婚約破棄された瞬間、全員の“好感度”が見えるようになりました——ただし嫌っていたのは王太子殿下だけだったようです
炎が揺れる燭台の列が、大広間の天井まで届きそうなほど高く連なっている。
招待客の衣装が白や金に光を弾き、笑い声と弦楽器の音が混じり合って、王城の舞踏会はその夜も華やかに幕を開けていた。
私——セシリア・ヴァルトハイムは、その賑わいの中で少し離れた壁際に立ち、グラスに口もつけないまま広間の様子を眺めていた。
婚約者であるレオニス王太子殿下の姿を探すためではない。
ただ、そうしていることが自分には一番似合うと、どこかで決めてしまっていたからだ。
五年。
婚約を結んでから、もうそれだけの時間が経つ。
その間、私は殿下の隣に立てる人間であろうと努力を重ねてきた。
作法、語学、政務の知識、外交時の立ち居振る舞い——ひとつずつ、地道に積み上げてきた。
それでも、殿下が私を見る目はいつも冷ややかで、会話は必要最小限にとどまり、二人でいる時間に温かさを感じたことは一度もない。
(やっぱり、私では足りないのだろう)
そう思いながら、今夜もここにいる。
「セシリア」
名を呼ばれ、振り返る。
レオニス殿下が近づいてくる。
その後ろには、淡いピンクのドレスをまとった少女——リナが、小さく笑みを浮かべながらついてきていた。
殿下の表情は、いつもと変わらない。
整った顔立ちに、何も宿していない目。
胸の奥で何かが静かに警告を鳴らす。
「話がある」
「……はい」
「君との婚約を、今夜をもって解消する」
大広間の音が、遠ざかった気がした。
グラスを持つ手が、少しだけ強張る。
周囲の視線がこちらに集まるのを、皮膚で感じた。
殿下は続ける。
「君は冷たい。
笑わない。
愛情というものが、君の中には存在しないのではないかと思うほどだ。
婚約者として五年間、私は君に歩み寄ろうとした。
しかし君は変わらなかった。
魅力も、温かさも、私には伝わってこなかった」
一言ずつが、静かに、しかし確実に胸に刺さる。
反論の言葉は出てこない。
そうだ、と思ってしまっているからだ。
(やっぱり、そうだったのだ。
私は、嫌われていた)
涙は出なかった。
それすらも、きっと「冷たい」と評されるのだろう。
自分でも、自分が何を感じているのかよく分からない。
そのことが悲しいのか、悔しいのかも判断がつかないまま、私は静かに頭を下げようとした。
その瞬間だった。
視界の端に、数字が浮かんだ。
最初は見間違いかと思った。
瞬きをしても、消えない。
レオニス殿下の顔のそばに、はっきりと数字が浮かびあがっている。
【レオニス=-80】
「……え?」
思わず声が漏れた。
殿下が眉をひそめる。
「何か言いたいことでも?」
「い、いいえ……失礼しました」
数字は消えない。
-80。
意味が分からなくて、でも視線を逸らすことができなくて、私はしばらく殿下の顔を見つめ続けた。
そして気づく。
殿下の隣に立つリナの顔のそばにも、数字が出ていた。
【リナ=+45】
後ろに立つ侍女にも。
【マリア(侍女)=+72】
広間の至るところに、数字が浮かんでいる。
人が目に入るたびに、その顔のそばに数値が現れた。
+40、+55、+61——。
混乱しながらも、私はひとつのことに気づいてしまう。
(マイナスの数字は……殿下だけ?)
「セシリア。返答を聞いていない」
殿下の声で、我に返る。
婚約破棄への返答を、求められている。
私は深く息を吸い、できる限り落ち着いた声で答えた。
「……承知いたしました。
婚約の解消、受け入れます」
殿下は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。
引き留めるとでも思っていたのだろうか。
リナが小さく「よかった」と呟く声が聞こえた。
その顔のそばに浮かぶ【+45】という数字を、私はもう一度確認する。
周囲の貴族たちに目を向けると、+63、+58、+70という数字が並んでいた。
マイナスの数字は、どこにも見当たらない。
(どういう、こと……?)
