
よかった。
父は大きな声を出さなくても、たいへん怖い。
展示室の奥で、客人たちがひそひそと囁いている。
聞こえる言葉はだいたい予想できた。
人形遊びと馬鹿にした令嬢の衣装を、婚礼衣装に使おうとした。
しかも、着たら腕が上がらなかった。
婚約破棄の場で、捨てられた令嬢が下絵を取り始めた。
どれも、だいたい合っている。
少し言い方は悪いけれど、間違ってはいない。
「バルフォア家へは、私から正式に書状を送る」
父が言った。
「婚約解消については、当家側の落ち度とは認めない。展示会での侮辱と意匠流用の件も併せて抗議する」
「侯爵」
「本日の展示会からは、お引き取りを」
レオン様は何か言いかけたが、言葉にならなかった。
ヴィオラ様も、外套を押さえたまま顔を伏せている。
二人が退場するあいだ、客人たちは不自然なほど静かだった。
静かすぎるときほど、噂は速い。
これは明日には王都中へ広まるだろう。
私は手帳を見た。
今の退場の背中。
少し小さく作るなら、よい。
「オフィーリア」
父が低い声で呼んだ。
「今、また構図を見ていたな」
「はい」
「悲しいのではないのか」
「悲しいです」
「そうか」
「でも、構図もよいです」
「そうか……」
父は、今度こそ深く息を吐いた。
申し訳ない。
でも、これが私である。
泣きたい気持ちはある。
婚約者に人形遊びと馬鹿にされ、別の令嬢を選ばれたのだ。
傷つかないはずがない。
けれど同時に、私はどうしても、あの場面を十二分の一で見てしまう。
心が裂けても、頭の中で幕の色を選んでしまう。
それが私なのだ。
「ローゼンベルク嬢」
横から静かな声がした。
振り向くと、黒い上着の男性が立っていた。
アルヴィン・ノースリッジ侯爵。
若くして家督を継いだ方で、工芸品の蒐集家としても知られている。
私の展示作の前に、先ほどからずっと立っていた人だ。
婚約破棄の騒ぎの最中も、彼は私ではなく、私のミニチュア椅子を見ていた。
そこが少し気になっていた。
「何でしょう、ノースリッジ侯爵」
「この椅子の脚」
「はい」
「縮尺が正しい」
私は息を呑んだ。
婚約破棄直後の令嬢に、それを言うのはかなり危険である。
「そこを見てくださるのですか」
「普通は誤魔化すところだ」
「誤魔化したら椅子ではありません」
「分かる」
「……分かる方ですね」
思わず言ってしまった。
アルヴィン様は、少しだけ口元を緩めた。
「白百合花嫁の衣装も、実物にするなら構造を変えるべきだった」
「はい」
「袖の動きと布の重みが違う」
「その通りです」
「真珠も、実物なら数を減らすべきだ」
「そうなのです」
「小さいものは、ただ小さいだけではない」
「……危険です」
「何が?」
「その理解です」
「そうか」
「はい。婚約破棄直後の令嬢には、かなり効きます」
アルヴィン様は、少しだけ考えた。
「では、気をつける」
「いえ、今さら遅いです」
「そうか」
「はい」
この方は危険だ。
甘い言葉ではなく、椅子の脚で来る。
縮尺で来る。
布の重みで来る。
かなり危険だった。
「新作にするのか」
アルヴィン様が、私の手帳を見た。
「はい」
「さっきの場面を?」
「はい」
「題は?」
「考え中です」
「候補は」
「『真実の愛と縮尺違いの花嫁』」
「よい題だ」
「本気ですか」
「本気だ」
「……危険です」
アルヴィン様は、今度こそ少し笑った。
静かな笑い方だった。
展示室で作品を驚かせない笑い方。
とてもよい。
「完成したら、見せてほしい」
「よろしいのですか」
「ああ」
「モデルは架空です」
「もちろん」
「顔も似せません」
「そうだな」
「ただ、顎の角度は残ります」
「それは必要だろう」
「分かる方ですね」
