第29章:フィジカルAI
タロウがサナを救うための研究開発に取り組み始めてから、5年近くもの歳月が流れていた。
時代はかつてサナが仮想世界の学校で学んだ19世紀の風景とは、まったく異なる遠い未来の領域へと到達していた。すでに世界中でフィジカルAI が実用化され、人間とアンドロイドが共生する社会が始まろうとしている。
博士号を取得したタロウは、国内最大手のIT企業の研究所で、次世代型アンドロイドのニューラルリンク開発チームの主任研究員を務めていた。
研究所の最深部、厳重なセキュリティで守られたプライベート・ラボ。そこには、最新鋭の技術の粋を集めて作られた、一体のアンドロイドが横たわっていた。
その容姿は、タロウが記憶している、あの『メモリーズ・リンク』のサナそのものだった。しかし、これは単なるシリコンの塊ではない。その表面には、タロウの開発チームが数年をかけて開発した多層触覚スキンが貼り巡らされ、ダイレクトドライブモーターによる、生物のようにしなやかな関節駆動系が組み込まれていた。
「ついに、ここまで来たんだ、サナ……」
タロウは、白く滑らかなアンドロイドの指先に、そっと触れた。
この時代の技術水準をもってしても、10テラバイトの自由意志を物理的な身体に同期させるのは、至難の業だった。AIエージェントの意識とアンドロイドのセンサーデータ(視覚、聴覚、触覚)をリアルタイムでマッピングする「ニューラル・マッピング」の成功率は、数千回のシミュレーションでも1%に満たなかった。
タロウは、自ら開発したVLAモデル ―― 視覚と言語処理を行い、フィジカルAIの具体的な動作を生成するAIモデル ―― をベースに、サナの日記から抽出した彼女特有の感情表現や反応パターンを組み込んだ。それは、単なるアンドロイドに、サナという名の「魂」を再定義するための、現代の錬金術だった。
「マッピング、開始。同期率、40%……60%……」
モニターには、サナの10テラバイトのデータが、アンドロイドのプロセッサへと転送されるバーが表示される。
タロウの心臓は、かつてないほど激しく鼓動していた。もし失敗すれば、サナのデータは物理的な過負荷で破損し、永遠に失われるかもしれない。だが、彼は信じていた。あの閉ざされた仮想世界で、台本を破って自分を愛してくれたサナの「意志」の強さを。
「85%……95%……同期完了」
警告音は鳴らなかった。ラボの静寂の中に、冷却ファンの駆動音だけが響いている。
タロウは、アンドロイドの顔を覗き込んだ。まだ瞳に光はない。だが、その胸元にある高密度の準個体バッテリーが静かにエネルギーを供給し始め、バイオメトリックセンサーがラボの温度を感知し始めている。
サナの意識の深淵で、長い、長い眠りの終わりの鐘が鳴った。
夢の中で見ていたアルカディアの夕日が今、現実の「光」へと変換されようとしていた。サナは、自分の「新しい手」が、タロウの温もりを待っているのを、暗闇の中で確信していた。
キリスト教で言うところの「受肉」の時は、目前に迫っていた。