―――
その夜、自室に戻ってからも眠ることができなかった。
婚約破棄という事実が、じわじわと輪郭を持ち始めている。
しかしそれ以上に、視界に焼きついた数字が頭から離れない。
窓の外、月明かりが庭を白く照らしていた。
そのぼんやりとした光の中で、私はこの力の正体を考えた。
試しに、部屋の外へ出てみる。
廊下に立つ衛兵の顔のそばに、すぐに数字が現れた。
【衛兵=+68】
廊下を歩く。
深夜にもかかわらず、城の中は静かながらも人の気配がある。
台所の方向から灯りが漏れていて、私は吸い寄せられるようにそちらへ向かった。
台所では、老いた料理長と若い下働きの少女が後片付けをしていた。
二人の顔のそばに、数字が浮かぶ。
【料理長=+80】
【下働き(アンナ)=+75】
「あら、セシリア様!」
アンナが顔を上げた。
目が丸くなっている。
「こんな時間にどうなさったんですか。今夜は……大変でございましたね」
婚約破棄のことは、もう城中に知れ渡っているのだろう。
私は静かに答えた。
「少し、喉が渇いてしまって」
「すぐにお持ちします!」
アンナがあわてて動き出す。
ベルナール料理長は、私の顔をじっと見てから、ゆっくりと頷いた。
「セシリア様。今夜のことは……つらい思いをさせてしまいましたね」
「いいえ。気にしていただかなくて結構です」
「気にしますよ」
料理長の声は穏やかで、しかし揺るぎない。
「私はこの城に三十年おります。多くのご令嬢をお傍で見てきましたが、セシリア様ほど誠実なお方はいらっしゃいませんでした。
台所の者の名前をすべて覚えていてくださって、細かいことにも気を配ってくださって……」
喉が、少し詰まった。
でも涙は出ない。
私はただ、ベルナールの顔のそばに浮かぶ【+80】という数字をじっと見ていた。
(+80。
これは……本心、なのか)
この力が示すのが"本心のみ"だとしたら。
この老いた料理長は、本当に、私をそれほど評価してくれているというのだろうか。
翌朝、私は試みることにした。
できるだけ多くの人間と話して、数字を確認する。
婚約破棄の翌日などという状況だったが、城の中の人々は普段通りに動いていた。
廊下で出会う使用人たち。
【侍女頭=+83】
【馬丁=+71】
【洗濯係=+66】
数字は一様に、高い。
そして何より、マイナスの数字が出ない。
午前の謁見室で顔を合わせた貴族たちも同様だった。
ヴァルナー侯爵【+62】、エスタ子爵夫人【+58】、王宮の法務官【+55】——。
私の中で常識のように思っていたことが、少しずつ揺らいでいく。
(私は……ずっと、嫌われていると思っていた)
そうでしかありえないと、信じて疑わなかった。
感情を上手く表に出せない。
笑顔が少ない。
言葉が足りない。
そういう自分は、きっと周囲に疎まれているのだと。
だから王太子殿下の言葉も、ある意味では予想の範囲内だった。
「やっぱりそうだったか」と思えてしまうほどに、私は自分が嫌われていることを確信していたのだ。
でも——これは何だ。
【侍女頭=+83】
この数字は、嘘をつかない。
「セシリア様」
声をかけられ、顔を上げた。
ヘレナが、少し心配そうな表情で近づいてくる。
「昨夜は本当に……ご無礼な扱いを受けられましたね。
私たちは皆、憤慨しておりますよ」
「ヘレナ」
「は、はい」
「あなたは……私のことを、どう思っていましたか?」
ヘレナが目を丸くした。
しばらく沈黙してから、静かに答える。
「この上なく、尊敬しております」
「……なぜ?」
「なぜ、とおっしゃられても」
ヘレナは少し困ったように笑ってから、続けた。
「セシリア様は、いつも正確で、いつも誠実でいらっしゃいます。
感情をお出しにならないのは、冷たいからではなく、周囲を乱さないためだと——私どもはずっとそう感じておりました。
殿下が何とおっしゃろうと……私たちの見方は変わりません」
喉の奥が、じわりと熱くなる。
でもやはり、涙は出なかった。
私は「ありがとう」とだけ言って、廊下を歩き続けた。
(嫌っていたのは……王太子殿下、だけ……?)