何度でも言ってしまいそうだった。
この人は本当に分かる。
展示会は、しばらくざわついたものの、午後には通常の流れに戻った。
バルフォア家の件は父と組合に任せ、私は展示卓へ戻った。
客人たちは、気まずそうに私の作品を見ていた。
しかし、一人の夫人がふと小さな椅子を覗き込み、こう言った。
「本当に脚が細かいのね」
そこから、少しずつ空気が戻った。
小さな椅子。
豆本。
三センチの靴。
極小の手袋。
天蓋付き寝台。
悲劇の花嫁人形。
私が何年もかけて作ってきたものを、人々はようやく人形遊びではなく工芸として見始めてくれた。
少しだけ、胸が熱くなった。
泣きそうにもなった。
でも、泣くと手元が見えなくなる。
極小刺繍の説明中に涙はよくない。
その夜。
バルフォア侯爵家から正式な謝罪状が届いた。
婚約解消は、レオン様側の申し入れとして処理。
ローゼンベルク侯爵家側の落ち度ではないこと。
展示会での公然侮辱について謝罪すること。
意匠流用の件は、王都工芸組合の確認を受け、発注者側が責任を持つこと。
問題の婚礼衣装は使用しないこと。
仕立て屋への未払いがあれば、バルフォア家が支払うこと。
父は書状を読み、静かに頷いた。
「バルフォア侯爵は話が分かる方だ」
「はい」
「問題は息子だな」
「はい」
「未練は?」
「あります」
「そうか」
「でも、私の人形服を“くらい”と言いました」
「それは大きいな」
「大きいです」
父は、なぜか深く頷いた。
我が家では通じる。
それだけで、少し心が軽くなった。
ヴィオラ様は、しばらく社交を控えることになったらしい。
彼女が悪女だったかと聞かれれば、少し違う気もする。
たぶん彼女は、白百合のドレスが欲しかっただけだ。
ただ、人形服を馬鹿にしながら、その人形服を着ようとした。
しかも縮尺を無視して。
それは、やはりよくない。
それから一月後。
王都工芸展示会の追加展示日が開かれた。
私の新作は、正面の小卓に置かれた。
題は、最後まで迷った末にこうした。
『真実の愛と十二分の一の沈黙』
深紅の幕。
顎を上げた男。
扇を持つ女。
袖が上がらない婚礼衣装。
落ちかけた指輪箱。
周囲で固まる客人たち。
そして、片隅で手帳を開く令嬢。
顔は似せていない。
名前もない。
ただし、見た人はだいたい察した。
展示室のあちこちで、扇の陰の笑いが咲いた。
悪意だけではない。
構図の良さへの笑い。
小さくした瞬間に、妙に滑稽さが増すものへの笑い。
そして、馬鹿にされたものが工芸として場を取ったことへの笑い。
「こちら、購入できますの?」
最初に訊いたのは、ロアンヌ伯爵夫人だった。
私は少し驚いた。
「一点物ですので、展示後に」
「では予約を」
「予約」
「ええ。私の私室へ置きたいわ」
「伯爵夫人、その前に私が買う」
低い声が割り込んだ。
アルヴィン様だった。
彼は今日も、私のミニチュア椅子の前で足を止めている。
「ノースリッジ侯爵」
「初日に見せてほしいと頼んだ」
「購入とは聞いておりません」
「今言った」
「今」
「遅いか」
「いいえ」
私は少し考えた。
「ですが、競りになるかもしれません」
「構わない」
「本当に?」
「ああ」
「題材が婚約破棄劇場ですが」
「なおさら欲しい」
「なぜですか」
「あなたが、泣かずに作ったものだから」
私は言葉に詰まった。
その言い方は、少しずるい。
「泣かなかったわけではありません」
「そうか」
「少し泣きました」
「それでも作った」
「はい」
「なら欲しい」
胸の奥が、妙に温かくなった。
作品を欲しいと言われるのは嬉しい。
でも、作った理由まで見て欲しいと言われるのは、もっと嬉しい。
私は少しだけ視線を落とした。
そこへ、工芸組合の係が寄ってくる。