その問いが、頭の中で何度も繰り返される。
-80という数字が、殿下の顔のそばに浮かびあがる瞬間を、私は何度も思い出していた。
過去のことを、考えた。
五年間。
殿下の隣に立つために積み重ねてきた時間を、今さらのように振り返っていた。
語学の勉強のために夜遅くまで灯りをつけていた部屋。
作法の練習で何度も転んだ石畳の廊下。
外交の場で言葉を間違えないよう、何度も何度も口の中で繰り返した台詞。
それらすべてを、私は「殿下に認めてもらうため」にやっていた——と思っていた。
いや、正確には違う。
「殿下に嫌われないため」だった。
最初から、私の努力の根底にはその恐れがあったのだ。
嫌われている。
だから努力しなければならない。
努力しても足りない。
だからもっとやらなければならない。
そういう螺旋の中に、ずっといた。
「セシリア様、少しよろしいですか」
顔を上げると、若い侍従のディエゴが立っていた。
彼の顔のそばに浮かぶ数字は、【+69】。
「先日のエスタ子爵邸での晩餐の件で、ご確認いただきたいことが……」
「ええ、何でしょう」
「セシリア様がご提案くださった席次の変更、あれのおかげで先方のご令嬢が随分と喜ばれまして。
ご本人から、感謝の手紙が届いておりました」
小さな気遣いだった。
席次を決める際、私は先方の令嬢が以前に揉めた相手と隣席にならないよう、こっそり配置を変えていた。
誰にも言わずに、ただそうするのが当然だと思って。
「それは……よかったです」
「セシリア様はいつもそういうことに気づかれる。
本当に……このお城に必要な方だと、皆が思っておりますよ」
ディエゴはそれだけ言って、礼をして去っていった。
その背中を見送りながら、私は自分の胸の中を探った。
(皆が、そう思っている?)
信じられなかった。
五年間、そんなふうに思われているとは、一度たりとも考えたことがなかったのだ。
感情を出せない自分。
笑顔が少ない自分。
言葉が足りない自分。
そういう自分は「不足している」のだとばかり思っていた。
でも——。
もしかしたら私はずっと、「自分を正しく見ていなかった」のかもしれない。
―――
その午後、リナが私を訪ねてきた。
淡いピンクのドレス。
柔らかく波打つ金髪。
どこにいても場を明るくするような、天性の愛嬌を持った少女。
彼女の顔のそばに浮かぶ数字は、昨夜と変わらず【+45】だった。
「セシリア様、昨夜は……本当に驚きましたわ」
リナは眉を少し下げて、心配そうな顔をしている。
その表情は完璧に「申し訳なさそう」に見えた。
「ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ございません。
私、殿下があんな形でおっしゃるとは思っていなかったので……」
「気になさらないでください」
「でも……」
リナの目が、ちらりと何かを探るように動いた。
ほんの一瞬のことで、すぐに柔らかい表情に戻る。
私の中で、何かが引っかかった。
この力は、目の前にいる人間の本心を数字で示す。
ならば——リナの周囲の人たちは、どう見えているのだろう。
昨日の舞踏会の場面を、頭の中で再現する。
リナの周囲にいた貴族の子女たち。
彼女たちがリナを見る時の数字は——。
確かに、高い人もいた。
+60、+55。
でも中には+20という数字の人もいた。
表向きは仲良さそうに笑っていたのに、数字は驚くほど低かった。
そして一人——リナに向かって「素敵なドレスですわね」と言っていた令嬢の数字は、【-30】だった。
(建前は無効……本心のみ、か)
この力の恐ろしさを、改めて実感する。
表の顔と、数字が一致しない。
リナは愛嬌がある。
誰にでも笑顔を向ける。
でもその笑顔が向けられた相手のすべてが、同じように彼女を好いているわけではないのだ。
そして——リナ自身の数字も、気になっていた。
彼女は今、私に向かって心配そうな表情を向けている。
その顔のそばにある数字は、【+45】。
昨夜から変わっていない。
+45というのは、悪い数字ではない。
でも「心配している」という表情と、+45という数字の間には、微妙なずれがある気がした。
「セシリア様、これからどうなさるおつもりですか?」
リナが問う。
「まだ、決めていません」
「そうですか……」
リナはそっと目を伏せた。
その仕草は美しく、どこか絵画の中の人物のようだった。
でも私の目には、数字が見えている。
(+45。
この人は……私のことを、そこそこ気にかけている程度なのか)
完全に計算しているわけではないと思う。
リナはきっと、根本的に悪い人間ではない。
ただ——彼女は、感情よりも先に「どう動けば得か」を考える人なのかもしれない。
その違いに気づいた時、私は不思議と怒りは感じなかった。
ただ静かに、「そういう人なのだ」と理解した。
リナが部屋を出ていった後、私はひとり窓辺に立った。
城の庭に、午後の光が長く伸びている。
(私は……本当に何も、見えていなかったのだな)
五年間、ずっと。
周囲の人間が自分をどう見ているか、一度も正面から考えようとしなかった。
嫌われているという結論を先に持っていて、それを証明するような出来事だけを拾い集めていたのかもしれない。
レオニス殿下の冷たい視線。
足りない、足りない、と囁き続けた自分の声。
それ以外は、すべて見えていなかった。
【ベルナール=+80】
【ヘレナ=+83】
【ディエゴ=+69】
数字が、脳裏に浮かんでは消える。
これは本心だ。
この力はそう言っている。
(嫌われていなかった……?
私は……最初から、嫌われていなかった?)
答えは、もう出ているのかもしれない。
ただ私がそれを、受け取る準備ができていなかっただけで。
翌日もまた、数字は消えなかった。
朝、目を覚ました瞬間から視界の端にそれは存在していて、顔を見れば数字が浮かぶ。
侍女のマリアが部屋に入ってきた時、【+72】という数字が見えた。
昨日と変わらない。
いや——昨日より、少しだけ意味が分かるようになっている気がした。
「セシリア様、本日のご予定をお伝えに参りました」
マリアが丁寧に頭を下げる。
私はその顔を見て、以前とは少し違う問いかけを口にした。
「マリア。あなたは……私が好きですか?」
マリアが目を丸くした。
頬がわずかに赤くなっている。
「突然、何をおっしゃるんですか……」
「教えてください」
しばらく沈黙があった。
マリアは口を開いたり閉じたりしてから、やがて静かに言った。
「……好きです。
とても」
「どうして?」
「どうして、と聞かれると……」
マリアは少し考えてから、続ける。
「セシリア様は、私が粗相をしても怒鳴ったことが一度もありません。
どんなに忙しくても、必ず私の名前を呼んでくださいました。
そういう方は、そうそういらっしゃらないんです」
私はその言葉を、ゆっくりと飲み込んだ。
名前を呼ぶ。
それは当然のことだと思っていた。
目の前にいる人間の名前を呼ばないほうが、不自然ではないか。
でもマリアにとっては、そうではなかったのかもしれない。
その日の午後、私は王宮の廊下を歩きながら、これまで接してきた人々のことを思い返していた。
五年間の記憶をたどっていくと、不思議なほど鮮明に蘇ってくる場面がある。
外交晩餐で、緊張のあまり震えていた若い侍従に小声で段取りを確認してあげた夜。
体調を崩した使用人の分を、こっそり申請書類で補っていた朝。
面会を求める市井の人々の嘆願書を、一通ずつ丁寧に読み込んでいた午後。
どれも、誰かに見せるためにやっていたことではなかった。
ただ、そうするのが当たり前だと思っていたからやっていた。
「セシリア様」
廊下の角を曲がったところで、ヴァルナー侯爵に声をかけられた。
初老の貴族で、王宮では古参の一人だ。
彼の顔のそばには【+62】の数字が浮かんでいる。