「ローゼンベルク嬢」
「はい」
「こちらの新作、展示会の来場者投票で一位です」
「え?」
「小型工芸部門、一位です」
私はまばたきをした。
一位。
私の婚約破棄現場が。
十二分の一で。
一位。
「おめでとうございます」
アルヴィン様が言った。
私は展示台の上の小さな顎を見た。
元婚約者の顎に似ている。
似せていない。
似せていないが、少し似ている。
その小さな顎が、なぜかたいへん誇らしげに見えた。
「……レオン様も、役に立ちましたね」
「題材として?」
「はい」
「それを本人が聞いたら怒るだろう」
「でしょうね」
「しかし、構図はよかった」
「はい」
「なら仕方ない」
「分かる方ですね」
アルヴィン様は、また静かに笑った。
展示会のあと、私は少しだけ有名になった。
人形遊びをしていた令嬢ではなく、ミニチュア劇場を作る令嬢として。
婚約破棄の場を作品にした令嬢として。
そして、元婚約者を十二分の一にした女として。
最後の噂は、少しだけ言い方が悪い。
でも、だいたい合っている。
レオン様は、しばらく社交界で「小さくされた男」と呼ばれたらしい。
気の毒だと思う。
少しだけ。
でも、彼が人形遊びと馬鹿にしなければ、小さくはならなかった。
縮尺を馬鹿にする者は、縮尺に泣く。
それだけのことである。
さらに一月後。
ノースリッジ侯爵家から、正式な招待状が届いた。
父母同伴で、屋敷内の工芸品保管室を見に来ないか、という内容だった。
私は招待状を読んで、しばらく黙った。
工芸品保管室。
古いドールハウス。
北向きの窓。
布が焼けにくい離れ。
小さな金具を作れる職人。
棚。
埃よけの硝子戸。
かなり危険である。
「オフィーリア」
母が笑いながら言った。
「顔に出ています」
「お母様」
「行きたいのね」
「はい」
「婚約解消から二月で、侯爵家の工芸品保管室へ誘われる令嬢は珍しいわ」
「そうでしょうか」
「珍しいわ」
「ですが、北向きの窓だそうです」
「それは大事ね」
「お母様は分かる方です」
「娘を見ていれば、多少は分かります」
母はそう言って、父と一緒に招待を受けてくれた。
ノースリッジ侯爵家の保管室は、想像以上だった。
北向きの窓。
直射日光の入らない作業台。
壁一面の棚。
小さな引き出し。
布を寝かせる浅い箱。
硝子戸つきの展示棚。
針を置く磁石皿。
そして、古いドールハウス。
いい。
かなりいい。
危険なほどいい。
「どうだ」
隣のアルヴィン様が訊いた。
私は真剣に答える。
「危険です」
「帰りたくないのか」
「はい」
「そう言うと思った」
「どうしましょう」
「泊まればいい」
「父母の許可が必要です」
「取ってある」
「手回しがよろしい」
「工芸品を迎えるにも、人を迎えるにも、段取りはいる」
「本当に危険です」
この人は、縮尺以外の言葉でも縮尺に寄ってくる。
かなり危険だった。
アルヴィン様は、保管室の奥にある小さな離れへ案内してくれた。
窓は北向き。
床は平ら。
机は広い。
壁には棚を増やせる余地がある。
布も糸も焼けにくい。
埃も入りにくい。
私は思わず、扉のところで立ち止まった。
「これは」
「使っていない離れだ」
「使っていない」
「工房に向いていると思う」
「工房」
「ああ」
「アルヴィン様」
「何だ」
「婚約解消後の令嬢に、北向きの工房候補を見せるのは危険です」
「効くのか」
「かなり効きます」
「では、順番を間違えたかもしれない」
「間違えています」
「なら改める」
彼は真面目な顔で私に向き直った。
私は少しだけ背筋を伸ばした。
「オフィーリア・ローゼンベルク嬢」
「はい」
「私は、あなたが婚約破棄の場で構図を見ていたところを面白いと思っている」