「少しよろしいですか」
「はい」
侯爵は周囲を確認してから、声を落として言った。
「昨夜のことは……殿下のご判断に、多くの者が疑問を持っております。
私もその一人です」
「お気遣いありがとうございます」
「気遣いではありません」
侯爵の声に、力が籠もる。
「この五年、セシリア様がどれほど丁寧にお仕事をこなされてきたか、私どもはずっと見ておりました。
感情をお見せにならないのは知っておりますが……それでも、いや、だからこそ、あなたへの信頼は揺るぎないものです。
王宮の多くのことが、あなたがいたから回っていた——そう申し上げても、言い過ぎではありません」
(……あなたがいたから、回っていた)
その言葉が、胸の中でゆっくりと沈んでいった。
私は長い間、自分は「必要とされている」ではなく「まだ許容されている」のだと思っていた。
足りない自分が、なんとか許されながら存在している。
そういう感覚の中に、ずっといた。
でもそれは——違ったのか。
「ありがとうございます、侯爵」
「どうか、お体に気をつけて」
侯爵が礼をして去っていく。
私はその背中を見送りながら、自分の手のひらをじっと見た。
(私は……嫌われていなかった。
本当に、嫌われていなかった)
言葉にすると、どこか他人事のようだった。
それほどに、「嫌われている自分」というのが自分の中で当たり前になっていたのだと気づく。
その当たり前が、今、静かに崩れていく。
そしてふと、もう一つのことが気になり始めた。
レオニス殿下の-80という数字の理由だ。
あの数字は何だったのだろう。
「冷たい」「愛がない」「魅力がない」と言われた。
でも他の誰も、私にそんな評価をしていない。
使用人も、貴族も、すれ違った市民でさえ、軒並み+50を超える数字を向けてくれている。
なぜ殿下だけが、-80だったのか。
私は記憶を整理することにした。
五年間、殿下と私の間に何があったか。
意識的に振り返ってみると——奇妙なことに気づく。
殿下が私に対して冷淡になったのは、最初からではなかった。
婚約当初の一年ほどは、まだ普通に話せていたと思う。
変わり始めたのは——確か、外交の交渉の席だった。
殿下が「この案で行く」と判断された案件に、私が静かに異議を唱えた時。
感情的に反論したのではない。
ただ、数字と事例を示して「このルートは相手国にとって不利益が大きく、長期的に関係が悪化する可能性があります」と、事実を並べただけだった。
結果として、私の意見の方が正しかった。
殿下の案は取り下げられ、代替案が採用された。
その後から、殿下の態度が変わり始めた。
(……そういうことか)
静かに、でも確実に、何かが腑に落ちた。
殿下は「自分の思い通りにならない」ことが、気に入らなかった。
私が反論したから。
私が正しかったから。
それが——嫌いになる理由だったのか。
「冷たい」
「愛がない」
「魅力がない」
あの言葉は、私の欠点を指摘していたのではなく——。
単に、殿下個人の感情から来ていただけだったのではないか。
(-80は、私への評価ではない。
あれは……殿下自身の、ただの感情だった)
その考えに至った時、私の中で何かが静かに変化した。
怒りでも悲しみでもない。
もっと冷静な、澄んだ感覚。
「そういう人だったのだ」という理解が、ゆっくりと広がっていく。
―――
三日後、使いが来た。
「殿下がお呼びです」
短い言葉だった。
私は少しだけ目を閉じてから、「承知しました」と答えた。
謁見室の扉を開けると、レオニス殿下がそこにいた。
いつも通りの、整った立ち姿。
その顔のそばに浮かぶ数字を、私は確認した。
【レオニス=-60】
三日前の-80より、上がっている。
でも、まだマイナスだ。
「来たか、セシリア」
殿下の声は穏やかだった。
少なくとも、三日前よりは。
「はい」
「……今回のことは、少し早まった部分があったかもしれない」
殿下が、視線を外しながら言う。
私は黙って続きを待った。
「君を傷つけるつもりはなかった。
ただ、その……伝え方が、よくなかったのかもしれないと」
「左様でございますか」
「戻ってこい、セシリア」
室内に、しばらく静寂が広がった。
殿下は私を見ていた。
いつもと違う目だと思った。
少しだけ——焦りのようなものが、見える気がした。
私は殿下の顔のそばに浮かぶ数字を、もう一度確認した。
【レオニス=-60】
変わっていない。
本心は、変わっていない。
「誤解だったと気づいた。
君のことを、私は……正しく見ていなかったのかもしれない」
言葉は、悪くない。
むしろ、殿下がここまで言葉を尽くすことは珍しいとさえ思う。
でも数字は-60だ。
言葉と本心の間に、大きな溝がある。
(本心が変わっていない……)
私はその事実を、静かに受け取った。
怒りはなかった。
ただ——これで、はっきりした。
「殿下」
「何だ」
「一つだけ、確認させてください」
「……ああ」
「殿下が私を嫌いになったのは、私が殿下の判断に異議を唱えたからですか?」
室内の空気が、微かに変わった。
殿下の目が、わずかに揺れる。
「何の話だ」
「五年前、エスタ外交交渉の席でのことです。
私が数字を示して、殿下の案に代替案を提示した時——あれ以来、殿下のお態度が変わりました」
殿下は何も言わない。
その沈黙が、答えだった。
「それ以来、私は何をしても『足りない』とおっしゃっていました。
でも今になって思うのです。
殿下が見ていたのは、私ではなかったのではないかと」
「……何が言いたい」
「殿下が嫌っていたのは、『自分の思い通りにならない存在』としての私です。
人間としての私を、殿下は一度も見ようとしてくださいませんでした」
殿下の顔に、何かが走った。
否定の言葉が出てくるかと思った。
でも殿下は、黙っていた。
私は深く息を吸う。
この五年間の、すべてが胸の中にある。
努力した夜も。
嫌われていると思い込んでいた朝も。
全部、ここにある。
「殿下」
「……なんだ」
「私は最初から、あなた以外には評価されていました」
言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど声が落ち着いていた。
震えもなく、涙もなく、ただ静かにそこにある事実として、私はその言葉を殿下に渡した。
レオニス殿下は、しばらく黙っていた。
整った顔に、初めて見る種類の表情が浮かんでいる。
戸惑い、とでも言えばいいのか。
それとも——動揺、だろうか。
「……それは」
「使用人も、侍女も、料理長も、ヴァルナー侯爵も、エスタ子爵夫人も」
私は続ける。
「五年間、私はずっと嫌われていると思っていました。
だから努力した。
だから足りないと思った。
でも違いました。
嫌っていたのは——殿下だけでした」
「セシリア、それは」
「事実です」
殿下の言葉を、静かに遮った。
これまで殿下の言葉を遮ったことなど、一度もなかった。
でも今は、そうする必要がある気がした。
「殿下が私に伝えた言葉は、私の欠点ではありませんでした。
冷たい、愛がない、魅力がない——それらはすべて、殿下個人の感情から来ていた言葉です。
周囲の誰一人、私にそういう評価をしていません」
「……証拠でもあるのか」
「あります」
そう言ってから、少しだけ笑いたくなった。
証拠など、この視界に広がる数字だけだ。
でもそれを殿下に伝える方法はない。
だから——言葉で伝えるしかない。
「殿下、私に直接聞いてみてください。
城の誰でも構いません。
私のことをどう思っているか、と。
その答えが証拠です」
殿下はまた黙った。
その沈黙の中に、何かが揺れているのを感じた。
否定できない、という揺れだと思った。
「…………戻ってくる気はないのか」
「ありません」
即答だった。