「面白い」
「ああ」
「褒め言葉ですか」
「そのつもりだ」
「なら受け取ります」
「あなたは、人形遊びをしている子どもではない」
「では何でしょう」
「縮尺にうるさい女だ」
「正確です」
私は深く頷いた。
「たいへん正確です」
「そして私は、そういうあなたと、同じ部屋に作品を置いて暮らしてみたい」
工房候補の部屋が、少しだけ静かになった。
もともと静かだったけれど、もっと静かになった気がした。
窓から入る北の光。
平らな机。
空の棚。
まだ何も置かれていない小さな部屋。
そこに、私の未来の作品が並ぶところを、どうしても想像してしまう。
「それは」
私はゆっくり言った。
「求婚でしょうか」
「そうだ」
「工房で?」
「あなたには、ここが一番効くと思った」
「効いています」
「ならよかった」
「よくありません。判断が鈍ります」
「鈍った返事でもいい」
「だめです」
私は首を振った。
「布も返事も、光の当て方を間違えると傷みます」
「では待つ」
「どれくらい?」
「あなたが納得するまで」
「棚の寸法を測ってからでも?」
「もちろん」
「机の高さを確認してからでも?」
「もちろん」
「この部屋に十二分の一の舞台をいくつ置けるか計算してからでも?」
「それは、かなり本気で測りたいのだな」
「はい」
「では測ろう」
「……危険です」
「また危険か」
「ずっと危険です」
アルヴィン様は、少しだけ笑った。
その笑い方が、やはり展示室向きだった。
静かで、作品を驚かせない。
よい。
「条件があります」
私は言った。
アルヴィン様は頷く。
「聞こう」
「結婚後も、私の作業机に勝手に触らないでください」
「触らない」
「三ミリのボタンを落としたら、一緒に探してください」
「探す」
「豆本を開くときは、爪を立てないでください」
「立てない」
「人形服を、人間用ドレスの小さい版だと言わないでください」
「言わない」
「私があなたより椅子の脚を長く見ている日があるかもしれません」
「知っている」
「いいのですか」
「椅子の脚は大事だろう」
だめだった。
少し泣きそうになった。
婚約破棄の場では泣かなかったのに、椅子の脚は大事と言われて泣きそうになる。
自分でもどうかと思う。
でも仕方がない。
私には、そういう言葉が効く。
「お受けします」
私は言った。
「ただし、棚の寸法を測ってからです」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「求婚の返事より棚の寸法が先でも?」
「あなたには大事なのだろう」
「はい」
「なら先に測る」
「……アルヴィン様」
「何だ」
「かなり本気で危険です」
「それは、いい意味か」
「はい」
アルヴィン様は、そっと巻尺を差し出した。
求婚の場で指輪ではなく巻尺を差し出す男性は、たぶんあまりいない。
でも、私にはそれがとても嬉しかった。
指輪はあとでよい。
棚の寸法は今しかない。
王都では、今でもときどき私の噂が流れるらしい。
人形遊びをする女だから婚約破棄された令嬢。
婚約破棄の現場をミニチュア劇場にした令嬢。
元婚約者を十二分の一にして展示した令嬢。
ノースリッジ侯爵家の工房候補に釣られた令嬢。
どれも、だいたい合っている。
少しだけ言い方がひどいけれど、間違ってはいない。
だから私は、訂正しない。
ただ、もし誰かがこう言うなら、そこだけは直すつもりだ。
人形遊びをする女。
それは違う。
私は、縮尺にうるさい女である。
そして近いうちに、北向きの工房で、縮尺にうるさい妻になる予定だ。
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