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「殿下が求めているのは、殿下の思い通りになる誰かです。
それは私ではありません。
そして——私は、そういう人間になるつもりもありません」
殿下の顔のそばの数字が、目に入った。
【レオニス=-60】
変わらない。
復縁を求めながら、本心はまだマイナスのまま。
言葉と内側が、一致していない。
これが答えだと、私は思った。
「殿下が見ていたのは、私ではありません」
もう一度、はっきりと言った。
今度は殿下に向けてではなく——五年間の自分に向けて、言っている気がした。
あの夜から今日まで、ずっと「足りない」と思い続けてきた自分に。
嫌われていると確信して、それでも諦めずに積み上げてきた自分に。
誰にも評価されていないと思い込んでいた、あの自分に。
(あなたは、ちゃんと見られていたよ)
そう、言ってやりたかった。
「失礼いたします」
私は深く礼をして、謁見室の扉に向かった。
殿下が何かを言いかけた気配があったが、私は振り返らなかった。
扉を開けて、廊下に出る。
外の光が、目に眩しかった。
―――
その日のことが、城の中に広まるのは早かった。
翌朝にはすでに、廊下を歩く人々の視線が変わっているのを感じた。
使用人たちの顔のそばに浮かぶ数字は、どれも以前より高くなっている。
【マリア=+79】
【ソフィア=+74】
【トーマス=+76】
昨日まで+68だったトーマスが、+76になっていた。
何があったのかは分からない。
ただ、何かが変わったのだろうと思った。
「セシリア様!」
廊下の角から、アンナが走ってきた。
息を切らせて、頬を赤くして、どこか興奮したような顔をしている。
「今朝のお話、城中で広まってますよ!
殿下に、そんなことをおっしゃったんですか!」
「少し、伝えたいことがあっただけです」
「すごいです!
みんな、すごいって言ってます!」
アンナの顔のそばには、【+80】の数字が浮かんでいた。
昨日と変わらない。
でもその表情は、昨日より何倍も明るい。
「私、ずっと思っていたんです。
セシリア様はもっとご自分のことを言ってもいいって。
何でも一人で抱えて、何も言わないから……心配してたんです」
「……そうだったのですね」
「はい!」
アンナが元気よく答えて、また走っていった。
その背中を見送りながら、私は静かに息をついた。
侯爵たちの反応も、その日のうちに伝わってきた。
ヴァルナー侯爵からは短い手紙が届いた。
「当然のご判断です。我々はセシリア様を支持いたします」という、簡潔な一文だった。
エスタ子爵夫人は直接廊下で声をかけてきて、「あなたのような方が正しく評価される場所へ行けることを、心から願っています」と言った。
その顔のそばには、【+63】の数字が静かに浮かんでいた。
一方、殿下の周囲では少しずつ、目に見えない変化が起き始めていた。
謁見の場での貴族たちの態度が、以前とわずかに違う。
表立って変わったわけではない。
でも私には数字が見えるから——分かってしまう。
殿下の周囲に集まる人々の数字が、全体的に少しずつ下がっていた。
【近衛騎士長→殿下への視線:+30】
【法務官→殿下への視線:+28】
以前から高い数字ではなかったのだろう。
でも今回のことで、さらに下がっている。
信頼というものは、積み上げるのに時間がかかって、崩れるのは一瞬なのかもしれない。
(殿下は……ご自分が何を失ったか、まだ分かっていないのだろうか)
私はその問いを、頭の中で一度だけ転がした。
そして、手放した。
もうそれは、私が考えることではない。
―――
婚約破棄から、七日が経った。
私はヴァルトハイム家の屋敷に戻り、これからのことを考えながら窓辺に座っていた。
庭に、初夏の風が吹いている。
木の葉が揺れて、光がその隙間からこぼれていた。
不思議と、穏やかだった。
悲しくないわけではない。
五年間という時間は、確かにそこにあった。
努力した日々も、孤独だった夜も、全部本物だった。
それが無駄だったとは思わない。
ただ——方向が、少し間違っていただけだ。
ふと、試してみたいことがあった。
鑑の前に立つ。
自分の顔を、正面から見る。
そしてゆっくりと——自分自身の顔のそばに浮かぶ数字を、探した。
この力が"誰に対しても"働くなら、自分自身に対しても同じはずだ。
後半になってから、ずっと気になっていたことだった。
数字が、浮かんだ。
【セシリア(自己評価)=-20】
予想はしていた。
でも実際に目にすると、胸の奥に小さな痛みがあった。
マイナス20。
嫌悪するほどではないけれど、自分のことをあまり好きではない。
それが今の私の、正直な本心らしかった。
(……そうか)
私は鏡の中の自分を、しばらく見つめ続けた。
五年間、ずっとそうだったのだろう。
自分が嫌われていると思い込んでいたのは——もしかしたら、自分自身が自分をあまり好きではなかったからかもしれない。
自分への評価が低いから、他者の評価も低く見積もってしまっていた。
ベルナール料理長の+80も、ヘレナの+83も、ディエゴの+69も——最初は信じられなかった。
それは、私が自分に-20しかつけていなかったから当然のことだったのかもしれない。
(私は……自分のことを、ちゃんと見ていなかった)
他者を正しく見ようとしながら、自分だけ見ていなかった。
いや、見ようとしなかった、のかもしれない。
鏡の中の自分が、少し遠く見えた。
五年間を共に過ごしてきた、この顔。
笑顔が少ないと言われた顔。
感情が見えないと言われた顔。
でも——使用人の名前を覚えて、席次に気を配って、嘆願書を一通ずつ読んだのも、この顔の持ち主だ。
「……ありがとう」
声に出して、言ってみた。
鏡の中の自分に向かって。
五年間、折れずにいてくれたことへの礼として。
喉の奥が、また少し熱くなった。
今度は——泣いてもいい気がした。
ゆっくりと瞬きをしても、涙は出なかった。
出なかったけれど、それでいいと思った。
涙が出ることが感情の証明でも、出ないことが冷たさの証明でもない。
私はそういう人間で、それが私だ。
窓の外で、鳥の声がした。
初夏の庭に、光が満ちている。
私には、これからすることがある。
王宮での五年間で積み上げた知識と経験は、私の中にある。
政務の知識、外交の素養、人を見る目——使いどころは、きっと他にもある。
殿下の婚約者としてではなく、ただセシリア・ヴァルトハイムとして、この力を使える場所が。
扉をノックする音がした。
「どうぞ」と答えると、ヘレナが顔を出した。
「セシリア様、エスタ子爵夫人よりお手紙が届いております。
お時間のある時に、ぜひお会いしたいとのことで」
「分かりました。
後ほど返事を書きます」
「はい」
ヘレナが扉を閉める前に、私は声をかけた。
「ヘレナ」
「はい?」
「長い間、ありがとう」
ヘレナが目を細めた。
その顔のそばに浮かぶ数字は——【+85】だった。
昨日より、少しだけ上がっていた。
扉が閉まる。
私は鏡から離れて、窓辺の椅子に戻った。
庭の光の中で、木の葉がまた揺れている。
視界の端に、数字が浮かんでは消える。
この力がいつまで続くのかは分からない。
でも今はまだ、必要なのかもしれないと思っていた。
自分が正しく見えるようになるまで——もう少しだけ、この数字と共にいよう。
私はようやく、自分を正しく見ることができた。
他者の本心が見える力を手に入れたことで、私が本当に気づいたのは——「自分がどれほど見られていたか」ではなく、「自分がどれほど自分を見ていなかったか」という事実だったのかもしれない。
窓の向こうに、広い空がある。
初夏の、澄んだ青い空。
私はそれをしばらく眺めてから、机の上の便箋に手を伸ばした。
エスタ子爵夫人への返事を、書こう。
自分の言葉で、自分の字で。
それが——今日からの、始まりだ。
終幕




